人は「アウトプット」でできている
私は、人というのは「アウトプット」でできてきると思っています。
違う言い方をすると、
「アウトプット」だけが、相手から見たその人の全てとも言えます。
本当は、そうではないのかも知れませんが、
相手の何を見てその人を判断するかとなると、「アウトプット」以外に、その人を判断する手立てがありません。
なぜ「情報発信」ではなく「アウトプット」にしているかというと、
情報発信している時以外でも、
例えば、人の話を聞いている時の、聞いている側の、顔つきや仕草や所作一つ、
それらは、自分以外の人からしてみれば、そっくりそのまま、その姿を「アウトプット」していることになり、
「あの人は、人の話をちゃんと聞いてくれる人だ。」
あるいは、
「あの人は、人の話をまったく聞かない人だ。」
と勝手に判断します。
話をしようが、話を聞いている側であろうが、
その姿や、言葉や、文字という情報は、相手からしてみれば全て「アウトプット」となります。
そして、勝手に相手の人格を決めてしまいます。
心の中で泣いていても、顔で笑って、はしゃいでいれば、
それを完璧に演じて魅せれば、笑顔で明るい人になるし、
嘘がバレれば、無理して誤魔化している人になって、
相手からは、そっくりそのまま、「アウトプット」のまま、そういう人という判断になります。
このブログは、私が情報発信して、私の画像や文章で、私をアウトプットしているわけで、
それがどう判断されるか?は、全ては読んだ側に判断され、私の性格や人格は決められます。
このブログを読んだ人が、何らかを返信してくれたとして、その内容が、
「ツヴォイはバカだ。」
というAさんという人がいたら、私はAさんは、そういうことを言う人だと判断します。
本当は、普段はそう言うことなど言わない人だったとしても、私は、そういうことを言う人だとしか判断ができません。
逆に、
「ツヴォイは最高だ。素晴らしい。」
と言うBさんという人がいても、私は、Bさんはそういうことを言える人だと判断します。
本当の本性は胸糞悪いような人だったとしても、私はその人のことをそうとしか判断できません。
要するに、誰かの発信に対する返信や、コメントも、別の誰かの「アウトプット」ということになって、
その「アウトプット」は、そのままその人の、人となりを、別の誰かから決められてしまうということですね。
お年寄りに席を譲る人を見たら、その人は優しい人だと勝手に判断するし、
どんなに心が綺麗だと口で言い張っていても、動物を虐待している人を見たら、その時点で人間以下のクソ野郎になります。
顔一つ、見た目、仕草、所作、ファッション、まばたき、目の動き、立ち振る舞い、といった非言語情報に始まって、
使う言葉、イントネーション、文字、文体、絵文字の使い方、に至るまで、
その全ては、その人の「アウトプット」となり、
時にアウトプットしている本人の意に反して、他人に一方的に判断される可能性も含めて、
「アウトプット」というのは、その人の全てを相手に決められてしまいます。
私の場合で言うと、人前に出る時は、それがリアルであれ、リモートであれ、
その直前までは、口から胃が飛び出るほどに緊張したりします。
でも、それを話すと、多くの人は「そんな風には見えない。」と驚かれます。
逆に、「今日は本当にリラックスして自分らしく話ができた。」と自覚している時に、
「ツヴォイさん、今日はいつになく緊張していましたか?」と聞かれて、驚くこともあります。
聞いてくれれば、いやいやそんなことはないよ、とか何とか言って、自分の胸中を伝えようとできるのですが、
ほとんどの場合は、勝手に相手に判断されて、それで終わりです。
それは、相手によってももちろん変わりますが、その評価がどうあれ、悲しいかな、それが全てであり、
あとは、肯定的に受け取られたか、否定的に受け取られたか、その人数の割合がどうだったか?というだけのことになります。
人は、だから、多くの人前で矢面になって自分をアウトプットするのを嫌がるのだと思います。
プライベートであれば、自分の前から人が去っていくのは、誰もが辛いと感じるでしょうし、傷つくのだろうし、
ビジネスであれば、それが、そっくり「客数」という生命感とも言える結果を出してしまうわけで、死活問題にもなると言えます。
実に残酷ながら、要するに、人は見た目がどうかだけで、社会における評価や成果や、得られる有形無形の財産が決まってしまうという側面は、
確実に存在しているという、それを言うとシャレにならないようなことは現実だと思っているし、
自分というものをしっかり客観視して、自分というものを理解しておかないと、自分の何を出すことが最も有効かが分かりません。
そういう意味では、ブログ記事であれ、ライブ動画であれ、
自分という存在を見返すということは、残酷なれど、とても大切な訓練だとも言えます。
もし、自分が、欲しい成果や得たい目標があるのなら、
私の知る限り、最も効率の良い方法はあります。
すでに、その成果を出していたり、目標設定している人の「アウトプット」を、
できる限り、そっくりそのまま真似てしまうことです。
経験上、それが一番効果的かつ効率的ではありますね。
私達は、自分以外の理想や憧れとする誰かを真似て、学ぶしかありません。
ただ、どんなに真似ようとしても、他人の心の中や頭の中まで、完璧に一緒になれることはありません。
よって、何を真似て学ぶことができるかと言えば、
相手の「アウトプット」している現象を真似て、学ぶことしかできないのだろう、
と私は思っています。
もし、成果を上げたいのなら、すでにその上げたい成果を出している人のやっていること、
すなわち「アウトプット」していることを、
自分の考えやコダワリなどつべこべ言わずに、まずは現象たる型から真似てみる、
それがすぐにできるスタートなのではないか?
と私は思っています。
もし、私が思うような成長スピードと成果が得られていないとしたら、
私が、私のやりたいようにという、いらぬ自我があるからなのだろうな、と思うしかないし、
それを取るなら、成果は諦めるリスクは持つべきなのでしょう。
そこまで分かっていても、人は簡単には変われないのだとも思います。