憧れと絶望のファッション哲学・89「オリジナルペイント・レザージャケット」


未来の結果に対して、前提となる意図があって、何かをするのだけど、
前提となる意図と結果が一致するとは限らないわけで、
結果が出た時に、前提とした意図は正しかったかどうかは検証する必要があるのは分かるけど、
検証したところで、果たしてそれは、本当に正しい検証と言えるのか?という泥沼はあって、
私は、それを、レザージャケットに思い切ってオリジナルペイントを施した時と、その後に起こった出来事が意図通りだったか見ようととする時に置き換わったりします(苦笑)。
その結果、自分の未来予測がいかに正しかったかを認識したい行為時代、とても愚かで、
単に、やりたいからやってしまった感情を、いかに正当性を持たせたいだけなのだろうと思えるに至り、
それで凹むことは不毛だと思うようになりました(笑)。
描きたいから、描いただけ(笑)。
確立されるのは「自分不要論」か(苦笑)
「Sora」が終了する報を受けて、フと思ったのが、
この一年近く、ずっとAIで画像や動画を創るのをブン回し続けてきて、
気が付いたら、ほとんど手描きのお絵描きを自分でしていないことに気づいて、
もし、仮に全てのAIが吹っ飛んだら、気が付いたら絵が描けなくなっていた、なんてことになったら、
それは本来やりたい事や、生きる楽しさに対して本末転倒になると思って、
そういう動画をAIで創ってみようと思ったら、
AIで作ったTOSBOIキャラが、AIの中で描いているイラストの方が、
生の私の手描きより、全然うまいじゃねーか?(笑)
AIの画像や動画生成は、全く絵なんて描けなかった人でも、あたかもスゴイ絵や動画がアウトプットできてしまうことにあるわけで、
だから誰でもやり出して、飽和して、無価値になるから、そうではない自分の「何か」がいる、なんてことは、誰でも言うんだけど、
こうやってみると、私の存在なんてのは必要ない訳で(笑)、
経営における、無能な経営者と同じく、
益々、世の中の、こと生産性においては「自分不要論」が成立する実感を得ています(笑)。
そういえば、昔、「問屋不要論」ってのがあったな(苦笑)。
問屋どころか自分(苦笑)。
もしかしたら、生き残れている「問屋」機能の会社があるとしたら、それは現代ビジネスの重要なヒントがあるのかもしれませんね(笑)。