刹那的な感情のままただ生きてるだけなのはダメらしい(苦笑)
GWの、喧騒にも似た名古屋駅とは打って変わって、
今朝の名古屋駅は、この時間の平常を取り戻したような風景で、
何となく落ち着いた気持ちで新幹線移動です。
でも、何人くらいから喧騒を感じて、何人程度を適正と思うかというのは、
極めて個人的な基準ですから、私の都合と勝手でなんか思ってるだけなんですけどね(笑)。
この2年近く、
人は、何がなんでも生きたいと思うのだろうと思うし、
でも、生きてるだけじゃ物足りなくて、
休みとなれば、何がなんでも、どうしてもどっかに行きたくなるんだろうな、と思うし、
でも、どっか行けば行ったで、疲れて家に帰って、
明日からまた疲れる仕事で面倒くせぇなぁ、と思って、
そんなに疲れるなら、休みの日にわざわざ疲れる遊びになんていかなくて、
ただジッとして、ただ生きてればいいじゃん、となるかというと、
そうとはいかなくて(笑)、
となると、疲れるのは嫌だといいながら、
仕事だろうと、休みだろうと、疲れる為に生きてるのではないか?という矛盾に陥るのではないか?
と思うわけで、
仮に毎日仕事をしてるとすると、どっかには行ってるのだけど、
そのどっかに行くのは面倒くさくて、
でも、お休みになって、仕事よりももっと行動量が増える分には、
面倒くさいどころか、率先して動こうとするわけで、
その境目はどこにあるんかな?と思うけれど、
まぁ、要するに、ただ刹那的な感情の赴くままに、その都度、何も考えずに勝手にやりたいことだけやっていたい、
というのが、
それが元々で、それはもう本能とも言えるのが人間なんかな?と思うのですが、
何故か、そんなんではダメだよ、と言われるわけで、それが面倒くさいですね(笑)。
私はこの2年の間に、遠征の機会がまるでなくなって、基本が事務所に引きこもっているので、
たまに外に出ると、必ず何か忘れ物をしてしまうのが基本になってしまって、
どんなに出際に気をつけているつもりでも、
今日はリングを2つはめてくるのを忘れて、
でも、何故か、普段はつけないペンダントは忘れないという(笑)、
でも、まぁ、いいや、そういうのが、あるのとないのとで、
見た目が違うんじゃないか?と
気にしてるのは、どうせ世の中で自分だけだし(苦笑)。
でもさぁ、だったら、今日のレザージャケットはどうしよう?とか、
髪型どうしよう?とか、
全部どうでもいいじゃんね?となるわけで、
どの辺りが、自分が認識する自分の見た目と、他人から認識される見た目の境目なんでしょうかね?
こういう時って、人はつくづく、自分だけが都合良く生きたいだけの勝手な生き物だよな、
と大論で纏めるのか、
いや、「人」ではなくて、お前だけがだろ、なのか、
その境目もよく分からないまま、
行ってきます(笑)。
「労せず得る」為にどこで「労」するかを「労」せよ(苦笑)
今のままではダメだ、という思いで、何かを始めようとする時、
何故か、
すぐに儲かりそうなものはないか?
すぐに買ってくれる人の集まりはないか?
と探し求める人はたくさんいます。
そういう人は、
すでに儲かりにくくなっている商品・サービスに、コストをかけて参入してしまって、全く売れないとか、
自分で顧客をつくることができない人ばかりが集まる場が故に、結局お金を払って参加しただけで、お金が入ってこずに時間だけが過ぎてしまったり、
結局、商品も変わらず、誰にも売れない、という前よりも酷い泥沼に自らズブズブと入り込んで行きます。
「しかし、先に分からんかね?そういうと」と、思えるようなこととは思うのですが、
何しろ人は、自分で考えたり、自分で動くことが面倒くさくて面倒くさくて面倒くさくて仕方がないのでしょう。
何の場であったにせよ、その場は、
A・自分のスキルを上げて、自分ができるようになる為の場なのか、
B・自分は何もしなくても相手がやってくれることにお金を払う場なのか、
参加する前提となる基準は、先に分かっておいかないと、ズレが生じますね。
「労せずして儲けようとする」
視点がズレているあまり、
「労して儲からない」
という事態が起こっています。
私は、ビジネスというのは、ある意味、
「いかに労せず儲かるかを考え、実行する場である」
と思っていますから、
前提として、
「労せず儲けよう」
とするのは決して間違っていないと思っています。
だから、
「労せずして儲けようとするな」
などという気は全くありません。
むしろ、
「労せず儲けなければ」
効率の良いビジネスモデルは成立しないのです。
お金と時間を使っても結局儲からないのと、
お金も時間もできるだけ使わずに結果儲かるのと、
どちらがいいでしょうか?
私なら後者です。
問題は、いかに後者になるのか?ということをよく考えたり、知識を得ようともせずに、仮説も立てずに、実験もせずに、
いきなり、行き当たりばったりで、
「労せず得よう」
とすることにあります。
「労せず儲ける」には、
「『労せず儲ける』為の『労』」
が必要であり、必須です。
どこに「労」の点を置くのか、ここを間違えてはいけない時代とビジネス環境であることは確かです。
A・「労しない」為の設計段階で、先に「労」を取るか、
B・「労せずに」始めて、後で「労」するか、
どちらにせよ労働者は、どこかで「労」せねばならないわけですから、同じ「労」なら、どこで「労」するかは、
どっちかくらいは自分で決めておくことでしょう。
まぁ、考えて決めることすらも「労」と言えば「労」なので(笑)、それすら嫌なら、もう知らんわけで、
大富豪とか超資産家とかに、明日起きたら生まれ変わっていることを毎日夢見て、生きていけばいいかと思うわけです(笑)。
あぁ、「頑張って夢見る」というのも「労」か・・・・(苦笑)。
一年経って自分に言い聞かせる命の使い方
気がつきゃ、胃癌の手術してから1年が経とうとしていて、
術後一年後の、血液検査とCTスキャン検査をしてきました。
血液も癌再発リスクについても全く問題なしで、お陰様で順調な経緯です。
造影剤が体内に入っていく時の、あのジワーっと全身が暑くなる独特の感覚にも慣れてきました(苦笑)。
この一年で、「人間は必ず死ぬ」という当たり前の現実と、
この一年のうちの出来事や、ご縁を頂いている方達の間に巻き起こる感情一つ一つがとても尊く思えるようになり、
故に、
「残して頂けた命をどう使うのか?」という、
まぁ、当たり前のことと言えば当たり前のことを、
一年前よりもリアルに認識したり考えるようになりました。
私は、怒っていても死ぬのだし、笑っていても死ぬのだし、
止まっていても死ぬのだし、前に進んでも死ぬのだし、
誰かに役立っても死ぬのだし、一人の快楽にまみれても死ぬのだし、
どう足掻いても死ぬのだから、
どうせ死ぬなら、どう生きたいのか?という価値観が、
死生観というのだろうなと思っています。
それは、一人一人違うのだろうし、違っていていいと思うわけで、
そこが明確になった人に対しては、誰も介入もできないのだろうし、
私は、他人のそれにとやかく言うつもりもなく、
単に、共感するか、しないか、というだけのことだと思っているので、
そういう意味で、誰もが、勝手に好きに生きて死んでいけばそれでいい、
という、その人なりの人生を全うすれば、それでいいと思っています。
個人的には、できればより多くの人に役立ったり、より良い影響側になって死ねれば嬉しいわけですが、
それは、
「貢献欲だけが強い無能が撒き散らす迷惑」
「自分の話だけ聞いて欲しけど、それは誰も望んでもい故に他人の命を奪う迷惑」
という、最もなりたくない残酷なリスクも伴うわけで、
そうなると、
「人に役立つ能力を経済活動の中でいかに高めていくのか?」
ということに、いかに真摯にストイックに向かっていけるか?
ということに、理論上では落ち着くわけですが、
ところが、生きていることのほとんど全てを面倒くさいと感じてしまう、
あるいは、自分さえ良ければそれでいい、という、
そもそものクソ以下の自分の性分は、いかんともしがたく、
その双方向からの闘いは生きている限り続くのかとは予測していますが、
せめて死ぬ時に、
やるだけやったけど、やっぱりクソはクソだった、
と言える程度までは、頂けた命を使いたい、くらいまでは思っています。
ってな、自分だけが分かっておけば良くて、
他人様にとってはどうでもいいことを、こうして書かんでも、
自分だけが粛々と向かえばいいだけのことなのですが、
こうして書き出すことで、この一年に感謝の気持ちを抱き、自分に言い聞かせながら、次に向かおうとしているのでしょう。
せめて、お読み頂いている方にはお役に立てるよう努力することを誓います。