何もしないのが一番美しいという前提は持っておきたい
この季節の毎年のことだけど、
知らぬ間に、あぁ、もう桜が咲き始める頃だなぁ、と思いながら、
気づけば、知らぬ間に、あっと言う間に儚く散っていて、
何だか切ない気持ちのまま、
また一つ歳を越えているのだな、と、この一年の自分は何だったのかの反省とも言える想いは巡ります。
何であれ、新しいスタートで始める時は、始めました、と宣言しやすく、言いやすく、言いたくなるのだけど、
終わり時の方が難しいのは分かっていて、
故に、桜のように、人知れず、儚くも、潔い散り方というのは、理想であり見本と思いつつも、
それなら、桜のように、誰の目も意識するでもなく、我が道を、勝手に人知れず咲き、人知れず散って、
それなのに、人の心に残る存在である方が、
最高で理想の生き方なんだろうな、と思ったりもします。
まだまだ遠いことは百も承知ながら、残りの時間で実現したい不遜な気持ちだけは持っています。
一人はしゃいだ後に痛感する価値のバランス
- カテゴリー:
- 坪井の日常
最終の新幹線に乗ったら、
N700系の最新の何とかだったみたいで、なんだか嬉しくなって、
さらに、車両が一人だけで、スカーンと貸切状態なのが、
価値が高いように思えて、当然、子供みたいに嬉しくなって、
こうなると、まるで子供のように(そもそもが子供だけどな(苦笑))はしゃいで、自撮りして喜んでたんだけど、
これが、逆に、自分の主催するセミナー会場だったり、
集客施設や店舗の運営側だったりと、集客する側だったら、
自分にはまるで価値がないのだろうか?と、小心者の私なら恐ろしく凹むわけで(苦笑)、
価値というのは、一定や一律とか、絶対的なものではなくて、
誰かにとっての価値あるものは、誰かにとっては価値ではなくなるバランスで成立する側面はあるのだろうな、
と今更ながら思ったりして、
ついさっきまで、いかに集客して、顧客創造へと向かえるかをミーティングしてた自分としては、
理想論かも知れないけど、誰もが独自の価値を発揮して、
誰かだけじゃなくて、誰もがより良くなったりと、
そういう優しい気持ちを持って社会と関わったり、情報発信しなきゃいかんよな、と、
このブログを書きながら、
自分だけ良くなりゃいいとだけ日頃から思ってるような自分を、
ちょっと楽しいことがあったからといって、一人はしゃいでいた自分の画像が滑稽で浅はかに思えて反省しているところです(苦笑)。
子供のような喜びを感じる心は持ちながら、穏やかで、優しい心を持った、優しい大人な人になれますように。
春の訪れは老化の訪れか(苦笑)
久しぶりに、ちゃんとした外出
(ちゃんとした外出ってのがどんなんか知らんけど(笑))
するにあたり、
春先こそ、アウターにレザージャケットだよなと思って、羽織ってみれば、重たく感じ(苦笑)、
久しぶりにブーツを履いてみれば、こんなに重たかったけ?と思うほど重たく感じ(苦笑)、
新幹線の中で、ブーツ越しに自撮りしようと試みれば、
あまりにも思うように前屈できずに、身体の硬さを感じ(苦笑)、
このコロナ禍の3年の引き篭もり生活にうつつを抜かし、身体がなまったのか、
あるいは、この3年で、知らぬ間に一気に老化が進んだのか、
まぁ、それは、オッさんになっていることに変わりはないのだから、どっちでもよくて、
そんなことより、普段は、とにかく、いかに楽して、労せず得ようと、全力で必死に生きていんだけど(笑)、
やれレザージャケットだの、ブーツだの、ジーンズだの、
そういう、生きる上で日常的に身につけるものは、単に軽いとか、便利とか、楽だから、とか、
効率性や合理性だけの思考というか、
そういう本能的な欲求だけで生きるようなことをしていると、
霊長類ヒト科として何か大切な機能を失ってしまうのではないか?
あるいは、何だか、すげぇつまらない人間になってしまうのではないか?
という根拠のない脅迫観念が宿っていて(笑)、
これだけはあらがうだけはあらがいたいと改めて思うのだけど、
でも、それこそ、そんなことより、そもそもの生き方とか、根本の考え方そのものに対して、
ストイックに生きて、人としてあらがえよ、と思う、
春の訪れか、老化の訪れか、どっちを実感すれば良いのか迷う、素敵な外出の日です(苦笑)。