「やってみたら分かる」を定量的に落とし込んでみる

「やってみないと分からないのだから、まずやってみよ。」

とはよく言うことなれど、

 

やってみれば全て分かるか?といえば、

私の経験上では「分かる」ことの方が少ないわけで、

「やってみて分かること」と、「やってみても分からないこと」の両方がある。

 

ただ、後者は

「やってみても分からないことが分かった」

という意味では「分かった」とも言えるわけで、

それらも全部ひっくるめて、

「やってみたら分かった」

のいうことなら分かる(笑)。

 

この日、子供の頃から象徴的にインプットされている、スヌーピーの定番「屋根の上おやすみスタイル」を見つけて、

考えてみたら、どんな気持ちになのだろうか?と思ってやってみたけど、

スヌーピーは気持ちは分からなくて、

ちょっと恥ずかしいことは分かった(苦笑)。

 

「やってみれば分かる」

と言うのは、実績のある人が言うぶんには説得力があるが、

誰でも言えるといえば、誰でも言えてしまうので、猫も杓子も使う言葉とも言える。

 

ということは、実績を上げた人というのは、

他人から見たら、やってみたところで意味があるのかないのか分からないようなことまで、

どれだけ多くのことを実際にやってきてみたのだろう?とも思う。

 

自分が努力していると自負していたり、継続していると自覚していることはあったりするけど、

にも関わらず、成果に繋がっていない場合に、同じことで成果を上げている人に具体的行動において話を聞いてみると、

同じように、努力や継続という言葉を使ってはいるものの、時間数や、回数や、ページ数や、訪問数といった定量面におけるその差に愕然とすることがある。

 

そう考えると、実績が伴わないうちは、やっていることの数そのものが、まだ圧倒的に足りないとも言えるのである。

 

ということが「分かった」とて、スヌーピーの前で寝転がることは、やってみた結果、もうやりませんが(苦笑)。

 

口では何とでも言えるもんなぁ。
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「知らない」を「知る」ことが成長なのかもしれません

知らないことや、知らない感情は、まだまだたくさんあるんだな、と思います。

 

そう思えるに至る出来事が、今年に入ってから、ここ最近いくつかあって、

少々の痛い思いをしたり、恥ずかしい思いをしないと、こういう気持ちになれないということは、

いかに不遜な自分がいて、まだいるということなのだと思います。

 

正直いうと、54年の人生で、色々とやってきた自負というのは、少なからずあったのですが、

でも、ちょっと考えれば、たかが54年の自分の小さな経験とキャパなんてのは、どれだけ些細なものであるのかなんてのは分かるようなもんで、

それを、独りよがりの「自分はやってきた、分かる、知っている」などという自負なんてのは不遜極まりないわけで、

こういう時に、そういう自分に気づいたり、恥じたり、反省したりします。

 

逆に、まだ「新鮮な戸惑い」を覚えたり、まだ見てない「未見の自分」がいることに、

まだ、学ぶことは、まだまだたくさんたくさんあって、その度に大切なことを発見できるじゃないか、というある種の希望にも似た気持ちを覚えたりもします。

 

そう考えると、さらに「そもそも」の話になってくるのでしょうが、

どう考えても、私は私の人生の中からでしか物事を語れないわけで、

よく言う、

「私は私以外にはなれず、誰も私にはなれない」

という類の言葉は、そういうことなのだろうなと思います。

 

裏を返せば、誰もが、その人にしかない、体験・経験とそこから育まれる感情や価値観があり、

その人にしかないオリジナルの人生を創っているわけで、

私以外の人には、私にはない尊い価値があるとも言えます。

 

私は、人は「自分とは違う」ことが当たり前だと思ってはいますが、

それでも、その「違い」に違和感を覚えたり、不快感をもよおしたり、時に気に入らないという感情を抱くこともあるというジレンマも持ち合わせています。

 

年齢を重ねるのと比例して、凝り固まる「自分」というのはあるのでしょうが、

年齢を重ねるのと比例して、全ての他人から学ばせて頂くという姿勢を持つことこそが、

もしかしたら、年齢と共に閉塞感を感じる「成長」への唯一の対策なのかも知れません。

 

とても勇気のいることなのかも知れませんが、それが楽しくて面白い人生を創るヒントになるような気がしている昨今です。

「知る」ということは、「知らない」ことを自覚することと言えるのかもしれませんね。

もしかしたらまだ成長できるのかもしれません。
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「じゃあどうしたらいいのか?」に対する個人の意見を持てるかどうか

「現代のビジネスモデルのほとんどは破綻している。

なぜなら今までのビジネスモデルのほとんどは人口増加を前提としているからだ。

前提が変わるのだから、その前提に基づいたビジネスモデルが成立しない。」

という見解をお聞きしたことがあって、

私は全くその通りだと思っている一人です。

 

そーだ、そーだ、と言ったところで、問題は、

「じゃあどうしたらいいのか?」

ということに頭が向かいます。

 

それに対する個々人の明確な意見を、個人として出せるかどうかというのは、これからの能力としてはとても大切だと思います。

 

そういう正解ではない時代に合った考えを出していける能力を鍛えるには、

自分の意見を出して、叩かれて、また考えて意見を出して、また叩かれて・・・・・、

という繰り返しを行うことが最も効果的なのだと思っています。

 

個人の考えを個人で終わらせない為には、多様な価値観を議論しながら、気づいたら学んだり、新たに組み合わせたりしていくことで、

新しいアイデアや仮説というものは育まれていくと思っています。

 

その仮説や論理・型・事例に基づいた実験とフィードバックの繰り返しをリスクをはってやっていくことが、

これからの経営においても、ビジネスパーソン一人一人にとっても大事なのではないか?と、

ここ最近はずっとそんなことを考えています。

 

先に必要なのは、どこまでいっても、元となる「考えのカケラ」である個人の意見というものが必要であるということです。

 

私個人の「考えのカケラ」としては、

① 「そもそも、自分は何をもってして幸せで豊かな生き方・人生と定義するか?」

という個人ビジョンを創り出すことと、

② 「新たな価値創造を生み出す編集能力」

の2つは必須だと思っているし、その方向性が好きです。

 

どこまでいっても、私個人の「好き」と「得意分野」の話であって、

それが合っているかどうかは分からないので、

同じようなことを考えている人で、違う意見を持った人と議論したり、話し合う場があると楽しいだろうな、と思うし、私の成長チャンスもあると思います。

 

本当は論文を書けるくらいまでのスキルがあればいいのでしょうが、論文の定義そのものが私にはよく分からないので書けませんが、

「ブログ」というのは、個人が日常の中で容易にその練習・訓練ができる場としても、

多方面に「さらされる」という意味でも、とても有効なツールと思っています。

まぁ、私がブログを書いている一番の目的はここにあると言っても良いかも知れません。

 

そういう意味で、

③ 「情報発信」

というのは、3つ目として必須だと思っています。

矢面に立って自分の考えや意見を伝えることと、多方面にさらされて批評・批判を受ける経験というのは、

「自分の考えを学ぶ場」としては、とても有効だと思っています。

 

現在、頂いているご相談やご依頼のほとんどは、比較的短期間における業績アップについてで、それはそれでとても大切なことなので、全力を尽くしますが、

個人的には、これからの社会やビジネスにおける鍛えるべき思考や知恵についてに興味があります。

 

上記した大きな3つの要素に対して、さらに一つ一つの段階を明確にして、実現していけるような場を提案できたら、きっと楽しくて面白いだろうな、と一人企んでいるところです。

 

これからの社会に対する大義と言えば大義かも知れませんが、大義よりも何よりも、私個人の興味がそこにあるというのが最も大きいのでしょう。

 

形になると面白そうだな。
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