「見られたい自分」も「見たくもない自分」も見れるのか?
人は、「自分が他人からどう思われたいか」を、自分から言いたいのだと思います。
まぁ、私なんて、その権化のようなもんだと、発信してしまった後から自覚させられてしまうことは多々ありますね。
自分のことを理解して欲しいという欲求や、良く見られたいという欲求は、人としての本能としてあるらしいですね。
本能だとしたら、意図しようとしまいとそっちに向かうのだから、それはもう仕方ないと言えば仕方ないのでしょうが、
せめて、時には自分を客観視して、自分を知ることは、自分の人生を生きるという意味で必要なのではないかと思ったりします。
できればうまいこと誤魔化して、目を背けていきたいことなんて山ほどあるんでしょうけどね。
ブログやSNSというのは、基本的には自分で自分のことを発信するわけですし、
会社案内や募集要項・採用案内なども自分が自社のことを言うわけですし、
あるいは、人前に出て喋る機会が多くなればなるほど、それは他人という集団に、四方八方から好き勝手に評価される場ですから、どんどん意図的になっていくのではないかとも思うわけで、
自分側から情報発信すればするほど、
「見られたい自分」と「見られたくない自分」の狭間で苦しむというのは、自分の人生を自分らしく送りたいと思っている人なら、多かれ少なかれあるのだろうな、と勝手に思っています。
今、発信している情報は、果たして「素の自分」であるかどうかという点において、
意図的に嘘をついているのなら、嘘をついている自覚があるわけですが、
厄介なのは、その時点で本当に「素の自分」を発信をしているつもりが、後になって、そうではなかったと気付かされてしまう時ですね。
これが面倒です。
よく、
「3年前の自分のブログを読んでみると、顔から火が出るくらいに、自分で恥ずかしくなった。」
みたいなことを聞きますが(私なんかは頻繁にある)、これなんかは当てはまる感情なのではないかと思います。
「分かったようなことを書いたり言ったりしてたけど、その後の体験・経験を通した結果、まるで分かってなんていなかった。」
みたいなことでしょうね。
さらにここからが問題で、
① 「あの時は分かっていなかったけど、今は分かった。」
と、「もうちゃんと分かっている自分」を自覚して、自分を発信するのか、
② 「あの時、分かっていると自覚していたことが、今は分かっていなかったと思うということは、今分かったつもりでいることは、将来分かっていなかったと気付くことになるから、結局、今も分かっていないんだろうな。」
と、「結局のところまだ何も分かっていない自分を自分」を前提に発信するのか、
そのどちらに向かうのか?ということだと思います。
よく、
「以前の私は△△だったけど、でも今はもう◯◯になれた。」
と明言する言葉や文章に出くわします。
例えば、
「以前の私は、自分のことしか考えられなかったけど、でも今は周りの人のことを先に考えることができるようになった。」
「以前の私は、自分をより良く魅せることばかり考えいたけど、でも今は本当の自分でいいと思えるようになった。」
「以前の私は、後ろ向きでネガティブだっけど、でも今は前向きでポジティブな生き方ができるようになった。」
みたいな感じでしょうか。
私は、過去の恥ずかしい経験から、「自分が分かったと自覚していることほど、実は分かっていない。」と思っている方なので、
「私は何かが分かっている」と言う人をみると、
片方で、「それは良かったね。」という気持ちと、
もう片方で、「自分で自分のことを言うしか手がないということか?」という気持ちの両方が交錯するというのが本音です。
さらに、後者の片方の気持ちは、わざわざ相手に言わないというのが本音です。
(余程の信頼関係ができていると思う相手には、思いっきり毒づきますが。)
本人が「できた」「なれた」「分かった」と言い切れる根拠や論拠は、客観的な証明はしにくいだけに、
一番は、本人が自分の口から言うことよりも、他人がそれを評価した時というのが客観的で分かりやすいということでしょう。
だとすると、自分からわざわざ言わなくてもいいわけです。
口で言わなくてもただ淡々とやっていればいいだけです。
それに対して他人が勝手に評価してくれるのですから、本人は
「えへへ、そうなんですかねぇ。そうでもないですよぉ。」
と照れててもいいわけです。
自分から言ってもいいし、言わなくていい、に関わらず、どうして自分からズケズケ自分のことを言わなきゃいかん理由があるのか?自分の何がそうさせているのか?
ということになってくるんじゃないかと、私は思うんですね。
かと言って、じぁあ、他人の言う評価が正しいという前提があるのか?というと、他人は他人で勝手に評価してくるだけだし、
しかも、その評価が本当なのか本音なのか、全てを言っているのかとなると、それもまたよく分からないわけで、
そうなると、自分で自分に向き合って、もう一人の自分が、自分をちゃんと評価してあげるのが一番合点がいくのではないかなぁ、と思うし、
それが、最後の最後まで、唯一嘘のつけない相手である自分に納得がいくのではないかと思うわけです。
そういうおぞましいとも思える自分を、誰でもなく自分自身で客観視するにあたり、
ブログというのは、とても効果的なツールの一つと言える、と私は思っています。
その時の、どう見られたいか?というリアルな自分が露骨に露呈しているわけで、
時におぞましい自分を突きつけられるわけですね。
まぁ、それは、前記したように、会社が外部に発信する媒体であれ、人前で喋る場であれ、
自分が発信した記録として形に残っているものなら全てに当てはまるような気もしますが。
まだ20代後半の頃、「経営者になるなら行っておけ」と言われた研修があって、
事前情報から察するに、スゲェ面倒くさそうな臭いがプンプンだったので、私は行くのがとても嫌だったのだけど、
ある方から、
「人は誰でも本当の自分の姿を見るのは恐いものです。でも、本当の自分を知らねば、自分の幸せもまた分からないと言えます。全力で行ってきなさい。」
と言われたことがあって、その言葉に、なるほどそうだよなと合点がいって、クソ行きたくない研修でしたが全力でやったことがありました。
私は、正直言うと、今でも自分の本当の姿を、自分に見せつけられるのは恐い気持ちはありますが、
反面、自分らしく幸せになりたい気持ちの方がもっと強いので、
だから、時に、自分を客観視するツールとして、過去のブログを読んでは、わざわざ顔から火を出しているのだと思います。
実は、先日、自分が講演しているビデオを見る機会があったのですが、
こともあろうに断片情報ではなく、全編が収録されていて、
さらに、よせばいいのに、その全てを観てしまって、
自分自身の、あまりのおぞましさと、滑稽さと、醜さに、空いた口が塞がりませんでした。
よくもまぁ、こんなんで、小学生の頃から今に至るまで、調子に乗って、
特に、この6年余り、人様の前で喋り続けてこられたもんだと。
本人なりに、夢中で一所懸命、一回一回を自分なりの本気で聞いて下さる方のことを考えてやってきた自負があるだけに、
もうズタズタのズタボロになりましたね。
それでも、逃げ出したい気持ちを全身全霊で抑えながら、最後まで、大画面に向かって直視したのだから、もう、我ながら立派と言ってあげるしか、手はありませんでしたが。
時にチヤホヤされて、依頼を頂いて、その気になってる自分の姿のなんとおぞましいことか。
この状況を前にして、それでもまたもう一度やり直そうとするのか、
ここまでやってダメなんだから才能がないのだから、自分から前に出るなどという愚行は今後諦めるのか、
それこそ、私自身が自分で考えて決めればいいことなのでしょう。
まぁ、そんなことを考えながら、
きっと、このブログも、近い将来、顔から火が出るほどに恥ずかしいのだと思うし、
であれば、もしかしたら少しは成長しているかも知らないので、そうでありたいと微かな期待を込めたいところです。
よく分かってきてたんじゃないか?となるのか、
やっぱり「分かっていない」スパイラルに巻き込まれていくのか、
せめて楽しみにしていたいと思います。