AIとAIの間に入る無価値な自分といかに向き合うか
AIに使われないように、AIを使いこなす側になろうとして、
どうしたらAIが使いこなせるようになるのか?、を誰に聞いて分からなくて、
そうだ、こういう時にこそAIに聞いてみればいいんだ、と思って、
使い方をAIに教えてもらって、あるいはプロンプトまで出してもらって、使えるようになって、
これはいいぞ、と思って、それを人に吹聴しようと、
「AI使いこなしセミナー」
を開催した場合、それは、AIに使われているのか?、AIを使いこなしているのか?(笑)
自分という存在を通過した時に、誰かにとっての何らかの価値が上がることを、価値といい、
それが売れた時の粗利率となる。
この構造からいけば、「AIが使えるように、AIに聞いただけ」なら、
昔の問屋不要論のように、不必要なコストになるだけとなり、むしろいない方が良い存在である。
「利益というのは」→「自分を通した時に」→「価値が上がった分」
というビジネスの基本構造が変わらないとしたら、
その基本構造に立ち戻ることで、「AI時代に自分が何ができるのか?」の選択肢やヒントが生まれるわけで、
その一点においてよく考えるのは、とても重要だと思っています。
よく、
「AIに乗せて、自分の感情や価値観、思想や理念や想いや哲学の人間性が必要だ。」
みたいな聞いた風なことはよく聞くし、なるほどなぁ、とは思うけど、
では、その
「自分の感情や価値観、思想や理念や想いや哲学の人間性」
とやらで、過去、そこだけをアウトプットして有料化されたことがありますか?
と自らに問うと、口で言うのは簡単だけど、私は自信はないです(苦笑)。
私の説法など、お金払って聞きたいですか?(笑)
私なら、私の説法はいらない(笑)。むしろ、ない方がいい(笑)。いや、あったら聞くだけ時間の無駄なので迷惑(苦笑)。聞きたくない(苦笑)。
昔、自分の読んだ本を、社内セミナーで、やたら自分が教えたがる人がいたけど、
いや、お前のフィルターなんてどうでもいいから、その本とっとと読ませろよ、と思っていたことがあります(笑)。
言いませんけどね(笑)。
というか、私も、今の仕事は、そうやってるだけに極めて近いだけなんで(苦笑)。
自分を通す価値だと思っているものがあったとしても、それが他人にとって無価値であれば、ない方が良いわけで、それが市場経済における現実です。
じゃあ、まるでないのか?というと、可能性は十分にあるわけで、
それは、昔、『お茶くみ』を頼まれた社員が、
「私は『お茶くみ』なんてする為に、この会社に入ったわけじゃない。」
と不貞腐れて、不機嫌にお茶を出すウスラバカと、
「同じ出すなら、私を通して少しでも相手にいい気持ちになってもらおう。」
と、自分に何ができるかと工夫して出す人と、どっちが市場価値が上がって、他人から必要とされていくか?という一昔前の例え話と変わらないと思うわけです。
人のビジネスモデルに深く深く入り込んで関わっていくと、もはや、中小・零細・個人にとっては、それくらいしか残っていないのだろうな、とつくづく思うわけです。
そう考えると、ブログで「ウスラバカ」などという言葉を発しているだけで、もうダメなんだろうな、と反省して(苦笑)、
反省するなら消せよ、となるのですが、ちょっと言いたくなる自分に負けるというジレンマ(苦笑)と、
どう向き合い、いかに自分を処理していくかが重要課題なんだろうなと、個人的には思っているところです(苦笑)。