環境とは自分である
誰もが自分にとってより良い環境を求めて動くのは当然かと思います。
「誰と関わるかが大事」「どのコミュニティーに属するかが大事」ということはよく言われるし、
「環境が人を創る」という概念にのっとれば、それは正しい見解といえるし、私もその通りだと思います。
周りが東大を目指して勉強している人ばかりなら、東大を目指すのが、その人の普通になるのでしょうし、
周りが楽しさを追求するなら、自分もいつも楽しい状態であるように工夫したり動いたりするでしょう。
だから、どうなりたいか?という目標があれば、
既にそれを実現している人の元や、同じように目指して頑張っている人と同じ場に向かうことが、
目標を実現していく上では有効と言えるし、そういう周りの人達のことを仲間とか何とか言うのでしょうね。
そういう任意の場に集う人が、どんな人達かを知るというのは最も大切な情報と言えるでしょう。
例えば、就職先選びもそうなのでしょうし、
学校選びや、どのサークルに入るか?どの地域に住みたいか?もそうでしょうし、
どのセミナーに参加するとか、勉強会に属するのかも同様でしょう。
人は、自分のメリットの為なら、属するであろう環境や、属している相手のことを知りたがるし、調べるのです。
そして、自分にとって都合が良いと判断すれば、そこに行こうとしたり、参加しようと試みます。
時に、試験があったり、お金を払うという条件がありますが、商業施設のように何の制約もなく誰でも入れる場もあるでしょう。
人は、自分以外のことを「環境」と呼び、
自分にとって都合の良い状態や、都合の良い人の集まりを環境として望み、何らかの条件をクリアして、そこに行こうとします。
問題は、視点を変えてみると、自分以外の人、すなわち他人から見た自分は、他人からは環境の一つであり、環境の一部となります。
環境を選ぶのは自分だと思っていたら、「自分が環境の一部」として選ばれていたということになります。
集団や団体の印象を創り出すのは、トップだけの存在ではなく、
トップの元に集まる人達が、その集団や団体の印象を決めてしまうということはよくある話です。
そういう意味では、属する環境の印象を良くするも悪くするも、自分であると言えるわけで、
すなわち、環境とは、実は自分自身と言えるわけで、その自覚は持っておいた方がいいのでしょうね。
選ぶ側だとばかり思っていたら、実は他人から選ばれている側であり、
貢献しているかもしれないし、評価を落としているかもしれません。
「環境とは正しく自分」なのです。
素晴らしい人達に囲まれて、
「誰と関わるかがやっぱり大事」
「どんな環境にいるのかがやっぱり大事。」
と言っている当の本人が、その環境や集団の価値を下げかねないリスクは誰にもあるわけで、
私なんかは相当に気をつけないといけないんだと思うのです(苦笑)。
ということを、考えながら、
遠征に行く機会があれば、必ず伺うお気に入りのお店があって、
なぜかというと、店舗そのものの空間が私にとってとても居心地に良く、
自分が好きなものを発見したり、気づかせてもらえる楽しみがあるからなんだけど、
店内で撮ってもらった写真を見て、自分を客観視したら、
肌着のようなヘンリーネックのTシャツに、スウェットパンツという、寝起きのような格好でうろついていたわけで(苦笑)、
他人視点で見た場合、お気に入りであるはずのこの店の雰囲気を、気に入っているという自らがブチ壊していたのではないか?と
強烈な反省が込み上げるのでした(苦笑)。
果たして、自分は、そこに生息していて、存在そのものが迷惑になっていないのか?ということを、
一歩外に出る度によく考えて生きていこうと思います(苦笑)。