先に事実を伝えることが抽象論を伝えるに至る

もし、抽象論を語りたいなら、先に実績を言うことです。

 

ここでいう、

抽象論とは、心の中にある価値観や概念です。

人によって価値観が変わることでもあり、「定性的」表現とも言えます。

「頑張ろう」とか、「皆で楽しもう」とか、「努力しよう」とか、「全力を尽くせ」とか、「挑戦こそ我が人生」とか、「愛を届ける」とか、「真心で接しよう」とか、そういう類の表現ですね。

 

実績とは、数字や単位で表すことができるものです。

人によって価値観が変わらない「定量的」な表現とも言えます。

「1,000回はやれ」とか、「100は集めろ」とか、「あと4時間は続けろ」とか、「前年比135%アップ」とか、「一日で1,000人集客」とか、

「廃業から10年で株式上場」はこれに当たるでしょう。

 

このブログを読んで頂いている方は、私のことはご存知の方が多いかと思いますが、

講演やセミナーでお呼び頂いた場では、主催者の方以外は、私のことは全く知りません。

 

ほとんどの人が、私の話など聴きたくて集まったわけではなく、別の主たる目的で集まった訳で、

仕方なくその場にいるだけ、という人しかいないという場もたくさんあります。

 

要するに、どこの誰だかも分からないオッサンの話を聴きたくて、わざわざその場にいる人など一人もいないわけです。

まぁ、完全アウェイというやつですね。

 

そんな場に私が出て行って、何か喋ろうとしても、

例えば、

「皆さんは、自分の人生に誇りを持っているでしょうか?

いかなる人生にも必ず価値があります。

自信を持っていきましょう。

それこそが業績アップの秘訣なのです。」

とか、

「結局最後に見られるのは人間性の問題なのです。」

「タイムイズマネー。そう、時間こそが・・・」

「皆さん、全ては意識の問題です。いまこの場で何を意識しましたか?」

とか何とか、誰でも言えそうな自明の理を言ったところで、

「うるせぇな、偉そうに。ほんで、あんた、そもそも一体誰やねん。そんなもん俺でも言えるわ、ボケ。あんたのどうでもいい話なんて、聞かせて下さいなんて一言でも頼んだ覚えないわい。はよ、終わらんかい。」

となって当然です。

 

先に、

「家業の廃業後、10年で、30店舗・スタッフ数700名・売上50億円・経常利益2.5億円・のリサイクルショップの実績で株式上場を果たしました。」

という、一つの実績であり、定量化された情報を伝えて、

初めて、

「なんかすげぇな、どうしたらそんなことできたんか聞いてみたい。」

と、興味を持ったり、

「だから?だから何なんだよ、そんなこと俺には関係者ねぇし。」

と、興味を持たなかったり、

そこで初めて、聴きたい人が、聴く動機を持ったり、

聴きたくないもない人の両方が、やっと発生します。

 

実績を伝えて、

「どうしたらそれができたのですか?」

と興味を持たれない限り、

どんな美麗語句も、大義も、ご立派な教えも、強い想いも、

聞くに絶えない無駄な言葉の数々と、傲慢にも近い残酷な時間の経過に過ぎません。

 

誰も、何の得もメリットもない他人の話など聞きたくありません。

ところが、人は自分の話は聞いて欲しくて聞いて欲しくて仕方ありません。

是認されたくて是認されたくて、どうしようもなくウズウズしています。

 

大事だと思っている抽象論で、聞いて欲しいことがあるなら、

そもそも自分の聞きたい人を目の前に集めない限りは、聞いてもらうことはできません。

 

どうしたら集めることができるのか?

何もない私の唯一は、定量化された実績を先に伝えることのみです。

そこに興味を持った人を相手にすることでしか、

私の抽象論などという、どうでもいい戯言は、

価値がある言葉にはなり得ません。

 

「ピンチをチャンスに変える方法」

と言っても、ピンチをチャンスに変えたことがない人が、どうしてそれを言えるのか?という疑問を持たれるのが普通でしょう。

でも、その言葉は誰でも言えます。

 

「誰でも簡単集客術セミナー」

と言っても、そのセミナーの募集そのまのがうまくいっていない人に、信憑性を感じるか?と言えば、直感的に信じないでしょう。

でも、誰でもそのネーミングを書くことができます。

残酷な現実とは、そういうものでしょう。

 

有名な伝え手である、ある人が言っていた強烈な一言は、

「実績のない奴は、語るな」

でした。

 

では、「興味を持たれる実績」とは何か?です。

私は、

『「それ」がまだできていない人にとって、

「それ」をすでに実現している事実全て』

だと定義しています。

 

自覚が、立派であろうとなかろうと、御大層であろうとなかろうと、

その事実を伝えた結果、その事実に行きたいと思っていて、でもまだ行けていない人にとっては、貴重な実績となります。

 

ということは、自分の自覚がどうあれ、事実を伝えさえすれば、それは誰かにとっての、貴重な実績となる可能性はあるということです。

 

もし、誰かに役立つ伝えたい何かがあるのなら、

先に、事実をただただ伝えればいい、という仮説が成り立ちます。

 

自分では、聞いて欲しいと思っていた通りの「それ」を聞きたい人が来るかもしれないし、

自分では、全く価値だと思っていなかったことに、価値を感じて依頼が来るかもしれません。

 

それは、情報を発信し続けてみることでしか分かりません。

できるだけ多く、できるだけ多方面へ。

その方が、「それ」を聴きたい人に伝わる確率が増えます。

 

その中から、

「お金を払ってでも聞きたい」

という人が一人でも現れ、そこに、新しい事業の芽や、起業の瞬間があるとするなら、

何より確実ではやい、

伝えたい場が生まれるということになります。

 

廃業して、上場して、無職になって、

さて、どうしようか?と考えていた最中に、

何の商品もサービスもないに関わらず、知らぬ間に年間売上が出来始めました。

 

私がやってきたことは、日々の出来事や、事実や、それに対する感情や価値観を情報発信しただけです。

それで、次の起業や事業を始めるに当たる、お金や時間というコストは一切かからずに、

言いたいことを聞いてくれる人の場ができました。

 

さらにその後の、この10年近く、それをただ続けているだけです。

 

もし、一定期間、情報を出し続けて、それでも何の問い合わせもなければ、

何かが違うということが分かって、

別の手を取ればいいし、

もし何かが生まれたら、それを加速させれば良いわけで、

どっちにせよ、結果と事例だけは手に入ります。

 

実績の定義は人それぞれあるでしょうが、

私は、

「実績=事実の連続=日常の連続=人生」

だと思っています。

 

何か大論とも言える抽象論が言いたいのなら、

実績のを先に出して、興味のある人に伝える方が、

互いに価値ある時間であり、互いに有益である、最高の仕事と人生を生み出す一つの方法だと思っています。

 

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