時に歪んでいる自分を自覚しておく(苦笑)
自分では普通で当たり前だと思っていることも、
別の視点で見てみると、フィルターがかかって歪んでいるようなことはあって、
要するに「自分の普通』は「他人の変」なわけです。
「変」と言ってしまえばそれまでなんだろうけど、
別の見方をすれば、「価値」とも言えるわけで、
自分では当たり前で何の変哲もないと思っていることや、
ただ環境に流されて生きてきただけと思ったりていることや、
意に反してやらされてきたことや、
何でこんなことばっかり自分の身に降りかかるのだろう?とか、
まるで自分では「価値」などと自覚できていないことの中に、
他人から見たら凄まじい「固有の価値」が宿っているというようなことは珍しくありません。
それは、自分を客観視してみないと分からないわけだけど、
自分を客観視するというのは、
①自分で自分を客観視する
②他人からの自分という客観視
という大きく2つの客観視があるわけです。
ところが、両方ともに限界はあって、
自分で自分を客観視するというのは、どこまで行っても、元は自分なので、結局ら自分という基準を越えられなかったりして、
結局、独りよがりに終わってしまうことはよくあるし、
他人からの客観視というのは、その相手の心が歪んでいたり、アホだったりすれば、まともに取り合わない方がいいし、
あるいは、いいことばかり言ってくる人というのも、単なる都合の良い相手というだけのことになるので、
これまた難しい。
そういうことって、実績で証明されない限りは、できていると言えないわけだから、
自分と、自分の周りの人が素晴らしいという説得力は、なんだかんだいって、実績が一番分かりやすいのでしょう。
客観視というのは、口で言うほど簡単ではなかったりしますね。
となると、自分が行きたい何かがあったとして、そこに向かっていく過程の中で、
本気で自分のことを見てくれたり、考えたり、大切に思ってくれたり、感情と論理を分けて物事を見てくれてフィードバックしてくれる人の存在というのは、とても大きくて、
その数は多いに越したことはないけれど、もし、一人でもいてくれたら、それはもう何よりもの財産ということになるのでしょうね。
私も、もちろん、そういう人が欲しいとは思いますが、
ということは、他人もきっと欲しいだろうという前提に立って、
自分が他人にそうでいられたら素敵なわけだから、
時にこうして、必死で、ガラスコップを通して、歪んだ自分を客観視する訓練をしているとも言えます(笑)。
って、結局、アホ画像の肯定後付けかい(苦笑)。