「美しさ」とは何なのかが各人に問われる時代
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ここ数日、あるSNSでの投稿をきっかけに、改めてSNSでの情報発信について考えさせられる機会がありました。
ブログをはじめ、SNSでの発信というのは発信手からの一方通行の情報発信であり、一方的な主張というのが基本です。
私はそれでいいと思っていますし、誰もが、大いに自らの主義・主張を展開すれば良いと思っています。
そういう場において、他人が書いた内容に対して共感する場合はもちろん、まったく共感できない、あるいは時に不快や怒りすら覚えたとしても、その人の「主張する権利」は尊重すべきだと常々思っています。
しかし、一方的な発信であるが故、当然ながら、受信される時も受信側の一方的な基準で決定されてしまう、というリスクは免れません。
全ての情報は、受け手側に100%委ねられる宿命にあります。
発信手がどんな真意で発信したものであれ、どれだけ相手に対して理解を意図した推敲を重ねた文章であれ、それは受け手側の受け取り方によりその意味合いは決定されます。
すなわち、主張は自由でありながら、100%のリスクを伴います。
「主張=自由=リスク」
これが、私の定義しているSNSの発信であり、同時に伴うリスクであります。
よって、私は私の発信に関して、誰かを想い、誰かのお役に立ったり、誰かの楽しさや嬉しさに寄与できることを願って発信を繰り返してはいるつもりではありますが、それを見た受け手側の誰かに、受け手側の基準・論理・感情・価値観・受信能力等により、結果、共感されなかったり、批判されたり、嫌われたりするのはいたしかたないことだと思っています。
全ての人類100%に共感されることは不可能だという前提を持っていますから(そもそも100%同じなら個人の主張は発生しない)、仮に、私の真意に反して、それを伝え合うことなく、一方的に私の印象を持たれ、結果、私がどこかで批判されたとしても、それはそれでOKで、それも受信した側の主張であると思って(主張に対応するかどうかは別として)、主張すること自体は100%認めています。
そういう考え方です。
「あんた今更何言ってんの?そんなものは当たり前と言えば当たり前でしょう。」というところでしょうか。
しかしながら、私から見て、意図的に悪意をもって特定される誰かを攻撃しようと思えてしまう投稿や、あるいは自らの主張を正当化せんがためにわざわざご丁寧に他人を引き合いに出してあげつらうような投稿で、自らの正当性や優位性を訴えるような内容を真顔で発信している内容を見てしまうと、いささか不快指数の限度を超えてしまうことはあります。
それが、見ず知らずのどっかの赤の他人や、リアルでの距離感がないような相手なら、価値観の相違とか、色んな人がいるね、見なきゃいい、程度ですが・・・・・、
昨日の昨日まで仲良くしていたと思っていた友人・知人・仲間という関係で、リアルの関係が構築できているからこそ打ち明けられたプライベート極まりない個人的な情報の一部を都合よく抜粋して、あげく、そこに「坪井」の名前は明記していないものの、私が「私」のことだろうと自覚してしまう、あるいは、私の素性を知っている人からしたら「坪井のことを言ってるんじゃないか?」と予測してしまうような記述をもって、あたかも自分は素晴らしいという主張なのか、坪井個人への批判なのか、どっちが主体なのかよく分からない内容を発信されていました。
そり内容は、見方によっては、今の私のお仕事に差し支えがあるような要素もあって、困惑するわけです。
そういう発信を受けとった私としては、私の受け手側の論理で、理解し合っていると思っていた友人の神経を疑ってしまい、今後、もう、まともには相手すべき相手ではないとロックがかかってしまうことを初めて体感した次第です。
仮に、他人に、その人のことを聞かれたら、私は私の認識のままその人のことをストレートにお伝えすることになり、あとは、それを聞いた側の判断に委ねます。
この10年以上のSNSでの関わりで、本当に多くの人との交流をしてきて、ここまでの感情になったのは初めてですね・・・・・。
「こいつはこういうリスクすら分かっていないのか?」
そうです。改めて、これがSNSの一方通行の発信の自由と、一方通行で受信されるリスクなのだと思うのです。
そう考えれば、前提として、本来、どういう発信をしていくべきか?というのは、人と人とのコミュニケーションの場と認識しているなら、理論的であれ、感覚的であれ、それまでの人社会に生きてきた上で分かっているのが普通なんじゃないのか?と私は思っていました。
時として、行き過ぎなんじゃねーか?と思える発信をする友人たちもいるにはいますが、それは私の範囲では、「おいおい、行き過ぎだよ、それ(苦笑)。バカだね。」で済む程度だったり、個人的関係において私の中ではシャレで済む、あるいは「やれやれ・・・、まったく・・・・」程度なので、それは全くの許容範囲で問題ない程度なのです。
今回の、件の内容は、私の許容量を超えたということです。
その方の主張の仕方は、私の美学からすれば大きく外れています。ただ、主張の仕方が私とは違っているだけで、それも主張の範囲だと言ってしまえば主張の範囲であり、それ自体は私は認めている。
しかしながら、その主張を受け取った私は私の基準で、相手の人間性や、人としてのあるべき神経を疑って、もう今迄のように関わりたくない、そういう人だと割り切って、今後どこかでお会いするような場に遭遇してしまったら、今まで通りに適当にヘラヘラ笑って冗談言って挨拶して、さらに適当に関わる程度にしておこうと決めてしまっている、という主張を一方通行でここで宣言している。
本人、それに気づくかどうか、知ったこっちゃない。私がそうしたいから、そうするだけ。もう質問されても、本気では答えないし、本当のことなんて言わないし、できるだけ言葉には細心の注意を払いながら、当たり障りのないことだけを言って、適当にあしらう。そんな感じになるでしょう。
その人は投稿上で、「坪井秀樹」と限定していない。だからどうとでも言えるし、本当は私のことなど書いた訳ではないかもしれません。でも、それが問題なのではなくて、SNSの一方的発信によって、私がそう受け取ってしまったという認識が問題なのです。
その人の投稿の真意が、実はどこにあるのかが問題ではなく、その人の一方的発信を見て、確認する余裕すらなく、そういう人だと認識してしまっていることが問題なのです。
この手の話になると、キレイごととしては、「あなたの疑問や気持ちを正直に伝えてみて、相手の真意も良く聞いてみて、よく話し合うことをしてみたら?」「何も、坪井さんと言っているわけじゃないんでしょ?勘違いかもしれないよ。」「何も、そこまで悪気があったわけじゃないと思うし、まだまだ若いんだから・・・・。」というアドバイスは聞こえてきそうです。
しかしながら、私からしてみれば、電話したり会ってまで理解し合おうとする相手かどうか、あるいは、人生時間の中でその確認の優先順位はどれくらいか、あるいは、ここが最も大きいのですが、もうそういう人とは相いれないであろう思考や思想、人間観レベルの差が開きすぎているのだろうという諦めや、それらを総合すると、もう相手にしないというリストに入ってしまっているということになります。
確認したところで、相手の言い分を聞いて、理解したり理解したふりをして、取りあえず関係維持で落ち着かせるのが関の山で、結局、その後の対応としては、前記した対応と変わらないのです。
こう書くと、相当冷たい人間と思われる方もいるかもしれませんが、私の残された人生時間を鑑みると、その人以外の世界中の誰かと関わっていった方が豊かに生きられるだろうという選択をするかしないかは、意図的であれ無意識であれ、誰もが自分の基準でしていることと思うのです。
簡単に言うと、諦めた。世界中のリストの中から、その人個人に関しては、もう諦めたのです。
こういうことを公に言う人は、あまりいません。大抵は、ごくプライベートな場で、共通のネタ、コミュニケーションツールの一つとして誰かを持ち出しては、あいつは好き・嫌い、その理由は○○だから、といった悪口とか陰口程度で終わっていくようなことでしょう。
でも、公に言うリスクを取ってでも、私は、私の価値基準を記しておきたかったということになるのでしょうね。
相手にしなきゃいい、という気持ちも芽生えましたが、それこそ事なかれの権化のような気がして、これはもう私の美学とか何とかの世界になってしまうのでしょうね。
今回、「考えた」と冒頭に書いているのは、実は、その相手への感情ではなく、その感情が生まれる自分とは何者なのか?ということなのです。
こんなブログを公にして、他人から何と思われるか?というリスクは私にあります。
「坪井は器が小さい奴だ。」「どうでもいいことをづらづら書いてアホか。」「よくあることじゃん、そんなこと。」「坪井には注意して関わろう・・・。」そんなことたくさん思われるかもしれません。
でも、そういうリスクを冒してまで、公にしたい衝動に駆られる何かとは「何か」を明確にしておきたかったのだと思います。
仮に私の勘違いだったり誤解だったりしたとしましょう。お相手が、このブログを読んだとして、「坪井は個人の予測だけで人を非難しているひどい人だ。」となったとして、それを公の場で発信されても、それは覚悟の上ということになります。
「私はこんなひどいことを言われたけれど心の大きな人なので許します。坪井さんの器が大きくなることをただただ願うばかりです。」となって、他人から思わぬ評価を受けても良いでしょう。
「坪井さん、申し訳なかった。言われて目が覚めた。強く反省します。もう二度としないからそんなこと言わないでください。お蔭で本当に勉強になりました。坪井さんは人生の恩人です。」と言って、建前上、「いいよ、いいよ、そんなこと気にしないで、ネタだよネタ。」となって、表面上良かったねとなってもいいでしょう。
「望むところだ、この野郎、徹底的にやったろか?」となってもいいでしょう。
最悪なのは、このブログを読んだ人の中で、私がターゲットとしている人以外の人が「こいつ、俺のこと言ってんのか!?」と激高してしまっても仕方ないリスクもはらんでいます。
実は、私の真意が、相手の成長を心の底から願っていたとしても、ここまで表現されてしまって、果たして、そう素直に思えるでしょうか?
私が相手だったら、そうは思えません。文字どおり、額面通りにしっかりと受け止めます。
真意など見えないし、どこまでいっても真意は、真意を見る側の認識でしかないからで、真意があるなら真意を文字表現すれば良い。ここは文字表現の場なんだから。
私はそう考えています。
(無論、この期に及んで相手の成長など真意も意図もしていませんが。)
そもそも、個人の主張を主張するのに、価値観の違う誰かの発言や主張や引き合いというのは必要なのでしょうか?
引き合いを出さねば、主張に説得力がないと自覚しているのでしょうか?
実は主張そのものを発信したいのではなく、自己承認ができていない深層心理が露わにするのに主張を使っているのでしょうか?
言っても言わなくてもいいという選択肢がありながら、わざわざ人生の時間を賭けて書くということは、書かないと失う何かがあるのでしょうか?
理解できない。まったく理解ができません。
小学生1年生ならまだしも、ご立派な実績と主張を展開して自らを素晴らしい経営者だと吹聴している人から出る言葉としては、まったく理解できない。
そんな人に都合よく私の人生の一部を使われたくない。
と、ここまで、言いたい放題で、私の主張を展開しました。
私の結論部としては、ここからです。
誰かの発信に対して、「とって心外だった」「怒りの感情をもった」「友達だち思っていたのに裏切られたような想いだ、ひどい」これらの感情というのは、いつかはなくなるし、一般によくある程度のことだと思っています。
もちろん感情も高ぶりはしまたし、言いたい放題に書いてはきましたが、それをぶちまけることがこの投稿の目的ではないんですね。
何が言いたいかと言うと、それでも、彼は彼で、自身の主張に本当に自信があり、誇りが持てて、主張の仕方も美しいと言えるなら続ければいいのだと思うのです。
文字としてこの後もずっと残り続け、自分の子供や社員はじめ周りの人達が、こういう主張の仕方(他人をおとしめるような表現を加味して自分の素晴らしい主張を訴える)をする父親や、社長は、自分たちの誇りだと思ってもらえると信じられるなら、そういう自分を信じて、ずっとずっと死ぬまでやり続ければいい。
それでいいと思うのです。
実は、私だって、自分の主張を展開していくのに、過去の他人との経験をリアルな事例にして伝えていることはあるし、批判する形で表現したこともあります。伝える以上は、その相手が私に対してどんな感情を持つのかは覚悟の上だったりするのです。
現に、「あの投稿は私のことですか?。」とか「あれは○○さんのこと言ってるんですか?」と直に確認されたことは一杯あります。
「その通り!なんで分かったの!?」という時もあるし、「いや全然違うよ!えぇ!?なんでそう思うわけ??」という時もあります。
それはまだマシな方で、もしかしたら、私には直に聞いてこないだけで、私に対して悪感情を抱いている人もいるかも知れませんし、対象者ではない人から一方的に勘違いされて、徹底的に嫌われて、悪者にされて、知らぬ間に絶縁されているかも知れません。
私も、彼も、そういうリスクを前提にして、主張や発信をしているのだから、リスクを越えてまで自らを表現するだけの価値があると思えるなら、やり続ければいいのです。
リスクがあるとしても、こうして自らの主義・主張を発信する以上、もうどうしようもないリスクだと思っていて、そしてそれは、SNSだけの世界ではなくて、リアルの現場でも、多くの人と関われば関わるほど嫌と言うほど経験してきた、社会の中では避けられない本質的な要素だと思っています。
ただ、リアルでもSNSでも、確認して関係維持しようとしたり、互いの誤解を解こうと試みたり、そういうことはあるだろうけど、SNSの方が言いたいことを自分のステージで一方的に伝えやすい傾向はあると思うし、また、一方的に関係しない、という選択がしやすいというのはあると思っています。
リアルに顔を合わせて配慮し合っている時より、SNSの方が、心理的にずっと引っ付きやすいし離れやすい。
ブログをこうして発信している以上、多くの方に読んで頂きたいと願う反面、購読者が増えれば増える程に、リスクも大きくなるというジレンマも同時に発生するのです。
SNSは、リアルでの人間関係の数や質、あるいは都合の良い相手だけと関わっていれば良かった状況とはうってかわって、自分のことをよく知らない多くの人に自らの今がさらされるという可能性を十分に持っていて、それはメリットでもありデメリットにもなりえるというこで、さらにどんなに自分が正しいと思ったり、誰かのことを考えて発信していたとしても、受け手によってどうとでも受け取られる、すなわち今までの自分の価値範囲を大きく越えて評価にさらされるということです。
自分の主張を世界全体に発信するという意味において、世界の大都会で発信しようと、世界で最も過疎化が進んでいる村からの発信だろうと、今までにない、自分の許容範囲を超えたチャンスもリスクも同時にあるけど、私としては、今までにはなかった自分という存在を知ることであったり、今までではあり得なかった価値が開花する可能性の方が大きいと思っています。
よって、一定のコミュニティの中で形成された常識や価値観なんてのは、もうどうでもよくなって、私は私、彼は彼で世界中に発信して、任意の一定数の同志や共鳴者を募っていけばいいことなのです。
私は私、彼は彼、それでいいということなのでしょう。
だから、私は思う。
彼が自身の人生を賭けて、誰かを引き合いに出して批判・否定しながら自己の正しさを主張するのが本当に正しく、そして自らが美しいと信じられるのであれば、ずっとずっと死ぬまで続けていけばいいと。
私は私で、自らが世界中にさらされて批判されようと、私の主張はこうである、後になって変わるかもしれないけれど、今の私はれっきとしたこの私なのであると主張すればよい。
どちらが正しいとか間違いの問題は、それはもう誰にも永遠に分からない。
「発信者としてどうありたいか」「人としてどう生きていきたいか」「美しさとは何なのか」という○○観の根底が違うだけなので、それは、「私はこうだ。」と言い切ってしまえば、それはそうなのです。
自分のことだけ言っていればいいのに、ご丁寧に友人のことを落とし込めるような表記をわざわざ追記するような神経は、私から見たら「醜いなぁ。誰の喜びに貢献しているつもりなんだろう?救いようのないバカで、そんな奴と関わっていたと思うだけで悲しくなるよ。」と思っても、彼が「私の文字による表現方法も、それを書こうと思った心のあり方も美しい。」と信じていれば、それはもうそれ以上はどうしようもない。
人としての根底にある価値観も違えば、自分の主張をいかに魅力的に表現するのかという価値観も違うのです。
違うだけなのです。
違うのだから、もう交わることはないだけのことで、彼は彼で、死ぬまでそういう発信をし続けて世に問えばいいのです。
自らの「美しさ」「美学」を問えばいい。
私から見れば、自らの醜さと、思考の浅さと、脳の悪さ等、ご丁寧に世の中に自己紹介しまくっている人にしか見えないけれど、でも、彼は彼で自分は正しいと思っているわけですから、それはもうどうしようもない。
私の意思決定としては、もう関係を持ちません、という絶縁をするだけで、とてもシンプルです。
(ただ、「会いましょう」とかアポを入れてくるから面倒くさい(苦笑)。だから理解の範囲を超えたアホにしか思えない・・・・・(泣)。)
人には自分の主張があるだけで、どの主張が本当に正しいのかというのは、分からない。分からなくても、発信することによってチャンスはあるというのがSNSの時代なのだろうと思う。
一貫していればいいのです。貫けばいいのです。
よって、私は、一貫してそういう発信をしていくだろう彼のような人には、最大限の痛烈批判を主張しながら、「あなたの信じた道を応援してるからね。」と一生交わることのないことを前提に最大限のエールを送るのみである。
私は私の責任において、私の主義・主張を発信し続け、そしてそれは誰も否定も奪うことはできなく、私も誰かの主張を奪うことのできない、極めてフェアな時代であり、そして、人のあるべき姿や美しさとは何なのかを、それぞれが自覚し、問われる時代なのだと思います。
「主張=自由=リスク」
今回の件で、言葉は同じながら、その意味合いと認識が私の中で変わりました。
そういう意味では感謝しているといっていいでしょう。
こういう想いをしながら、SNSの発信を辞めていったり、嫌いになったり、そういう方もきっとたくさんといると思います。
それでも、なお、私は個人の主義・主張の発信はこれからの時代、大きな意味を持つと信じ、伝えていいと思ってます。
私は、自身の講演で「私の主義・主張は、誰も奪うことはできない。同様に、あなたの主義・主張は、どんな規制やルールも封印することはできはない。誰もが自由に自分自身を伝え、それを確認できる時代になった。何て素敵な時代かと思うのです。伝えましょう。私を伝え、あなたを伝えましょう。」そう締めくくった時がありました。
その時の自分の主張は、まだ続いていると確信しています。