主張の繰り返しに本当のことは見えてくるのか・・・?
- カテゴリー:
- 坪井式SNS論
昨日の私の投稿に対して、
↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
多くの方からご心配や感想の連絡を公私に渡り頂きました。ご心配お掛けして申し訳ありません&ありがとうございます。
あまりこの話題を題材の主として引っ張るつもりはありませんが、ここに関しては誤解やご心配を頂かないようにという主旨で、今の私にできうる限りで補足だけさせて頂くことにしますね。
まず、頂いたお声の中に代表的、あるいは印象的なものがあって、それは、
①「怒っていますね。」
②「無視しましょう。」
③「もし良かったら私から伝えときましょうか?」
の三つです。
それぞれに思うことがあり、回答する形で今回の私の主張を探求していきたいと思います。
まず「怒り」があるかということなんですが・・・・・、確かに、「怒り」の感情がないと言ったら嘘になりますが、それでもブログで公表するまでに、時間をかけて、果たして出すべきか、出すとしたらどう書くべきかを、つたないながらも考えましたので、書いている時点で、「怒り」という感情は全面にあったわけではないんですね。
ただ、「怒り」を感じた経緯も書いたつもりですし、「怒り」の感情が本当にゼロかと言えば自分では分からないので、読まれた人が感じられたのであれば、感じる何かが伝わったのかと思います。
「透けて見える」というやつですよね、きっと。
でもこれって論理ではなく、感じることですよね。私はそれが結構大事で、また恐いと思っているところです。
なぜなら、今回の発端となった「彼」のFBの投稿には、「坪井秀樹」という私の名前が限定されていたわけでもなく、本当の意図がどこにあったか確認した訳ではなく、受け手の私が、勝手に、得体のしれない何かを感じてしまったわけですから。
私は「彼」の投稿内容・文面から、今までに感じたことのないような、恐怖にも悪意にも似た、あるいは醜さや思考の貧困さ・・・・、ん~、要は筆舌にしがたいほどの今までにない感覚を透けて見てしまったわけです。
これには、社会的立場とか、経験とか学歴とか知識とか、そういうものじゃなく、文法上の論理でもなく、極めて動物的というか、何と言うか・・・・。
理屈の上では何とでも言えるのでしょうが、この「透けて見える」「感じる」というのは動物でも人間でも、大人でも子供でも誰もが持っている感覚だと思うのです。
どんなに罵倒するような言葉を使っていても「楽しそうだなぁ、この人。」と感じることもあれば、どんなに冷静で丁寧な言葉を使っていても「なんだか怒ってるみたい・・・。」と感じるってのは経験があると思います。
そういうやつですね。
だから、今回の文面からは私の「怒り」が出ていたかもしれないと。
ただ、私の今の「彼」に対する認識は「怒り」ではなく、「諦め」なんですね。
もう「諦めている」。
「怒り」というのは、私の中では、まだ「怒る」だけの対象として認識し、すなわち「怒り」をぶつければ何とかなるかもしれないという期待が相手に込められているわけです。
今回は、それすらない。「彼」を「人の形をした人ではない生き物」として認識するしかないと思ってしまったということです。
ちょっと飛躍した例で言うと、「最初は人だと思って言葉を教えていて、何度教えてもちゃんと言葉を使わないので、いよいよ怒りを覚え始めたけど、よく見たら、それは人ではなく犬だった・・・・・。犬なら、それは怒った自分がそもそも間違っていた。言葉を教えることそのものを諦めた。」という感じでしょうか。
それは、「怒り」ではなく「諦め」ですよね。
一般の関係のおいて「ちょっとやり過ぎだ。」とか「言い過ぎだ。」「誤解だ。」といったようなことになって、だから話し合って、理解し合って、とかいう範疇じゃないんですね。
じゃあ、どんな範疇かというと・・・・・・、
SNSの使い方や、ビジネスで効果を生む方法というのは、もちろん大事ですし、そこに価値はあると思っています。これをX軸としましょう。これは「現象」、すなわち目に見えるものです。
もう一方で、伝え手として、効果的な伝え方にどんな気持ちや心を乗せるのかという、人としての根本となる価値があります。これをY軸とします。これは「本質」、すなわち目には見えないものです。
私は、最新技術が発達すればそれを使えばいいと思うし、個人でもビジネスでもどんどん活用すれば良いと思っているし、SNSについては現代ビジネスにおいてはマストだと思っていて、人にもおススメしています。
しかし、DM・チラシの紙媒体だろうと、SNSだろうと、絶対に忘れてはならないのは、人として最低限もっていなければないのは、「相手に対する想い」です。
「相手に対する想い」が強い・弱いというのはあるでしょうが、強い・弱いどころか、「相手を虐待しよう」「相手を罵倒しよう」「相手を落としながら自分を上げよう」という、人としての最低限のラインをも下回る、ホントにこんな奴いたんかい?みたいな意図を感じたんですね。
実は、ちょっと前から、私以外の人に対しても同様の投稿があって気にはなっていたのですが、今回は私に思いもよらず、いきなり直接来たという次第です。
ここで問題なのは、「彼」はそれを
①意図した
②意図しなかった
かの、どちらだったかということなんですね。
①の「意図した」のであれば、まだ救いようがあります。それなら「叱る」とか「怒る」といった形で対応したとします。
今回、私は②の「意図しなかった」んだろうな、と思ったんですね。
「彼」は意図せず、それで良かれ、普通だ、という基準で伝えているなら、これはもうどうしようもないのです。手に負えません。
なぜなら、「他人を踏みにじり、落とすことで自分の価値を上げようとすること」が「彼」にとっては至って普通で常識なのですから。
それが普通なのだから、意図もへったくれもない。空気を吸うように、まばたきするように、何も意識せず普通にそれをしているから、何が「悪い」と言われているのか、分かるわけがありません。
仮に、私が怒ったとします。怒ったとして「なんで怒られているのか分からないけど、相手がそこまで怒っているんだから、まぁ謝っておこう。俺、悪いことなんて何にもしていないのに、なんかこの人必死で怒ってるから、これ以上はもう面倒くせーから、取りあえず謝っておこう。」となるんだろうな、と私は確信したということですね。
こういうことを言うと、「それをちゃんと言ったのかい?」と言う人もいます。私が「今までにも何度も言ってきた。」と言うとしましょう。そうするとキレイごととしては必ずこう戻されます。「それでも諦めるな。」と。
もしかしたら、そう思う方もいるかもしれないので、念のために伝えます。
リアルでもSNSでも、私はこの50年近く今まで数えきれない程の人達と関わってきて、その中でももちろん色んなことはあったけど、でも、私は今までの人生の中でこうして「諦める」と認識した相手は一人もいません。
ちなみに、FBの「友達」で登録しているのは、今日現在で1151人いてくれていますが、友達削除・ブロックしようと思ったのは「彼」が初めてです。
(結果、しなかった理由は後述します。)
その中でも、「彼」はこの10年近く、リアルでもSNSでも、他の人よりも繋がりがずっとあったし、思い入れの強い相手でしたからね。関わりは深かったのです。
ここからはイメージです。
そんな中、そういう関係の友達10人と半年ぶりに全員集合して会うことになった。会えることそのものが嬉しくて、これからの二日間に対して「わくわく」している。それぞれが集合してきて、一人一人声かけながら握手していく。一人目・二人目・・・・・・そして最後に「彼」の番。くったくのない「彼」のいつもの笑顔を見ながら、嬉しい気持ちになって、握手しようと手を差し出したら、いきなり「ブスッ」と音がして、違和感を感じたのでフと下を向いたら、ナイフを右わき腹に刺された。「彼」はいつもの笑顔にいつもの挨拶、殺意など微塵もなく、いきなり笑顔のまま「ブスッ」と刺した・・・・。
今回、私が「彼」のFBの投稿から受けた印象はこんな感じなのです。
もちろん「彼」はこんな犯罪はリアルには絶対しませんが、私が受けた印象としてはこんな感じがピッタリなのです。
確かに「坪井秀樹」という名前こそ「彼」は書いていません。ただ、やっぱり、それは「私」のことでしょ?と、私は認識してしまった。
自分が経営者として立派な実績を出したということを主張したければ、それだけを書いとけばいいのです。
自分がどれだけ素晴らしいかを吹聴する投稿だけでも好き・嫌いが分かれ評論されるのが常の中、それでも私は彼の味方で応援者でいられました。良かったことは良かったね、と思っていた。それが友としては普通だと思っています。
ただ、そこに、わざわざ、2人で話した時の私のプライベート極まりない、オフザケで言った言葉の一部を抜粋して、自分の実績と比較対象して、あげく「こんな人のことを本当の○○○○なんていうと思いませんか?」と、いつも自分が他人から言われているような下衆な単語を出して紹介してくれますかね?
こうなってくると、もう、SNSでは名前は出さないまでも、リアルな場では私の名前を出して、同じような論調で喋ってるんじゃねーか?という疑念までわき始める。
「彼」も人前で話す立場にいる人ですからね・・・・。
その内容が、私にとって、特にどうでもいいことならいいのです。「坪井はアホな画像ばっかり出して、やっぱりアホだね(笑)。」なんて全然いい。それは私が実際に公でやっていることだから、全然いい。
私が実際にやっていることや、このブログ上の私の画像や事例なら、どんなに批判してもらっても構わない。
それは、私自身が自分の責任で公に発信していることだから。そんなもんはどうだっていいし覚悟の上です。
だから、私の知らないところで、誰かに私の悪口言ったり、話のネタにするなんてこと、そんなのはいくらでもある訳で、そんなのはいくらでもどうぞ。
ただ、今回のは、SNSでも影響力を持ち、時に指導的立場になる「彼」が発信していることで、私の今の立場やお仕事からすると、直接であれ間接であれ、影響があるんじゃないか?と思ってしまっているということです。
SNSなだけに、それが回りまわったり、拡散されまくったり、それが誰かの耳に入ったり、お仕事先の皆さんにがっかりされたり不審がられたり、「そんな人に経営相談やビジネス講演なんて頼めない。」と思われるんじゃないか?とすら思える心配・不安になるような気持にさせられて、あげくお国の某機関から、いらんこと疑われるんじゃないか?と可能性として不安を煽るような内容だったんですね。
今はまだ小さい範囲だし、大した影響なんてないと思っていますが、今後のことを考えると、私としては、身の危険を感じてしまう訳です。何しろ、「彼」とはバカっ話も一杯してきましたからね。
案の定、「彼」の投稿を読んだ共通の友人・知人は、「あぁ、坪井さんのこと言ってるんだろうなぁ、とすぐ分かったよ。やっぱりそうなるよなぁ。あれはひどいよねぇ。」となってる人が多いのです・・・・・。
「彼」の投稿程度で私が疑われるなら、それは私がその程度だという前提は持っていますし、それで離れるならいつか離れていく人だからいいさ、くらいには私も思ってますよ。
「でも、実際に言ったんでしょ、その言葉を。だったらあなたが悪い。」と言う価値観の人も中にはいるでしょう。
どう受けとるかは私の計り知れないところで認識されるのですから、それは困るのです。
まして信頼し合っている2人だからできる「バカっ話」という認識を私は持っていたし、しかも、それはその延長上の中のたった1パーツの言葉だったので、余計に心外かつ遺憾なんですね。
これを直接「彼」に言ったとしたら、きっと「彼」は言うでしょう。いつものくったくのない満面の笑みを浮かべて、「そんなつもりないですよ~(笑)。」と。
でも、その「そんなつもりないですよ~。」が、どれくらいの「つもり」なのかが私にはもう分からないし、言葉で聞いたところで、信じられないのですね。
ね?もう、いかに信じられていないかが分かるでしょ?
「彼」は、私の言うところの「人」としての最も大切な部分が異常に欠落していると私が思っているだけで、あとは至ってマトモで、むしろ素晴らしい経営者さんだと思っています。
でも、だから恐いのです。影響力も十分あるし、指導的立場だし、リーダー要素もちゃんと持っているし、実績もちゃんとある。皆から慕われたり、頼られたりもしてるし、役にも立っているでしょう。だから、彼の言うことや、発信する内容に、まだ分かっていない人が、影響される可能性は十二分にあると思っているのです。
1000あるうちの999がどんなに素晴らしい人だとしても、たった一つの絶対に欠落させてはいけない、人としての最低限の心がない。
それは、繰り返しになりますが、「他人を愛する」のか「他人を落とす」のか、どっちの1点が全ての根底を支えているかということです。
この1点がどちらなのかで、上に乗っかる999の要素全てが、幸せを創るのか、人を殺める凶器になるか決まってきてしまう。
ここまで私の胸中を読んでいただいて、それでも、なお「諦めるな」と言う人がいたら、それはそれでしかたない。その人が関わってあげて下さい。でも、私は知らないですよ、今度はあなたがブスッとやられても。警告だけはしときます。距離が近づけば近づくほど、関係が深まれば深まるほど、助けてくれるどころか、いきなり平常心でブスっとやられる。
こんな、人の形状をした「人」ではない生き物に、こちらの常識で「怒り」などぶつけたら、こちらの根底にあるものがどんなに愛情だろうと思いやりだろうと、それを「彼」にどんな意味合いで受け取られるのか、予測すらつきません。
よって、私は、どこの誰が何といおうと、私が「諦めた」と意思決定したということです。
だから「怒り」が透けて見えるかもしれませんが、私の意思決定は「怒り」ではなく「諦め」ということですね。
さて、今後の私の対応です・・・・・・。
「無視すれば良い。」というお声も頂いていて、それはそれで考えましたが、こういう相手は無視はできません。
関わりたくないけど、いつどこで相手の論理で化学兵器打ち込んでくるか分からないような敵国があったとしたら、監視は必要だと思うのです。
もし、こちらから情報を取ることを遮断してしまったら、相手が何をやってるかまるで分からなくなります。なので、静観できる状態を保ちたい。
私のこのブログを「彼」が読んでいるかどうかは分かりませんが、もし今度同じようなことがあれば、その内容いかんによっては、法的な処置がとれるのかどうかも考えておかないといけないんじゃないかと思っています。
言葉も通じない、こっちからアクションしたらどう受け取られるか分からない、何もしなくても何やりだすかまったく読めない、なんて相手、ホントに恐いですもん・・・・・。
だから、もし「なんだかんだ言って、まだSNSでは繋がってて、本当に諦めていないんじゃん。」と思われる方がいたとしたら、そういう意図ですので悪しからず・・・・。
「無視すれば?」というお言葉に対しては、上記のように思っているということです。
三つ目に、共通の友人・知人で「もし良かったら、私から「彼」に言いましょうか?」と言って下さる方もいます。
お気持ちだけは大変ありがたいのですが、私の今の希望は、直接であれ関節であれ、「彼」とは出来うる限り一切の接触を断つことです。
勝手に関係修復を意図に動かれてしまう場合は、これはもうしかたないですが、前記したように、私としては、通常の言葉のやり取りで理解し合えるとは思っていないのです。
だって、前日の前日まで、「今日は名古屋に入ってるので、遅くなってもいいからご一緒できる時間ありませんか?」って「彼」からメッセージくれてたんですからね・・・・。
そんなの、私から言わせれば理解し合えって言う方がおかしいってもんです。
都合がつかずに会えなかったから良かったものの、会ってしまって、またうかつに何かペラペラ喋ってたらとしたら、どうなっていたことか予想すら付きません。
こうなってしまったからには、「関係修復」という言葉に表されるような、通常の人間同士の進め方で何とかなるものではないということです。
ただし、これは伝えておかねばならないことですが、プライベート・仕事に関わらず、今後「彼」と関わる方々に対する偏見や拒絶、すなわち「あいつと仲良くするなら、もうそいつとも付き合わない。」というようなことは一切いたしませんし、仮に、「坪井、それはおかしいよ。」と今回の私の主張に異を唱える方や、茶化しが入ったとしても、それはそれで通常通りの私の「人」としての関わり方をさせて頂くことはお約束いたします。
今回の件は、私の最も大切にしている価値観であって、それは私個人のモノです。人にはそれぞれの価値観や主張があって、私と違う価値観の部分で「彼」とどう関わりがあろうと、それは私にとって何の問題でもありません。
それくらいの出来事が、全てが密接に入り組んでしまって、私の人生の中でたった1点に集中したのだと思っています。
何卒今まで通り私とも「彼」とも、ご自身の判断でお付き合いいただけるように、ご理解下さい。
後は、この私のブログを読んで、「私も気を付けます。」とか「今までを反省します。」という方もおみえになりました。
こればかりは、前のブログで書いた通り、情報の受け手の問題になりますので、何とも言えませんが、ただ、私の今までの人生でここまでの意思決定をした「彼」という存在は初めてであり、恐らく今後一生、私の直接の関わりとしては出てこないだろう予測をしているくらいの稀な事例ですので、ご自身に当てはまることは何もないと思って頂いてもいいと思います。
「人」であればいいのです。ただ「人」でありさえすれば。
最後に・・・・・・・、
私は、「彼」とは2度と関わり合いたくないという意思決定は、恐らくこれは死ぬまで変わらないのではないかと思っています。
仮にどこかで「彼」と出会うことがあって(可能性として非常に高いのは本当に悩む・・・・・)、その時、仮に、はたからみたら笑顔で話し合っているとしても、それはそうしておいた方が安全だと私が判断した結果で、今のこの意思決定が変わっていることはないと思います。
私も、公の場で、ここまで徹底的に主張しているのですから、そこまでの決意がなければ書きません。
ではありますが、ただ、人類として「彼」という存在がいない方がいいかどうかというのはまた別問題と捉えています。
今回の件は、「自由な表現」という、私が最も大切にしたい価値観に対して、それを標榜する以上は、ここだけは絶対に外すな、どんなにアホ発信だろうと、真剣勝負の発信だろうと、これだけは絶対に外すなよ、という天からの教えとも思ってます。
前職までの社会的立場という枠から外れて2年、気がついたらあまりの嬉しさに調子に乗っていたこともあったんじゃないかなぁ、とも振り返えらされました。
また、ここまで、自分の情報発信に、熟慮に熟慮を重ねて神経質になったのも初めての経験だったかと思います。
「彼」は人として認められるものでは決してありません。が、また「彼」がいなければ、今回の経験はできなかったということです。今回の私にとっての学びは測り知れないと自負しています。
傍から見たら「ガキの喧嘩」程度かもしれませんが、誰もが発信手となりうる人類の大発明とも思えるSNSが標準化されていくこれからの時代、何が最新であろうと、時代がどう変わろうと、絶対に外してはいけない、前提として持っておかねばならない「人」としてのあり方を徹底的に教え込まれた次第です。
私も私で、自分の過去に反省せねばならないところは多々ございました。
そいう意味で「感謝」です。
だから、「彼」は彼で、「彼」の信じる主張を発信し続ければいい。私は私の主張を発信し続ければいい。
前のブログに書いた通りです。
私は「彼」に対して相容れないという信念にも近い価値観は持ちながら、それは逆に「彼」もまた同じであり、どんなに私が糾弾しようと、「彼」が私を落とそうと、その主張そのものは一旦は受け止める。受け入れるかどうかを自分で決めればいい。
どちらが正しいのかを決めるのは、本人同士ではなく、もしかしたら、人類誰もが決めることなどできないんじゃないか?だから永遠のテーマとして続けるのではないか?と不毛にも思うのです。
それは「自由な発信」を最も大切にしたいという私の矜持とも言える想いです。
これからの時代の「発言の自由」に対する、ほんの少しでもの参考になるのではないか?と自らに期待して、だから、ブログにするだけの価値があったと踏み切りました。
そして、ここまで書きながら、私を引き合いに出して自分の価値を高めようとする「彼」を糾弾しながら、私はその「彼」をこうして引き合いに出して自分の価値に気づき、そして高めようとしている自分にも気づいてしまっているのです。
ある意味、「彼」よりも、もっとえげつなく・・・・・・。
まるで自分の人生の縮図を見ているような錯覚を覚えながら、投稿を終わります。
長文失礼いたしました。
お読みいただいて、ありがとうございました。