自分の滑稽アホ画像に教えられるプロとニセモノの境界線

その気になっているだけの私はニセモノ(苦笑)

レザージャケットを着ることができて、あまりの嬉しさに、

「その嬉しさを表現する鼻歌を歌っているという感じのアホ画像」を撮ってもらおうと、

憧れの映画俳優や、大物アーティスト気取りでポーズや鼻歌を歌っていたら、

「鼻歌そのもの」に夢中になってしまって(苦笑)、

遠征先の駅の構内で本気で鼻歌を歌っている状態になってしまって(苦笑)、

そうなると、もうただの「アホ丸出しの人」でしかないわけで(苦笑)、

結局のところ、単なるアホ画像が何枚もある状況となりました(苦笑)。

 

ちなみに、こうなると、通り行く人は、変な顔するのを越えて、避けて通るに至ることを知りました(笑)。

 

「本物」と「ニセモノ」の境界線はどこにあるのか?

私が憧れる「本物」が放つ魅力・価値と、表層だけを演じる「ニセモノ」(ここでいう私そのもの)の滑稽さは、一体何が違うのか?

(私でなくとも、本物のソックリさんや、プロ並みに本物のモノマネが上手い人とは、一体何が違うのか?)

それを、本物を見ながら、考えたりすることがあります。

 

私の今のところの結論は、

「積み重ねてきた量」

が圧倒的に違うから、そこに違いが生まれて、表層に現れるのだと思っています。

 

「見えない何かが表層となって現れる」のと、

「表層は同じようだけれど見えない何かがない」

の違いということになるでしょうか?

 

私が憧れる「本物の人」の共通点

私が強烈に憧れる人達の共通点は、その人の仕事に心震えるほどの「感動」があることです。

俳優・アーティストに限らず、どのお仕事であれ、その人の見えない積み重ねてきた何かが、表現の場となった時に、

心が震えるような、筆舌にしがたい程の感動を覚え、

気づけば、涙が溢れたり、溢れそうになるのを我慢したり、何故だか分からないけど、涙が溢れてくるような状態になることです。

 

私は、それを、ここでいう「感動」と呼んでいますが、

では、その感動はどこから来るのだろう?と、冷静な時、

(とりわけ、こういう自分にニセモノを感じた時(苦笑))

に考えては、改めて、「本物の人」の映像や写真や記録や言葉を、何度も見返したします。

 

その結果、私が出した結論は、本物の人の表層から感じる、その人が「積み重ねてきた量」を、私が認識させられることに大きく影響していると認識しています。

 

それは時に「行動量」であったり、

時に「労働量」であったり、

時に「思考量」であったり、

時に「練習量」であったり、

時に「時間量」であったり、

「量」の前に付く単語は変われど、共通項目は「量」という概念です。

 

常人では理解しがたいほどの人並み外れる程の圧倒量を、

関係のないこちらが認識できるほどに、何故この人はこれをしてきたのだろう?

そこに明確な理由や言葉はなくとも、それを実際にしてきたその人の姿は、

こちらが、その人が積み重ねてきた実際のその量を知らなくとも、

あるいは、そんなこと知るよしもない初めて触れた場合でも、

その人から感じてしまう時があります。

 

本当に圧倒量があったのかも知れません。

本当は圧倒量などなかったのかも知れません。

どうあれ、肝心なのは、私が「積み重ねてきた量」を実感させられるということです。

 

だから、恐らく、私が憧れる人の「本物」とは、

「本当の本物」か、「プロ級のニセ本物」かのどちらかとなります。

 

問題は、その方が、「本当」か「ニセ本物」か、どちらかということではなく、

私が本物と認識しているその人から、何を感じているか?ということになります。

 

それは、私が、プロとしての場に立った時に、何を大切にしたいのか?という定義に大きく影響し、直結しています。

 

私が、人前でお話しすることで、お金を頂く機会を頂いた時、

「自分が実際にやってきたことしか伝えない」

と規定しているのは、その為です。

 

私は「ウソ」が見抜かれるのが恐いから

本を読んだり、人の話を聞いて、それなりに勉強していると、

「あぁ、これいいなぁ。使えるなぁ。」

と思う言葉や定義やコンテンツは山ほどあります。

人前で話す機会が増えて、ましてお金を頂く機会も増えて、そして、光栄なことに何度もお聞き頂く方もいて下さって、

それが続くと、ついつい新しいコンテンツがあった方が価値のある時間になるのではないか?という誘惑にかられ、

そして、思わず、新たな知識や言葉を人前で話す時に使いたくなる時が、正直あります。

ありますが、それをそのまま使った時に、見ている側の私が、伝えている相手を本物かニセモノかを見抜こうとするように、

私が伝える側になった時に、見ている相手も同じ理屈で、私がもしニセモノなら、見抜いてしまうに違いないという恐さがあるのです。

 

だから、もし「これはホントにそうだよなぁ」と思える、新たな知識があった場合、

「その知識は自分が実際に積み重ねてきた事実のどこに置き換えられるのか?」というは自問は必ずします。

自分なりの具体事例が出せるかどうかです。

 

その置き換えに、自信がある時は、その言葉を使い、

実際にやっていなくて「言葉だけ知った程度だな」と認識したら、絶対に使いません。

何故なら、今回のアホ画像丸出し状態になるのが、恐いからです(苦笑)。

 

見抜かれてしまったが最後、私がどんなに自分に酔って、その気になって、夢中になって、表層だけを伝えていたとしても、

その姿は、見ている方から見たら、今回の私の滑稽なアホな映像でしかない、ということになります。

我ながら、本当にカッコ悪く、本当にアホとしか思えないですから(苦笑)。

よって、今回の画像は、自らへの戒めとしては最高の一枚ということができます(笑)。

 

そういう意味で、「知識」と「行動」の一致というのは、伝え手・売り手・発信手になった時の必須条件なのだと思うのです。

 

プロのステージに立つ時は「本物」でありたい

プライベートならモノマネしてて「でへへ、アホです。」とアホ丸出しでも、それはそれで、自己責任の範疇で済まされるのでしょうが、

お金を頂くプロとして人様の前に立った時に、私がそれをされたら、私なら恐らく「アホだね」では済まさないでしょう。

文句は言わないまでも、二度と客側にはならない意思決定だけは心の中で決めます。

 

「パクリ」がいけないのではありません。「真似る」のが悪いのではありません。

自分のビジネスで、自分でやっていることなのに、誰でもなく自分に対して「ウソ」を出すのが、良くないと思うのです。

 

独自の価値は「履歴」ではなく「履歴の中」にある

私はよく、自分の講演で、自己紹介も含めて自分の履歴を出しながら、

「あなたの履歴の中に価値が宿っています。」

と話すことがあります。

 

「履歴に価値がある」と言っているのではありません。

「履歴の『中』に価値がある」と言っています。

「履歴」ではなく、「履歴の中」にです。

何故か?

 

自分自身の履歴が作られていく中で、自分は何を積み重ねてきたのか?

自分が積み重ねてきた「◯◯量」は一体何だったのか?

その「量」を積み重ねていく中で、自分は、人として何に気づき、何を学び、何を得て、何を伝えられるに至る人間となったのか?

それを見つめてみましょう。必ずある。必ず何かがある。あなたしかない何かが必ずある。

それを言っているのです。

だから「履歴」だけ書き出しても何の意味もありません。

「履歴の中」に自分の何を見出せるかどうかです。

資本力に優る「独自の価値」はあるのか?

資本主義社会では、一般には、資本が大きい方が圧倒的有利です。

資本が大きい方とは、端的に言うと、大手企業と呼ばれる企業です。

にも関わらず、私達は、中小零細個人としてビジネス活動をしていて、これからもしようとしています。

圧倒的不利な状況の中、常識的でもなく一般でもないビジネス活動の成功要因は何か?と言えば、

それは、簡単には効率化できない「属人的な要素」を前提にしたビジネスモデルしかないというのが、今のところの私の結論です。

 

だから、聞くのです。

「なぜ、この仕事をしているのですか?」

「なぜ、この仕事をするに至ったのですか?」

「なぜ、この仕事を続けようとしているのですか?」

「この仕事を通して、何を積み重ねてきたよですか?」

「この仕事を続けていった延長線上に何を実現したいのですか?」

「あなたのビジョンは何ですか?」

・・・・・・、

自分の人生で何を積み重ね、この仕事で何を積み重ね、それを、何でいかに表現していこうとしているのか?

と、これをしつこくしつこく話し、そして聞くのです。

一番時間をかけて聞き続けるのです。

大手企業にはない、「独自の価値」を見つけようとするのです。

 

そこを明確に自覚しない限り、伝え方を勉強しても、伝えることそのものが伝えられません。

伝え方だけの知識を得て、上手く伝えられたと思っていても、実態は、私のアホ画像状態になるだけです(笑)。

 

中小零細個人企業において、唯一の武器であり、そして、唯一のメリットは、

自分の人生を丸ごと仕事に向けられることに集約されると、私は規定しています。

夢とか、理想とか、哲学とか、美学とか、個人のもつそれらの個人の内面に属する何かの実現へ向けて、

人生をかけて向かい続けることができることです。

自分の責任の範囲内なら、誰かも文句言われることもなく、誰から理解されなくとも、思う存分に向かい続けることができるのです。

 

様々な社会的立場と経験則による私の仮説

それは、アルバイト・社員・経営者・資本家と、それぞれの職位を経験し、

それぞれの職位での最大利益と効果とは何かを模索し、

大手企業・零細家業・事業立上げ・株式上場・無職フリーランスという、様々なステージでのあるべき姿とは何なのか?を実際に体験させて頂けたから、

中小零細個人が社会で生き抜く、上記した根本定義が生まれたと思っています。

 

だから「履歴」ではなく、「履歴の中」だ、とわざわざ強調するわけです。

 

例えば、「履歴」だけなら、「家業廃業」という事実がある人はたくさんいるでしょう。

あるいは「株式上場」という実績を持つ人もたくさんいるでしょう。

でも、その体験・経験の中で、「自分が積み重ねてきた量」が何のか?は人それぞれ違うはずです。

 

「私は株式上場しました。」「私は一流会社に勤めています。」「私は一流大学出身です。」

だから何なの?ということです。

たまたまその会社にいただけで、何もしなくても上場できたかも知れません。

実際に何かを積み重ねて、やった人と、やらなかった人と、そこに違いが出ます。

一流大学出身でも、実際に必死で勉強して積み重ねて入った人と、親のコネでただ入った人とでは、違いが出て当然と思うのです。

同じお金持ちでも、自分でゼロから稼ぎ出した人と、お金持ちの家に生まれてきただけの人と、人間が違っていて当然でしょう。

どちらが良い悪いとか、好き嫌いとか、そういうことではなく、

その積み重ねてきた量が何であるか?に「違い」がある、すなわち「独自性」が宿っているとしか、私は思えないのです。

 

そうでなければ、

「歌が特別上手いわけでもないのに、その人の歌を歌っているのを見ると、何故だか感動して涙が溢れそうになる」

みたいなことが実際にあることに説明がつきません。

ということは、「上手い・ヘタ」ではないということだと思うのです。

 

「上手いかヘタ」の前に「本物かニセモノ」かの方が大事

私個人のことで言うと、人様の前でお話しして、お金を頂くなどという立場としては、

大した知識もないし、難しい言葉も知らないし、誇れるほどの実績やキャリアがあるわけではないし、話の組み立てもできてないし、シナリオも、スライドも紙芝居程度だし、

言ってみれば、プロの技術としては、私なんてまだ「ヘタ」ということになると自覚しています。

でも「ヘタ」は努力して技術を磨けば上手くなる可能性はある。

「上手い・ヘタ」のその前に何がなければいけないか?

 

今のお仕事に関しては、まだ駆け出しのペーペーの私としては、

期せずして始まったこの5年、ずっとずっと自らに問答してきたことに、やっと自分なりの一つの答えが出てきているのかも知れません。

 

「上手いニセモノ」と「ヘタな本物」と、どちらかを選べと言われたら、

私は迷うことなく「ヘタな本物」でありたい。

その上で「上手い本物」へと向かいたいのです。

まだまだ続くのだと、それだけは覚悟しています。

私が強烈に憧れる人は皆、「上手い本物」なのだから、憧れが終わらない以上、そうなりたく追い続けるのでしょう。

 

今の私にできる全力の「本物」で

明日、初めてお会いする皆さんへの講演の内容を考えながら、

様々な思考が交錯しながらも、

改めて、本当の自分であることだけを伝えようと再認識するのでした。

 

 

一枚の、最低の滑稽極まりない自分のアホ画像に教えられながら、

このブログを書きていることそのものが、明日の本当の準備をしているのだと、再確認しているとも思うのでした。

 

私のアホ画像が、私の仕事観に対し、この上なく役に立っています(苦笑)。

 

明日も、まだヘタかも知れないけど、本物ではあるように、それを一所懸命お伝えすることだけは肝に銘じてやらせて頂きます。

 

ニセモノはなんて滑稽でカッコ悪いのだろう?(苦笑)
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