リライト記事「あれからの30年、それぞれの30年」

長期の遠征から名古屋に戻りました。

先日の「第87回・商業界ゼミナール」ではたくさんの方々とお会いできましたが、

中でも、私の今後に大きく影響するある方との再会と、出来事がありました。

私にとっては、恐らく今後の人生に関わるであろう、とても大きな出来事でした。

何層にも重なる様々な感慨と、過去・現在・未来を繋がることを整理するのに少し時間がかかりましたが、それを記すにあたり、前提となる出来事を過去ブログから抜粋しました。

長くなると思うので、まずは過去ブログのリライトをお読み頂ければ幸いです。

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2014.05.17記事

『あれからの30年、それぞれの30年』

先日、東京は八王子に30年ぶりに寄った際、どうしても探したいお店がありました。

大学1年生当時、初めてアルバイトでお世話になった「東京シューズ」さんという靴の小売店さんです。

八王子を中心に多摩地区では多店舗展開している靴屋さんでした。

 

当時は、支店の一つ「ブル」というお店で、コンバースのジャックパーセルというモデルを日本でいち早く販売して、ファッション雑誌でも紹介されたり、

東京と言えど多摩地区・八王子という立地に関わらず、全国的にも有名な靴屋さんでした。

レッド・ウィングのブーツや、コンバースのスニーカーなどを展開していたその「ブル」という西部劇に出てくるようなアメリカンテイストのお店をとても気に入っていて、よく覗いていました。

 

ある日、店頭でアルバイト募集の貼紙を見つけました。

アルバイトをしたいわけではなかったけど、「ブル」で働いてみたい衝動に駆られて、その場で応募することにしました。

当時から、同じ仕事をするなら、好きなモノに携わったり、囲まれていたいという価値観だったようで、

友人達は時給や条件を優先していたのを考えると、今も昔も私の仕事観というのは、変わっていなかったのだなぁと思います(笑)。

 

ただ、募集していたのは、八王子の駅ビルのお店だったようで(笑)、本社に面接に行ったら、そちらで働いて欲しいと言われました(笑)。

その「東京シューズ・駅ビル店」は、良く言えば、こ綺麗な商業施設によくある入りやすい靴屋さんでしたが、

幅広い男性から女性まで幅広い層を対象にした一般的な靴屋さんという感じの店舗でした。

品揃えの広さは、レディースが7割で、メンズが3割といった感じで、正直、私が好むような店舗ではありませんでしたが(苦笑)、

まぁ、メンズも、リーガルやコンバースも扱っているし、たまたま面接してくれた太った坊主頭の社長さんのキャラクターが、とても優しく感じ良く、

面接に伺った時には「いやいや、今日は誰もいないもんだから、ごめんね。」と言いながら、自分でお茶を入れてくれて親切に対応して下さったので、

「ま、いっか。」という軽い気持ちでお世話になることにしました(笑)。

 

私は、そこで人生初のアルバイト、初めての社会との関わりを経験させてもらい、大学3年になって都内の北区・赤羽に引っ越すまでお世話になった会社です。

 

ここの店長さんは、小俣さんといって、優しく、楽しく、時にこっぴどく可愛がって頂きました。

背が高く、スレンダーな身体つきで、いつもテキパキと、にこやかに動く姿が特徴的で、女性にも男性にも気持ちの良い対応をされる、そして一日当たりの売上予算や数値には厳しい、いま思えば、小売接客業の鏡のような方でした。

 

「駅ビル店」は、駅ビルらしく平日の夕方からや、土日などはとても人通りが多く、とても忙しいお店でした。

大学の帰りに入っては、毎日忙しくも楽しく働かせてもらって、クタクタに疲れて帰って、

仕事っていうのは、こんなに大変で、でも、自分の接客で売れるというのはこんなに嬉しいものなのか、ということを実践で学ばせてもらいました。

 

時給いくらだったか忘れたけれど、こんなに働いても月に貰える給料はこれくらいにしかならないのか、と、毎月当たり前のように仕送りしてくれていた親への感謝も知りました。

私はそこそこ活躍して、社員に並んで個人売上ランキングに登録されるくらいにはなっていて、全店で名前を覚えてもらえるくらいのアルバイトになっていました。

 

社長の息子さんの専務もいて、時々店頭でお会いできて、可愛がってもらいました。

まだ若い専務は、いつもにこやかで、丸メガネをかけて、当時流行のDCブランドのカジュアルな服を着こなしていて、赤いジャンパーが似合う憧れのお兄さん的な存在でした。

店舗で会うと、いつも声をかけてくれて、私の服を見てはファッションの話をしてくれたり、一人住まいの私にライフスタイルのアドバイスもしてくれたりしました。

閉店間際に店に来てレジチェックをしながら、店頭で調子に乗る私を見て、

「坪井、仕事だぞ。あんまり調子に乗るな。」

とここぞの時には叱られました(苦笑)。

 

仕事にも慣れてきたある日、まだ社会を知らず、調子に乗って仕事をなめ切ったようなことをしでかしたことがありました。

私の生意気な態度が目に余ったのか店長は、「ツヴォイ!やる気がないなら、もう来なくていい!やる気のないような奴はウチにはいらない!もう帰れ!」と叱られて、ホントに帰されたこともありました。

とても悲しい気持ちばかりになって帰ったものの、日野の下宿に帰ってから、とんでもないことをしでかしたと後になって気づいた私は、反省して、

(クビにされても、最後に、ちゃんと謝るだけは謝ろう。)

と思って、翌日の朝一番で、学校の授業に行く前に、店のオープンを待って謝りに行きました。

バツの悪そうな私の顔を見た店長は、私がもう来ないと思っていたらしく、「あれ?」と驚いたような表情をしましたが、

私が反省した経緯を説明し、謝罪したのを聞くと、すぐに

「そうか、うん、よく分かったよ。また今日から頑張れよ。お前、今日は学校はいいのか?いいんだったら、すぐに倉庫に行って在庫整理してこい。」

と仕事を言い渡しました。

「ありがとうございます。」

と仕事に取り掛かかろうとキビスを返す私の後ろから、店長の声が聞こえました。

「そうか・・・・、坪井が来たじゃねーか・・・。ツーボイが、来たじゃねーか・・・。」

と嬉しそうに一人言を連発していました。

その姿が、私も何だかとても嬉しかったのを鮮明に覚えています。

その映像は、私の中の「店長らしさ」というものの象徴的な場面として残っています。

そんな思い出のある店舗であり、店長でした。

八王子の街は、駅ビルも随分と変わっていて、当時あった場所には店舗はなくなっていました。

下の画像のショーウィンドウには、当時はレディースの靴がたくさん並んでいたのです。

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今は、店舗がどこでどうなっているのかも分からなくて、スマホで調べたら、八王子には一件だけになっていました。

Googleマップを頼りに、駅から数分歩いた場所、住所とおりに靴屋さんはあるにはあったのですが、屋号は違っていて、「?」でした。

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「この住所で靴屋は、ここしかないよなぁ。」とおもいながら、何気に店内を覗いてみて、一瞬目を疑いました。

2人のおばさんを同時に接客していた男性の姿は、あの時のあのままの小俣店長の姿でした。

遠目に見てもすぐ分かる、靴屋の鏡のような片膝をついた接客や、サッと別の靴を取りに行く仕草や、手に靴を取って相手に説明する姿は、まさしくあの店長の姿です。

 

そうか・・・、あれからの30年、ずっとずっとここでこのお仕事を続けてみえたのか・・・・。

懐かしさとも、自分の30年の感慨深さとも、何とも言えない気持ちにしばし包まれながら、私のことなど憶えているかどうか分からないけれど、

ご挨拶だけはさせてもらおうと、接客が空くまで、待つことにしました。

 

やっと手が空いてそうな時を見計らって、店長めがけて店舗に入りました。

レディース専門の店に、私のようなのが入っていっとものだから、一瞬、業者かなにかと思ったようでしたが、

「あの・・・、小俣さんでいらっしゃいますよね?突然すいません。実は30年ほど前に、駅ビル店でアルバイトでお世話になっていたツボ・・・。」

と言いかけたら、

「おぉ、誰かと思ったら、坪井じゃね~かぁ!ツーボイじゃね~かぁ。」

と満面の笑みで近寄って握手をしてくれました。店長は私を憶えてくれていました。

「どぉしたのぉ?今、何やってるのぉ?今日は何で来たのぉ?」

と当時と変わらぬ口調で聞いてくる小俣店長に、あれから、ここまでの経緯をザッと説明させてもらいました。

ワールド退社後、家業に戻り、廃業し、そして上場の経験をさせて頂いたこと・・・・・・。

「ひょえぇ~~~~~っ、随分立派ななられてぇ~、スぅンゴイなぁぁぁぁ。いつの間にか、坪井はすんごくなられたんだなぁぁぁ。」

などと、所々に丁寧語と謙譲語を織り交ぜながら(笑)、でもやっぱり、私のことは、ちゃんと「坪井」と言ってくれることに嬉しさを感じるのでした。

少ない時間でしたが、当時の社長さんが亡くなられたこと、当時専務だった息子社長はじめ皆さんお元気なこと、そして、

「俺なんて、あれからまだここでずっと店長やってるよぉ。え?だって坪井ってもういくつになったんだ?俺なんてもう62歳だよぉ。年とったよぉ。」

と、店長ご自身のこと等々・・・、足早にお聞きできました。

 

ずっと靴屋さんの店長一筋、近くで見たら少しだけ年をとられたと思うものの、やっぱりあの時の、イキイキとした店長のままでおられることに、私は素直に尊敬の念を抱くのでした。

 

是非一緒に撮らせて下さい、とお願いしたのがこの画像です。

この方が小俣店長です。

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あの頃と変わらぬ若々しさには、正直驚きました(笑)。

 

あれから30年、あっと言う間だろうと、長かろうと、同じ30年・・・、

私のように落ち着きなく取り留めない月日を送る者もいれば、

小俣店長のように地に足をつけてずっと一つのことを磨き続ける30年もある。

それは、どっちがどうとかではないとは思うけど、私は小俣店長に初めて社会に触れさせてもらい、商売の最初を教えて頂けたことを本当に感謝し、

そして当時の一介のアルバイトだった私を、憶えてくれていることを嬉しく思っていることは確かです。

 

この30年の間に、一体どれだけの人のお世話になり、どれだけの人との出会いがあって、

自分は果たして小俣店長のように、どれだけ人の心に残るだけの関わり合いをしてきたのだろう、

これからどんな心持ちで人と関わっていかべきなのだろう、ちゃんと考えなきゃいかんと思わせて頂けました。

どんな30年であれ、私も出会った人のことをちゃんと憶えていてくれて、再会した時には、小俣店長のように笑顔で真正面から迎えられる人でいられたら、どんなに素敵かと。

どんなに久しぶりでも、一目見ただけで、どれだけちゃんと生きてきたかの月日が相手に伝わる人でいられたら、どんなに素晴らしいかと。

 

話を終えて、店を出てお別れする間際、

「あっ、そうだ、坪井にこれやるよ!」

と、あの時のように店内奥まで軽やかに走って、持ってきてくれたのは、

「これ、今、お客さんにも渡してる、良く効く『福の飴』だからよ、坪井の次の事業がうまく行くようにな・・・。」

と、手に一杯の飴でした。

 

言葉にならぬ感情を覚えながら、店を出る私の後ろから聞こえてきたのは、

「そっかぁ・・・・・、坪井が来てくれたじゃねーか・・・、ツーボイが、わざわざ来てくれたじゃないか・・・・。」

あの時と同じ店長の独り言でした。


このブログを書いてから、さらに5年後の今、

今度は、文中に出てくる、当時の憧れのあの方とお会いできることになり、

これからの私が進もうする決意に関わる、衝撃の事実を知らされます。

次回のブログに続きます・・・・・・。

 

ここから5年後の今に続きます。
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