生きていて良かった。私は「教育を信じる」自分を信じます。
2月19日、「第87回商業界ゼミナール」で講演させて頂く為、会場の東京ベイ幕張に入りました。
この(株)商業界さんが主催する大会は3日間に渡り、多くの講演家が登壇します。
私の登壇は2日目の2月20日だったので、前日入りし、ホテルの部屋で講演の最終チェックをしようと思っていました。
私が到着したのは19日の19時頃で、会場は初日の講演が終わり懇親会が始まる場面でした。
講師受付で(株)商業界・社長とご挨拶をさせて頂いたところ、
「ツヴォイさん、懇親会も、その後の『講師を囲む会』もご参加頂けるそうで、ありがとうございます。」
と言われ(笑)、部屋でのんびりグウタラ講演準備しよう(苦笑)としていた私は、
「えぇぇぇぇぇぇっ!そうなんですかぁ!聞いてないですよぉ(苦笑)。この後、部屋でグダグダしようとしてたのにぃ(笑)。」
「いやいやいや、笹井(元編集長・大会責任者)からそう聞いてますよ(笑)。」
と告げられ(笑)、半ばしかたなく(苦笑)、完全アウェイの雰囲気の懇親会場に足を運びました。
初日の講演後の500人以上の参加者が集まる会場は、熱気に包まれていました。
87年の歴史あるこの大会には、昔から来ているとおぼしき人生の先輩から若手まで、全国から集まった、まさしく老若男女の経営者・ビジネスリーダーがいて、
まるで学園祭の前日のような異様な雰囲気になっています(笑)。
今年で三回目の登壇ながら、特に有名講師でもない私(苦笑)なわけで、このアウェイ感を全身で感じる中で、
(さて、ここからの5時間近く、どうやってやり過ごそうかな?)
などと不遜なことを考えて、愛想笑いを漂わせながら、会場前方で佇んでいるわけです(苦笑)。
・・・・・・・・、そんな中、
会場後方から一直線に私に向かってスタスタ歩いてくる男性が目に入りました。
明らかに先輩と分かるその男性は、私と目が合うと、柔和な笑顔で、私に一礼し、
「お会いできて嬉しいです。ツヴォイさん、握手して下さい。」
と手を出されました。
握手をしながら、どこぞに見覚えのあるその笑顔に、
(えっと、誰だったっけ?どこでお会いしたんだっけ?)
と、私の脳の記憶DVDは、失礼がないようにと一瞬にして超高速回転で再生していました(笑)。
一瞬がどれくらいだったか分かりませんが、私の記憶再生はある断片の映像を捉えました。
(あっ!!!!!東京シューズの小俣専務だっ!!!!)
オマタの「オ」が口から出かけた時に、
「小俣です・・・・・。」
と先にご自身の名前を出されました。
画像の方、期せずして目の前に現れた方こそは、昨日のブログの一部に出てきた「小俣専務」(今は社長)でした。
↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
「・・・・!!オマタさあんうえおえあが〇■が▲ごえ●◎◆げご!!$&~|゛@v@ビ!!!!!!」
もう何を言ったか覚えていないけど(笑)、おそらく言葉にならぬ言葉を発しながら、
気がつけば、手にしていたオレンジジュースがこぼれたのも気にせずに、小俣社長に抱きついていました(笑)。
期せずして再会できた喜びや嬉しさや驚きもそのままに、そこからは一気にここまでのことをお話し、お聞きしました。
恐らく、小俣社長は、ほんのご挨拶のおつもりだったのでしょうが、私がもう引っ張って引っ張って(笑)。
●商業界ゼミナールに勉強しに来られて、パンフの講師陣の顔を見ていたら、偶然私の顔を見つけてくれて、あの時の坪井だと確信してくれたこと。
●成長して成果を出した私を嬉しく思ってくれたこと。
●前回のブログに書いてあることを、店長から聞いていてくれたこと。
●私の講演を楽しみにしていること。
●店舗展開していた「東京シューズ」の業態から、今の「うさぎや」のオリジナルの健康シューズの業態へシフトチェンジした経緯。
●若い頃にアメリカに渡って直接買い付けて来ていたこと、今の業態に変えるのに日本全国の靴屋を見て回ったこと・・・・・。
興奮して早口に捲し立てるする私(苦笑)とは裏腹に、穏やかに優しく、力強い言葉で教えてくれました。
気づけば、35年ぶりでした。
小俣社長は70歳になっていました。
あの当時は、まだ小俣社長は専務で35歳。80年代の日本の経済絶好調期で、バリバリの自信に満ち溢れていた若手後継者でした。
その姿は、19歳の大学生の私から見るととても輝いていて、こんな素敵な経営者になりたい、経営者っていうのはこんなに楽しく明るく輝いているものなのか、と思えた憧れの人でした。
黒々としていた髪の毛は白くなり、ベッコウの丸メガネは四角いメガネになり、DCブランドの赤いジャンパーはベージュのニットカーデガンに変わっていたけど、
明るくニコヤカなお顔つきに隠された情熱的な眼差しと、落ち着いた口調と声のトーンは、まさしくあの時のままの小俣専務でした。
言葉にならない感慨が交錯する時間でした。
そんなに会って報告したいなら会いにいけば良かったのに(苦笑)、私は忙しさを理由に不義理を絵にかいたような人間なわけです(苦笑)。
記憶している会話の一部です。
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坪井「当時、アルバイトで社会経験の最初の環境に恵まれていたこと、私みたいな若造に愛情込めた教育して頂いたこと、
私はアホだから今になって気づいています。
そのお礼しなきゃしなきゃと思いながら、不義理なもので、本当にすみません。
こんなとこでまさかお会いできるなんて。本当に光栄で嬉しいです。」
小俣「いやいや、私の方こそ嬉しいよぉ。
教育だなんて、そんなこと何もしてないよ。君はアルバイトの時から人とは違っているのが、見ていてすぐ分かったよ。突き抜けていたことはよく覚えている。
あの坪井君が、こんな風に成長されて、こんなに立派になられて、私の方が本当に嬉しいよ。
明日の講演には行くから。楽しみにしているから。君の今までのことをどうか教えてください。私に勉強させて下さい。」
坪井「イヤいや、社長、そうやって相変わらずプレッシャーかけるのは止めて下さい(笑)。
私の喋ることなんて、今までのパクった知識と体験・経験したことをただ組み合わせて、バカっ話にして伝えているだけですから、何の価値もありませんから(苦笑)。
それなのに、こんなとこに呼んで頂いて、人前で喋るなんて、ホントはお恥ずかしい限りなんです。」
小俣「坪井さん・・・・、それを言えることが素晴らしいんだよ。
どんなにやってきた人でも、それがなかなか言えないんだ。
ホントはな、みんな君のように変わりたいんだ。私もみんなも、今のビジネス環境の中、坪井君のように変化していきたいんだよ。でも、最後の紙一重がなかなか抜けられないんだ。みんなそうなんだよ。
君はやってきた。やってきた君だから、君の人生からそれを教えてやってくれ。たかだか80分の講演で変わらないかも知れない。でもヒントになるかも知れない。せめて元気になるだけでもできるかも知れない。やってきた君にしかできないことがあるんだよ。」
坪井「いや、あ、はい・・・・、分かりました。明日は全力で頑張ります。」
小俣社長のお言葉は、半分は「大人のご挨拶」と謙遜しつつも、それとは裏腹に、何だか35年前の専務とバイトという関係を維持したような指導を頂いているようで、
それが、もう70歳になっても現役バリバリでいてくれてる象徴のようで、嬉しくもあり、
翌日の講演へ向けて私は身が引き締まる思いがしました。
私の頭の中では、高速回転で様々な映像が再生されていたました。
あの35年前・・・・・、
私がアルバイトを辞める時、本社にご挨拶に行きました。その時対応してくれたのが、小俣社長(当時の専務)でした。
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小俣「おぉ、坪井、来たか!アルバイトで退社の挨拶に来た奴は、お前が初めてだぞ!」
と嬉しそうに出迎えてくれました。本社といっても、当時はまだ、プレハブのような二階建ての倉庫兼の事務所でとても質素な印象でした。
取ってつけたような応接間のソファで対面しながら、30分程だったか、何を話して頂いたか、とっくに忘れていますが(苦笑)、お話を聞きました。
アホな大学生だった私は、その有難さなど理解できずに(苦笑)、話の区切りがついて、「あぁ、やっと終わった、これで帰れる。」と思って、席を立とうとした瞬間、小俣専務は思い出したように、また切り出しました(笑)。
実は、この日、理由は忘れたけど、私は徹夜明けでした(笑)。
でも、この時の最後の言葉だけは何故か鮮明に記憶に残っています。
小俣「あぁ、そうだ・・・・・・坪井、お前、海外には行ったことがあるか?ないなら大学生の今のうちに行っておけよ。お前は将来お父さんの跡を継いで経営しなきゃいかんのだから。
俺もな、大学生の頃、親父(当時の社長)にな、車がいいか、アメリカ行きたいかと言われてな、当時は車が欲しかったけど、今しか行けんなと思って、アメリカ行かせてもらったんだよ。
車とかはいつかは買えるだろうけど、そういう経験は今しかできないから。あの時に行った経験が生かされて、今の仕事に活かされている。行っておいて良かったと、今になって思っているところだよ。
いいか、坪井、若いうちの体験・経験は何ものにも代えがたい財産になる。これからどうなるか分からない時代に、体験・経験だけは自分の中に残るから。それが力になるんだ。いいか、それを忘れるな・・・・・・。
長くなったな・・・・。お疲れさん。元気でやれよ。またな・・・・。」
私は本社を出てから、ずっと考えていました。
「なんで専務は最後の最後で、私みたいなバイト程度にあんなことを言ったんだろう?」
19歳のアホ大学生に、その意味はまるで分かりませんでした(苦笑)。
革ジャンばかりが欲しかった私(車じゃないところがミソ(笑))は、結局、大学4年間で、物欲に駆られ海外に行くことはありませんでした(笑)。
その後、社会人になってから海外に行く機会を頂き、あぁ、こういうことだったのか・・・、と実感することがやってきて今に至ります。
私は、この思い出を小俣社長に伝えました。
坪井「小俣社長が、あの時にこういう言葉(上記の話)を最後におっしゃったんです。
そして、今、気がつくと、私は自分の講演で『あなたの独自の価値は、あなたの体験・経験』に宿っていると、要するに、あの時の小俣社長と同じことを言っていることに気づかされるんです。
私が仮に社会人として成長しているとしたら、その原型は、やっぱりあの時の「東京シューズ」での経験にあると、今更ながらに思って、だから感謝していると言えるんです。」
にこやかにじっと私の目を見て聞いてくれた小俣社長は、
「そっか、私はそんなこと言いましたか(苦笑)。
これはまた大変な生意気を失礼いたしました(笑)。
でもな、そういう一つのきっかけでもある原型を膨らませていけるかどうかも、やはり『人』なんだよね。君はそれをやってきたんだから・・・・。」
照れ笑いしながら、それでも私を立ててくれました。
ここまでは、よくある話とも言えます。
私が衝撃に近い感情を受けたのは、この次でした。
坪井「お父様(当時の社長)が亡くなられたことは、店長にお聞きしました。
私の父も五年前に亡くなりました・・・。」
長い再会の挨拶の最後にお伝えしました。
そしたら、小俣社長が教えてくれたのです。
小俣「そういえばなぁ、君のお父さん、君がアルバイトを辞めた後に、わざわざ手紙をくれてな・・・・、
『息子を鍛えて頂いて、本当にありがとうございました。』
ってなぁ・・・・。
お父様から手紙を頂くなんて、一人のアルバイトとここまでの関係が築けたのは、後にも先にも、君だけだったよ・・・・・。」
(そうだったんだ・・・・、親父はお礼の手紙を書いていてくれたんだ・・・・・。)
父が手紙を書いていてくれたことを私は知りませんでした。
35年もの間、私はそんなことすら知らずに、不器用な父に対して「教育をしてくれなかった人」だと思っていました。
言葉にはできない、反省と感謝の念が込み上げました・・・・。
こうして講演にお呼び頂いて、登壇して偉そうなことを調子に乗って語っている私は、
そんなことも知らずに、多くの方に支えられていたことなどとうに忘れて、自分一人が頑張ってきたと錯覚していたのです。
口では感謝だの反省だの言いはしますが、それまでの言葉がいかに薄っぺらかったことかと思い知らされました。
反省と感謝が身に沁みた時、言葉を失うことを知りました。
小俣社長は、会場の自分のテーブルへと戻っていきました。
その後ろ姿を見送りながら、色んなことが一本の線で繋がったような気がしました。
ここからは、私の話です。
こんなこと書く気もなかったのですが・・・・、
実は、私は今回の講演が終わったら、少し講演やコンサルのお仕事を休もうと考えていました。
前職を退任した後の、この6年近く、本当に多くの方からご支援を頂き、全国様々な地にお呼び頂き、講演やセミナー、業績アップのお手伝いをさせて頂きました。
その経験は本当にありがたく、嬉しく、楽しく、貴重で、代え難く、だから至らぬながらも一つ一つを全力精一杯でやらせて頂いてきたつもりです。
ただ、一つ一つの講演は、主催者様が呼んでくださったお客様であり、そのお客様の多くは私のことなど知るはずもなく、アウェイを実感していました。
だからこそ、「今日は来て良かった。」と一人でも多くの方に感じて頂きたく、それがお金を頂く最低限のマナーだと信じていたし、それは今でも間違っていないと思っています。
ただ、講演前には、胃が口から出る程に緊迫して、キリキリピリピリしてナーバスになるのは、ずっと変りません。
大して変わらぬ講演内容になるのが分かっていながら、結局、前日には徹夜になり、当日は脳が覚醒して興奮して元気一杯で、講演が終わっての会場の空気や皆さんの温かなお言葉に至福を憶え、そしてホテルの部屋に戻る頃には精根尽き果てる・・・・、
ご依頼を頂くに比例して、こんな日が増えていきました。私の講演は、一つに対して二泊三日であることが前提となり、それが限界でした。
そんな現実と比例して、憂いなような気持も膨らんでいきました。
そして、果たして、私の伝えていることは役に立っているのだろうか?
ここまでやるだけの意味や価値はあるのだろうか?
聞いてくれた人達の、次の日からの実践に繋がっているのだろうか?
何も変わらないのなら、私のコストと時間は相手にとって無駄以外何モノでもないのではないか?
そもそも「教育」とは何なのだろうか?やる奴はやって、やらない奴はやらないのであれば、そもそも「教育」そのものが不毛なのではないか????
そんな思いも交錯し始めていました。
この6年で、体も心も少し疲れてきたようで、ボロボロとまではいかないまでも、苦しくなってきていたところでした。
それは私の気持ちも物語っていて、本番へ向けて気持ちを上げていくのも苦しくなっていたところです。
そういう意味で、やはり私は「プロ」にはなり切れていなかったのだと思い始めていました。「代表取締役・無職」という肩書で良かったな、と(苦笑)。
でも、2人の子供達もまだこれからお金もかかる時期だし、これからどうしていこうかとおぼろげに考えていました。
私は「お金」は大事だと思っています。
「お金の為に仕事」をするというのは現実であり一方では正しいと思っています。
でも「お金の為『だけ』に仕事」をする人生というのに、残りの人生を費やすのは、どうしてもイヤで、
だったらどうしていくのか?を行ったり来たりとしていました。
この数年、多くの方から、
「自主セミナーはやらないのですか?」
「ツヴォイ実践塾みたいなのはやらないのですか?」
「本は出さないのですか?」
「どうして自分から主催しないのですか?」
等々、聞かれることはありましたが、なかなか踏ん切りはつきませんでした。
ということは、自分で主催する様々な面倒な要因を越えてでも、この仕事をやるべかどうか、自分でも迷っているのだろうと、自問自答していました。
勢いに任せて、突っ込んだら、またきっと時間の問題で、同じ気持ちになるだろ・・・・、この世界がどんなものであるかを確認する為の期間だったんだろ・・・・と。慎重にしていこう。でも、何かは進めなくちゃいけないことは確か・・・・。
これがここ最近の私の心の中での、ある種の葛藤でした。
ご依頼だけに120%でお応えしていく実験スタイルにこだわるのに限界が来ていたのかもしれません。
今回の商業界ゼミナールの講演は、講演としては2ヵ月ぶりで、少し休んだ感覚がありましたが、
懇親会場に入って、集まる人達の顔を見ながら、やはりいつもと同じ、講演前の緊迫した感覚に襲われ始めました。
(ダメだ・・・・、やっぱりこれで一旦、講演はお休みしよう・・・・・・。これでこの気持ちは最後にしよう・・・・。)
そう思っていました。
そこに来て、小俣社長との再会と、会話でした。
小俣社長との30分程度の会話を終えました。
色んな想いが交錯する中、テーブルに戻る小俣社長の後ろ姿を見ながら、私は不意に
「よし!『やめる』のをやめよう!」
と思い立ってしまいました(笑)。
小俣社長のお姿はとてもとても素敵でした。
もし自分が小俣社長の立場だったら、果たして、私のような相手に自分から近づいて、「握手して下さい。」と言えるだろうか?
逆の立場なら、私のような者に「教えて下さい。」という言葉が言えるだろうか?
70歳になって、まだ現役で勉強の場に行こうとするだろうか?
あんな風に勉強し続けて、そして謙虚に話ができるだろうか?
なんて素敵なんだろう。なんてカッコいいんだろう。
19歳の私が憧れた輝きを放っていたあの人は、時を隔てて、形を変え、
そして、あの時のままに、53歳になった私が憧れるような輝くような70歳のでいてくれた。
こんなに嬉しいことはない。
こんなに勇気づけられることはない。
年齢を重ねることは、なんて素敵なんだろう!輝きを増していくのだ。
私も、あんな70歳になりたい。私が関わった人の成功を心から喜び、そして、自分から「握手して下さい。」と言える人になろう。「教えて下さい。」と言える70歳になろう。
35年前、19歳の私は、あの時の小俣社長の最後の言葉を理解していなかった。だから行動しなかった。でも、今こうしてその言葉は生きている。
だから、諦めなくていい。人を諦めなくていい。「教育」を諦めなくていい。
何しろ、今、自らがそれを自らに証明してしまった(笑)。
それを信じられなくて、何を信じろと言うのか?
そして、父のように、私は子供がお世話になった方に手紙が書ける心を持っているだろうか?
父は私をちゃんと「教育」してくれていた。私は明らかに父の「教育」を今日受け取ったのだ。
月日を隔て、今、ここでそれが証明されてしまった。
もう何も疑うことはない。
よし!俺は諦めない!人を諦めない!諦めなくていい!
よし!俺は信じる!「教育」を信じる!
いや、
「『教育を信じる』俺自身を信じる!」
だから、やめるのをやめた!!!!
そう一気に、明確に繋がりました。
この一年近く続いていた心のモヤモヤと葛藤が、一瞬で全部解決してしまった瞬間に驚きを隠せませんでした(笑)。
私は、私の講演を、小俣社長に伝えようと思いました。
この先輩に敬意と感謝を込めて、ボロボロにしてやろうと思いました(笑)。
そして、この講演こそは天国の父に捧げようと思いました。
内容を一気に変えようとし、案の定、徹夜しました(笑)。
それは今までにない徹夜の時間でした(笑)。
講演は完璧と言えないまでも、いやむしろ、流れとしては過去最低のグダグダだったかも知れません(苦笑)。
いつものオープニングの映像と音楽では、通常は会場が引きまくるのに、この日初めて会場に手拍子が巻き起こり(笑)、私が驚きました(笑)。
小俣社長の姿が壇上からハッキリと見えました。
準備したエンドロールも、初めてタイムオーバーでかっ飛んでしまいました(笑)。
それでも、私の気持ちは今までにないものでした。
講演が終わって、壇上から降りたところに、小俣社長はやはり向こうから来てくれました。
小俣社長は、
「坪井君、ダメだ、あんなことされたら、もう最後は泣いちゃうじゃないか(笑)。」
と言ってくれました(笑)。
私が、
「小俣社長、私はお会いできて救われました。本当にありがとうございます。お陰様で、もう一度、次のスタートを切れそうです。」
そして、「生きてきて良かったです。」と言いかけた寸前に、小俣社長が、
「坪井君、私は今日まで生きていて良かったよ・・・・・。本当に良かった・・・・。」
先に言ってくれました。
涙が出そうになるのを必死で必死でこらえながら、私は頭を下げました。
私は「生きている意味」をよく考えます。
それは、きっと恐らく死んでも分からないのだろうな、と思いながら、でも考え続けることに意味があると思っています。
それは、きっと分からないのだろうけど、でも、こうして、
「生きていて良かった。」という瞬間があることを確信しました。
生きていて良かった・・・・・。
いつかの誰かのこの瞬間の為に、まずは70歳までは頑張ろうと決意しました。
小俣社長、私は、今日まで生きていて本当に良かったです。
万感の想いを込めて。
そして、今回もお呼び頂いた(株)商業界・笹井企画部長、本当にありがとうございました。
今回の講演のご依頼をお電話で頂いた時、上記の心情が交錯していて、本当は少し迷ったのです。
でも、お受けして良かった。こんな瞬間に引き合わせて頂けたのだから。
小俣社長とも「笹井さんに感謝だね。」と話していました。
二日間に渡る懇親会に出るのを決めておられたことを知った瞬間は、殺してやろうか?と思いましたが(笑)、
お陰様でこれからの人生の分岐になるような大切な瞬間に出逢えました。
87回にも及ぶ、商業界ゼミナールが、なぜこんなに長く続き、あぁして人が集い続けるのか、
三回目の登壇にして、その歴史の理由のほんの少しは理解できたかと思っています。
またお呼び頂ければ、何でもさせて頂きます。
長文を最後までお読み頂いた皆様、ありがとうございました。
これで吹っ切れました。
今年から、私は「自主セミナー」も「自主実践塾」も「自主コンサル」も「出版活動」も一気にスタートいたします。
温めてきた企画はありますので、できるだけ早く、できるだけ安くなるように、まずは実験的にスタートしていこうと思っています。
少しお時間を頂きながら、実験モルモットになってくれる方を募集いたしますので、ご興味のある方は、よろしくお願いいたします(笑)。
ガンガン売り込んでいくつもりですから(笑)、ご期待下さい(笑)。
翌日の21日、私は名古屋に戻りました。
事務所の机の上に一枚のハガキが届いていました。
↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
最後の最後に驚かされました。
小俣社長からのハガキでした。
19日に再会した日、その日のうちにホテルの部屋で書き、20日の講演当日の朝には投函されていました。
「情報発信」を講演のキーワードにしている若造は、ここでも物事の本質を教えられるのでした。
生きてきて良かった・・・・・・。