人生のアンカーで何を刻むのか
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2013年以降、毎年2月14日というのは、私にとっては特別の日で、
それは、バレンタインとか、チョコレートの数とかではなくて(笑)、
(高校時代はいくつもらえるかに必死だっけけど(苦笑))、
2013年2月14日に株式上場の経験をさせて頂けたからで、
もう11年も経つと、そんなのはもうとうの昔のことで、過去の実績にぶら下がることなど毛頭なく、とっくに忘れているのだけど、
Facebookの思い出で、当時の投稿が上がってきてくれて、
「あぁ、そうか、あれからもう〇年経ったのか・・・」
と思い出すからです。
今年は、あれからもう「11回目の2月14日」になりました。
株式上場のセレモニーで東京に向かう当日の明け方まで書いていたブログでは、
廃業から上場に至る10年の様々な想いが去来しながらも、その時の感情を何とか文字にしていて、
今でも読み返しては、何が同じで、何が変わってきて、それから、何を新しくやってきたのか?の、確認を自分でしています。
当時のブログのリライト
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つい、昨日のようにも思ったりもしますが、もう11年経ったのですね。
筆舌に尽くしがたいその時の感情は、こういうことを繰り返しながら、解像度が上がり、鮮明になり、刻まれていくものだと思います。
そういう意味でも、私にとっては株式上場の経験は、過去のものでありながらも、人生でとても大きなものだったと思うし、
その後の人生に大きな影響を与えてくれているのだと思います。
最近は、情報発信やコミュニケーションの中心が動画やライブになって、なかなか文字情報を出せていませんが、
1つ言えるのは、同じ記録でも、動画を観返すことはほぼありませんが、こうして文字情報というのは読み返すし、その時の感情がリアルに蘇ることが自分で分かります。
記憶と記録というのは、どちらかだけではなく、それぞれに必要で、それぞれの特性があるのだろうと思うし、
一つの感情の塊や、考えている事を「言語化」できるかできないかというのは、ビジネスの場においてどれほど大事なのかも理解できたりもします。
なんとなく考えている程度のことは、自分では考えているつもりでいても、
言語化できない以上は、相手に伝わらないどころか、何より、自分にも理解できていないと言えるので、何も考えていないのと同じと言えます。
こうして文字入力しながらも、ただ喋るよりも、随分面倒だなと思う自分がいて(苦笑)、
それだけ頭を使うということなのでしょう。
20年前に購入して、あんなに硬くて着にくかったレザージャケットは、
10年の上場へ向けての人生を終え、
上場の鐘を叩くセレモニーに持って行き、リハでは着用し、本番ではスーツにして自分を許せずに、
さらに11年の月日を経て、こうして着用してみると、
やっとストレスなく、気軽に羽織れるようになったと改めて思います。
当時の逸話をまとめたブログ
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レザージャケットに、シワやキズやクセがついて自分のものになっていくように、
感情や記憶もまた、こうして繰り返しながら、解像度は上がり、新たな価値を刻みながら、少しづづ自分のものになっていくものかもしれません。
そうでありたいな、と思いながら、あれからの10年と、この1年の自分を整理しながら、これからの9年をどう重ねるかを、
今日は、一緒に人生を重ねてきたレザージャケットと、また一つ重ねられればいいな、と思いながら羽織っています。
「言語化」を刻む。
これをテーマに、ブログを継続できたらいいな、と思っています。
アホ犬に教えてもらうほどのアホ人間の自分に気づく(苦笑)
今年のお正月は、久しぶりに愛犬のアホ犬に会えました。
いつの間にか、すっかりお爺ちゃんになっていて、
私が帰ると、あんなにゲージの中で、グルグル回りながら、落ちつきなくワンワン鳴いて、ギャアギャア大騒ぎだったのが、すっかり大人しくなっていて、
黒ポメが、すっかり白髪ポメになってんじゃんと思いながら(笑)、
一緒に写真を撮ったら、向こうから見たら、私もすっかり白髪オジサンになっていることに気づいて(苦笑)、
「おめーも、動きたくなくなってて、白髪ジジイじゃん。」
という顔をしてました(笑)。
私は、いつもアホ犬と紹介していますが、きっと
「おめーもアホ人間じゃん。」
と、同様に思ってるのだろうな、と思いました(笑)。
生きていれば、日々の変わらぬ積み重ねをしながら、いつの間にか歳はとっていくわけで、
生きるということは、すなわち死に近づいていくことと同義です。
この年になって、ガンの経験やら、喉の調子が悪くなった日々の経過や、こうして愛犬が年老いていくのを目の前にしたり、
こういう経験をしながら、やっと、生きているうちに何ができるかなんだろうな、と少しは思うようになりました。
ところが、50・60歳だ、となって、やっと何かに気づいて、やる気になって頑張ろうとしたとして、
そう思うことそのものが、一般市場においては、すでに老害スタートであり、老害の前提であることも分かっていて、
何かに気づいて、前に出ようとすればするほど、邪魔で不必要で、単に足を引っ張ったり、次の世代の重しになる存在になるリスクは、前提としてあるわけで、
とは言え、この年になって、やっと分かってくることがあるのも、この年にならないと分からなかったということもあれば、
最大の問題は、経済活動において何か行動を起こしていかねば、理想の人生を創れないという、要するに「お金」の問題という現実には、
自己責任として向き合っていかないといけないという状況もあるわけで、
どの市場の、どのポジションで、どの価値を創出して役立っていくか?というのは、
一人一人の課題として、本気で向き合っていく時代になっていくのだろうな、と思っています。
自然体でいるだけで、誰かから必要とされ、
無理のあるような要らぬ前に出ることなく、でも依頼されるだけの価値がある側であるのが理想だとしても、
どうすればそれが実現していけるのかに、真正面から向き合っていく時期に来ているのだろうな、と、
苦々しくも考えなきゃいかんのだろうな、というところでしょうか。
片方で、生きているだけで価値がある、という考え方としての側面は正しいと思いながら、
現実は自分の市場価値と向き合い、成長していかねば、自分の人生は創れないという現実の側面もまた絶対に無視はできません。
そんなことを考えながら、お前はそんなこと考えずに生きてんだろ、と犬に思っていたけど、
それでも、私のことは、どんなに離れていても絶対に忘れずに、こうして喜んでくれる犬がいて、
子供達曰く、
誰と会う時よりも嬉しそうで、私と一緒にいる時に最も落ち着いて、私がいなくなると慌てて探し出すのが、この犬らしく(笑)、
どんなアホ犬でも、そう思っていてくれることはとても嬉しいわけで、
ということは、私にとっては、とても大切で必要な存在であることに気づくわけです。
そんなことから、犬からだけではなく、人間からもそう思ってもらえる人間にならなきゃいけないな、とフと思い、
こういうことに次のステージのヒントや、仮説のヒントや、チャレンジの種があって、
アホ犬だと思っていたけど、そのアホ犬に何か大切なことを教えてもらっているような気がして、
アホ犬よりアホなアホ人間である自覚を持った、久しぶりの犬との時間でした(笑)。
今年は、謙虚になって、もうちょっと会ってもらいたいと思います(笑)。