「希望」と「絶望」は隣り合わせか?

 

人生の「師」は欲しいが出逢うのは難しい

「良き友と師に出会うことが人生の幸せである。」

という言葉を聞いたことがあります。

人生においても、仕事においても、自分にとっての「師=メンター」がいてくれたら、それはそれはとても幸せなのだと思います。

思うけど、

①実際に出会えるかどうか?

②出会った人が本当に師か?

の二つのハードルはとても難しく、それは、

今の自分では、なんとも解決し難い「問題・課題・悩み・苦しみ」という、いわば「孤独」という個人が前提であることと、

その領域をリアルな体験・経験で越えて、先に進んでいて、適切なアドバイスをしてくれる稀有な相手、という、

二つの接点が求められることにあるからだと思っています。

 

リーダーが出逢える「師」の確率

1つの例として、リーダー経験のある人ほど、メンターに出会える確率は落ちます。

なぜなら、リーダー経験そのものが、そのコミュニティの中で、1/100とか1/1000という確率に絞られるからで、

その経験ならではの、傷つきや苦悩、喜びや感動は、そのコミュニティの中では一人であり、リーダーであるが故に、今のコミュニティには理論上「メンター」はいないからです。

それが、次の段階の、立場やステージが同じ人達が集まるリーダー研修や、経営者勉強会といったコミュニティになるのでしょうが、

「同じステージ」ということは「同じステージ」であり、悩みや苦悩を共有することはできたり、相手から勝手に気づいたり学ぶことはできても、

それが「師」と言えるかどうかは別問題だと私は思っていて、

(その人の「師」の定義にもよるので面倒ですが(苦笑))

となると、さらなる上のステージや領域の集まりに望みを託し、さらにその中から、「自分にとって都合の良い師」と出会えるか、ということにならざるを得ません。

でも、その場では、いわば一番下っ端になるので、そこからがまた難関が待ち受けています。

 

「師」に出会える確率と比例するリスク

私の経験則で言えば、その時の自分にとっての「師」と出会える確率は、大体「1人/1000人」の確率です。

ということは、1000人の、次のステージの新たなコミュニティに飛び込んで、

その渦中の中の、999人とのどうでもいい面倒な付き合いと、そこで食らう「傷つき」の果てに、

やっと、たった一人の運命の人と出会えるかどうか、という確率になる理屈になります。

「師」になる側の確率もある

逆に「師」側にも、なりたいからといって、なれない現実の難関があります。

人は貢献欲という本能があり、それを満たすことで自分の価値を認識したく、誰かの「師」になりたいと欲する人は多いだろうけど、

相手から、「いや、あなたは今の私に必要ない。」と現実突きつけられれば傷つき、

でも、そんなこと面と向かって言う人はいないから、何となく別の理由で避けられ、

その対応に何となく不安になり、自分の傷を癒そうと、もっと教えたがり、貢献好きとなって、さらにへばり付き、

「師」どころか、「誰も近寄ってこない」側になる泥沼にはまります。

(ビジネスの場で言えば、それは「失客」という現実だったりするでしょう。)

「師」は、どんなに「師」でいたくて、自分の基準で努力したとしても、

他人に求められない限り「師」にはなれないという現実を避けることはできません。

「師」と出会える両者の条件

ということは、「師」と出会いたければ、一人虎視眈々と、幾多の傷つきと共に次のステージに挑戦し続け、

「師」になりたければ、一人虎視眈々と、幾多の傷つきと共に勝手に挑戦を続け、

両者共に、数えきれない無数の「傷つき」を越え続けながら、

それでも任意の目的や目標を得ようとしている者同士が、

一歩先か、一歩後という、その時のタイミングで出逢えるかどうか、という論理になります。

だとしたら、果たして、ここからまだやるんかい?という問題にブチ当たるわけです(苦笑)。

「絶望」を自覚するから「希望」の可能性がある

今の自分に都合の良い「師」は欲するものの、大した目的もない、目的や目標があってもその為の努力もしたくない、その過程で傷つきたくもない、

依存するしかない、でも依存して生きている自分は認めたくない、でも自分は幸せにはなりたい、

などとご都合の良いことしか考えていない私が、これからの人生の「師」を求めているとしたら、

それそのものが、無理だろが(苦笑)、

それなら、今の自分以上に幸せになるは無理だろが(苦笑)、

という限界と絶望に、やっぱりブチ当たるわけです(苦笑)。

傷つくのは結果ではなく前提。それでも行くか、行かないか、は自分で好きな方選べばいい。

私が、人の話を聞くときに、その人が、これまでの人生でどれだけの「傷」を負いながらも越えようとして、そして越えてきたか、

そこをとても重要な要素として見て、共感するかどうかを大事にするのは、

きっとこうした前提となる経験や思考・価値観があるからだと思います。

それでも、行くか、行かないか、このブログを書きながら、考えているところです。

結局のところ、人生とは、そもそも「やりたいこと」を、どこで諦めるか、不遜にも諦めないか、ということになってくるような気がします。

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