面倒なことでも諦めるまでは諦めるな

マネジメントやモチベーションアップ、あるいはリーダーシップといった、

ビジネスにおける「人の育成」に対して、私は苦手です。

苦手というか、好きではないというか、

やるだけやってきた結果、そういうことに関してまるで才能がないという自覚があります。

 

子供の頃から、学級委員とか生徒会長とか、

大人になってからも、プロジェクトリーダーとか、社長とか、◯◯長とか、勉強会のリーダーとか、

何故だか知らないけど、そういう場は与えられてきて、

好む好まざるに関わらず、そういう経験をたくさんさせて頂いてきて、

場数こそはたくさんあるものの、具体的な成果を出した自負はなく、

むしろ、苦しみと葛藤と強烈な挫折の自覚しかありません。

 

だから、その辺にいる「名ばかりリーダー」とか、

知識だけで「人に纏わることを専門にしたビジネスを謳っている人」よりは、もしかしたら得意かも知れません。

一般の人よりは、場数という経験を多くさせて頂いたわけだから、

まぁ「得意」かもしれませんが、要するに「好き」ではありません。

 

子供の頃から、多人数に対するリーダーみたいな立場をたくさんさせて頂いてきて、

(心情的には都合よく『やらされて』きて(苦笑)、)

色んな場面で相当に困って、それなりに勉強して、知識を得て、人に聞いては実践して、

やってはみるけど、うまく行かずに、

やったこのない奴からは批判されて、

やって欲しがる人からは後出しジャンケンのように、指導という名のお叱りを評論を受けて、

逆に、能力はないのに、人に影響を与えたがったり、求心力を持ちたがる面倒な奴はいて、

いるのはいいけど、自分はやりたいようにやりたいだけやって、

結局うまく行かずに、こじれて、組織やチームをグチャグチャのガチャガチャにしておいて、

どうにもならなくなったら、責任回避とばかりに上手いこと言って、こっちに振ってきて、とんでもない苦労と失敗事例と、その責任と評価だけは受けまくる、

なんていう、

そういうことを繰り返してきたわけだから、

恐らくは私の能力も上がったろうし、スキルも身についたろうし、ノウハウも持っているかと思ってはいますが、

「人」に纏わる件というのは、誰もが面倒くさいように、要するに私も面倒くささの極みに達したわけです。

 

ところが、見ていると、嬉々として経営者勉強会のリーダーとか、やっている人は確実にいて、

あるいは、社長とか部長とか、組織や社内での職位や立場、

あるいは自分の部署内のテーブルの位置に異常にこだわったりする人もいて、

そういう人の中には、確かに本物だと思える素晴らしい方はいらっしゃいますが、

私の一方的で勝手な評論からすれば、その比率は圧倒的に少ないという認識が、私にはあります。

 

とりあえずのやりたがりの人は、対象となる立場の知識や経験に対しては、無脳で無能で、対象たる努力もさしてしていないのに、

でも、その立場にいることに強烈なモチベーションを持っていることだけは分かるわけで、

それが一体何なのかは不思議でなりませんでしたが、

私が「面倒くささの極みに達した時」に、やっと分かったことがあって、それは、

「あぁ、あの人達は、要するにそれが『好き』なんだ。」

ということでした。

 

「好き」なんだから、能力があろうとなかろうと、条件など関係なく、やり続けようとはします。

 

そういう人達を不思議に見ながら、ここ最近になってやっと分かったことの一つが、

「得意」と「好き」の分別が、やっとついたことでした。やっとここ最近のことです。

 

長く長く「人」と関わってきて、あるいは関わらざるを得ない立場にあって、

長い体験・経験を通して、50過ぎになってやっと自覚したいう、なんとも笑えない実態です。

 

人よりも「得意」かも知れないけど、「好き」ではないということは、

「やらねばなない」「やらざるを得ない」状況にならなければ、率先してまではやらないということです。

私は、リーダーとかマネジメントとか、他人のモチベーションアップとか、

何のメリットもないのに、率先してまでアクションするような人間ではありません。

 

ならば、無脳だろうと経験不足だろうと、「好き」だからやろうとする人の方が、その立場に合っているのだろうし、結果としてスキルは上がっていって、

その中から、本物が生まれてくるだろう確率は上がり、

そして、そういう人の方が、周りの人を幸せにするでしょう。

そう思うのです。

 

私は「人については面倒くさい」という決定的な認識がある以上、それには向いていないということになります。

それが、冒頭の

『「苦手」である。「好き」ではない。』

という自覚であり、今のところの結論に繋がっています。

 

時に、

「そんなのは簡単だ。こうすればいい。」

と、人の成長や育成について自ら謳う人がいますが、

そういう人が、何人を対象にした結果を言っているかというと、

例えば、部下の人数が、1人とか、10人とか、せいぜい100人とかだったりするわけで、

学生数で言うなら1000人、勉強会メンバー数でいうと150人、社員数で言うなら700人で、

一定期間内に対する成果に対して限界と挫折を体感した私からすれば、

「その程度で、簡単とか、自分はできるとか、『人』のことを分かったなどと、よく言えたもんだな。」

と、どうしても『パブロフの犬状態」で思えてしまいます。

 

それは、私にとっても強烈に突きつけられた思い出があって、

以前、人のマネジメントについて、悩みながらも経験していく過程の中で、

「もしかしたら最も大事なのはここに集約されるのではないか?」

も思えることがあって、

(それが何かは忘れたけど(笑)。よって不遜だったのだろうな(苦笑)。)

ある指導的立場にある人に、

「◯◯さん、企業における『人』の成長の本質とはここにあるのではないでしょうか?」

と生意気に、よくぞここに気づいたと自負を持って聞いたところ、

「君は3,000人以上の従業員を持って経営をしたことがあるのか?

ないのか。ないなら、企業の『人』のことを語るな。」

と、見事に玉砕かつ一蹴されて(笑)、その経験が強烈過ぎてしまっているからだと思います。

そんなこと言ったら、一生『人』について語れないじゃねーか(笑)、理不尽だな、と思ったものの、

確かに妙な説得力があって、あれ以来、『人』のことについて、自ら率先して語らなくなりました(笑)。

だから、他人が語っていると、個人的見解や感情論や「好き・嫌い」論としては受け止められるし、

「はぁ、そう思うんだ。」

と思うものの、とても積極的に学ぶという意識には向かなくなっています。

 

確かに、『人』のことを総論として語るには、生まれてきてから今日までの間に、どれだけ多くの『人』と真正面から本気で関わってきたかの圧倒的な数が必要なのでしょう。

そう思います。

だとすると、子供の頃から、どこで何人と関わってきたか?から大きく影響してしまうわけで、

仲良しの人や、自分にとって都合の良い人とだけ、仲良しクラブや徒党を組んで、都合よく心地良い環境を選択して、

『人』の理不尽を避けて生きてきた人は、すでにもう不利という、元も子もない話になりかねませんが(苦笑)。

まぁ、私程度では、無理ということだけは確かですわね(苦笑)。

 

ところが、なのです。

ところが、今のお仕事の内容は、お一人お一人、あるいは一社一社、比率の違いはあれど、

100%と言ってもいいほど、「人」に纏わる相談になっていて、

それに私なりにお答えしていくことで、対価を頂いているという現実が起こっています。

私が、「不得意、苦手、好きじゃない、挫折した、実績などない」などという認識を持っていようとなかろうと、

現実に、その過程の中で得た、経験からくるノウハウや方法、失敗事例と少しの成功事例に対して、

現実として相場が発生しているわけです。

これは、この6年の間で最も意外だったことです。

私本人は、最も、挫折して成果を出していない自覚を持っているにも関わらず、それに対して依頼があって相場が発生しているのだから、意外としか思えないわけです。

 

それだけ、多くの人が困っている事柄なのでしょうね。

それだけ「人」に関することというのは、もともと企業にとって難しいことなのでしょうし、

特に昨今では、「価値観の多様化」や「世代格差」などが前提となる時代性もあるわけで、

余計に面倒になってきているのでしょう。

 

さらに言うと、

「雇用を前提としたビジネスモデルが限界に達している」

と私は思っているので、さらに難しくなっていると思っています。

 

なぜかと言うと、経営を良くするという根本の一つは「効率化」にあるからです。

簡単に言うと、人件費というコストに対して、資本家・経営者にとっての最大効率化は、

同じ給料なら、社員の行動力を増やした方が効率は上がりますが、

逆に、社員にとっての最大効率化は、

同じ給料なら、できるだけ自分は何もしない方へと選択することが労働効率が上がることになるから。

そもそもが、双方の立場において、最大効率の定義が二律背反しているわけです。

それでも昔は良かったのは、それでも雇用状態で働く方が良かったはずです。

それは、年功序列とか終身雇用制度とか、退職金制度とかが保証されていることに加え、

「幸せ」の定義が明確で、「幸せ」の選択肢が全国民中流階級になることで満たされていた時代というのがあったからだと仮説を立てています。

ところが、今の時代は、その前提から大きく変わってきてしまっているわけで、

それぞれの立場、経営者なら経営する目的そのものや、社員なら会社で働く明確な理由が問われ、

その問いに対して、

「誰がなんと言おうと私はこれだ。そのリスクは自分で持つからいい。ほっとけ。」

とまで言えるだけの自分というものが問われます。

これは、これで、そうそう簡単ではないでしょう。

簡単ではないし、永遠とも言える課題とも言えるかも知れませんが、

だからといって放っておける問題でもなく、必須とも言えることです。

客も「人」なら、自分も「人」、社員も部下も「人」であることだけは確かなのです。

よって、難解で困難だとしても、私としては、お相手の社会的立場に関わらず、私なんぞに、ご相談・ご依頼頂いたからには、私のできる限りで本気で向かうわけですが。

 

ビジネスにおける「人」の問題や課題に対して、私の中で解決に至るだけの答えなんてのは、当然ながらまだないわけですが、

一つだけ確信に近いことはあります。

 

それは、そういう難解で面倒な課題に対して、

本気で悩んで、考えて、なんとかしようと立ち向かって、挫折しては、またなんとかせねばと苦しみながらも、それでも前に進もうとしている人は、

それだけで、間違いなく、人として大きく社会的価値が上がっているということです。

 

だから、私は、

「難しいけど、諦めるまで、諦めるな。諦めたなら諦めればいいけど、諦めるまでは諦めるな。諦めたら諦めればいいけど、諦めるまでは諦めずにやってみよう。」

と、自分で書いていてもワケの分からないようなこと(笑)を言っています。

 

面倒なことは面倒です。

面倒なことは誰もが避けようとして当然です。

私もです。

だから「面倒」なことには価値が宿るのです。

 

特に「人」のことは面倒です。

面倒だから、ほとんどの人が避けて、うまいこと気持ちのいいことだけしようとします。

面倒だからそうなります。

そして、ほとんどの人が「人」のことで悩み苦しんで、

自分以外の人に解決を求めます。

 

現段階で、これほどまでに、一過性ではなく、

「需要が多く、まともな供給側が追いついていない」

事柄を私は知りません。

だから、悩み苦しんでいる人にとって、それそのものを磨いておくことは、これからのビジネスにおいて、大きな意味と重要性があります。

面倒なことをやり続けるのは価値が宿るのです。

 

それは、たかが私程度のような経験でも、今の仕事があることが、私の中に限っては証明されています。

様々な業種業態の方達とお仕事をさせて頂いていますが、

どんな業者業態にも関わらず、必ず必要とされる共通項目が、「人」に纏わる事柄、

すなわち、自分のリーダーシップや、人のマネジメントや、人のモチベーションアップであり、

それがかなりの比重であることは分かりました。

 

そういうことをやりたい奴はあちこちにいるかも知れないし、先生と呼ばれる立場の人もたくさんいるでしょうが、

そういう人を尻目に、

できていない自覚しかない私に、相談や依頼が、高額に関わらず来て下さっているのです。

 

もし、「人」のことで、悩んで苦しんでいる人がいたら、

それ自体が価値があると思ってやってみることでしょう。

私はそう思います。

どうか、諦めるまで、諦めずにやってみて下さい。

それは、必ず、あなたの未来を創っていくと信じてやみません。

応援していますら。心から。

そして、もし、ご縁があれば、一緒に考えていきたいですね。

面倒で難解なことに、それでも何かを感じて立ち向かっている人は、

私は、とても素敵だと思うし、そして好きです。

私はそういう人と一緒にお仕事できたら素敵で幸せだな、と思っています。

 

という面倒でしつこい話を、

ディスプレイのピンクの熊さんが、悩んでいるに関わらず、笑顔で頑張っているように見えて、

思わず語りかけてしまった体を表現しようと、以前に撮ってもらった画像を、やっと出したくて、

長文になってしまったのでした(苦笑)。

 

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