ビジネスの桜は咲く人にしか咲かないんだよ
引きこもりがそもそも好きなので、引きこもっていましたが、
昨日、久しぶりに外に出たら、桜が咲き始めていました。
つい先日まで、「街のディスプレイが先行して桜だな。」と思っていたら、本物の桜が咲き始めてました。
春の訪れを実感し出す頃で、この時期になると、
「桜の花は必ず咲くのだから・・・」的な、耳障りの良い例えを聞いたりします。
そういう話を聞く度に、「ホントだな、そうだよな。」と感銘を受ける自分と、
「何もしないことを都合良く自己肯定してんじゃねーよ。」と批判的に捉えるひねくれた自分の両方がいます。
人は、誰かのいう事や、その出来事を、
含蓄のある思考と認識することもあるし、
自分に都合よく捉えたりもするものだ、
と私は思っていて、それは私がそうだからです。
私は、
「自然の桜は、誰にでも咲く」けれど、
「ビジネスの桜は、咲く人と咲かない人と明確に完璧に分かれる」
と思っています。
だから、ビジネスに関わる全ての人に
「桜は必ず咲くのだから、だからあなたも大丈夫」
などとは絶対に言えず、
それを「言える人と言えない人」「聞いていい人といけない人」がいると思っています。
例えば・・・・、
業績を回復させる手は大きく2つしかありません。
回復すべき手を具体的に考えて、
① それに対してお金を先行して使うか、
② 面倒な労働を自分に増やすか、
です。
「お金を使って解決するか、面倒なことをするか」の2択ですね。
一年後には業績を上げたいという目論見の元、一年後の数値目標を出して、
目標を目指すはいいけど、目標に対する行動を何もしなければ、
結果となる今年一年のトータルは上がる確率は上がりません。
一年後に良くなっているということは、すでに今から一年後に向けて何らかの行動をし始めるということと同義であるけれど、
行動の前には、何を行動するかの「意思決定」が必要となります。
現実的には、ほとんどの中小零細個人企業企業には、潤沢なお金はありません。
よって、打つ手としては、②の「新しい行動を増やす」しかないわけです。
それは、例えば、お客さんにお礼状を書くとか、個人の情報発信を全員で毎日するとか、
全員が外に行って人に会う時間と回数を増やすとか、
立場によっては社内にいる時間を増やすとか、
要するに自分にとっての現実的な顧客は誰か?を認識して、
顧客接点を徹底的にあげる行為が基本となります。
新たな商品・サービスの開発というのは、他人の需要からでしか発生しません。
まぁ、ここでは、そうだとしましょう。
要するに、「今までと日々の行動を意図的に変えて、かつ一定期間の継続する」という意味です。
ただ、それは口で言うほど簡単ではありめせん。
個人にとって、今までにはない行動だからです。
今までにある「すでに習慣化」している行動のどれかをやめ、
「新たな行動」を意図的に起こし、継続するのは、
強烈なストレスや苦痛を招きます。
人間も動物の一種なわけで、動物というのは、基本的・本能的に変化を嫌うらしいです。
少なくとも私はそうなので、その説を信じています。
「行動変化」というのは強烈なストレスを産むらしいですね。
誰でもストレスや苦痛はイヤなのだから、だから、できるだけ、変化しない方へ、変化しない方へ、今までの自分の慣れた習慣の方へと向かおうとします。
だから、やりたくないことを、やらないように、適度に誰もが納得しやすいような、やらない理由をちゃんと作り出そうとします。
強烈なのは「それは自分らしくないから」「我が社らしくないから」とかいうやつですね。
さらに最強なのは、やらない為に、ちゃんと病気になったりする人もいます。
そしてこう言うのです。
「今はこういう状況だけれど、一年後には、『これこれこうで』市況が良くなって、うまく行く気がするんだよね。だからそんなに無理してまでやらない方がいいと思う。」
と。
だから、結局、一年後に対して、今を何も変えない。変わらない。
結局、それまでと同じ行動パターンを、ただただ繰り返す。そして時間が経ち、一年後を迎える。
そしてまた、一年前と同じ悩みと問題を立ち上げ、同じ思考と意思決定を繰り返す。
その連続となるのです。
咲きますかね?桜は。
自然の桜は毎年咲くのだから、自分の桜も毎年咲くんですかね?
万人に咲くんですかね?
咲きませんね。
私の経験則で言うならですが、絶対に咲きません。
咲かないから、だから、私は家業の廃業という結果になったのです。
だから、「咲かない」と私は明確に言います。
何もしないのに、ビジネスにおいては、何も咲くわけないでしょ。
咲くのであれば、何もしなくていいのだから、何もしなくていいでしょ。
だけど、現実はそうじゃない。
そうじゃないから、業績に対したり、これからのことに悩んだり苦しんだりする。
先日、ある会社から連絡が入りました。
「まさか新型コロナの影響がここまでになるなんて思いもしなかった。」
と。
業績が大きく落ちているそうです。
その人は、一年前に一年後へ向けての行動をしない選択をした人でした。
しかし、コロナじゃなかったら、今の業績は上がっていたか?と言うと、
コロナ騒動になる前月までも業績は落としているわけです。
と言うことは、今の状況は、
「もともと何も変えない+想定外」の結果という、
適正と言えば適正とも言える結果なだけなのです。
端的に言えば、ジワジワ行くか、一気に行くかだけ、そんだけの話です。
よって、話の展開は当然こうなる。
「今できることを選択し行動しましょう。」
と。
話をどんどん具体的に詰めていくと、当然ながら、どの道とっても自分には苦しい選択となります。
そうなると、見えてくる予測がありました。
「それでもきっと何もしない。」
と。
案の定、
「一年後には良くなってると思うんですよ。」
と出ましたからね。
だから、コロナだろうと、なかろうと、何も行動を変えない人というのは、安定的に何も変えないのです。
私は否定しません。その人の人生なのだから、その人が選択すればいい。
ただ、そういう人は同じパターンを繰り返すことは分かっています。
「こうなったらこうする。」「これができてからこうする。」
というのがパターン化している人です。
無論、どんなに意思決定したところで、無理なことはあります。
だから、全てではありません。
可能な限り、できる範囲で、最悪の中の最善に絞って選択していくしかないのです。
それに対して、自分の価値観を変えるとか、コダワリやプライドを捨てるとか、他人にどう思われるとか、日々の行動を変えるとか、
その程度の変化が、果たしてそんなもん、どれくらいのリスクがあるんですかね?
問題は全てに対してパターン化しているということです。
パターン化している人は、世の中や市場環境がどうなろうと、要するに何もしません。
そして、そんなこと言ってるうちに死ぬんですよ。
「やりたいことをやる!」「楽しいのが一番!」「好きなことをする!」
とか、成果を出している人と表面上で同じことを叫んでるうちに、何もせずして死んでいくんですね。
恐らく、このブログを読んでいる人で、あと100年生きられる人なんてのは、ほとんどいないと予測しています。
ということは、100年以内のいつ死ぬかという時系列の問題になってきます。
一秒後から100年以内の間で、できるようになったらやれることなんて、ホントにあるんですかね?
そもそも、できるようになってるとしたら、今できてるんですよね。
今できてないってことは、できるような行動をしてこなかったから、だからできてないんですよね。
ってことは、今できてないことは、何かを変えないと、100年経ってもできないっていう屁理屈が、私の中では成り立ってしまうんですよ。
我々はほとんどがなんの実績もなく、何の実力も持ち合わせていません。
だから未来に向けて何らかの望みや願望や意志や意図を持つなら、
①とりあえず「やる」という二文字の意思決定のスタートと、
②決めたことをとりあえず「やってみる」というスタートと、
③やり始めたことをとりあえず「やり続けてみる」
という、「とりあえず」の連続からでしか、今とこれからの人生など変えられない、と私は思うのです。
できれば、無手勝流にやるのではなく、その道で実績を持った人に、適切なアドバイスは受けた方がいい。
それに越したことはないでしょう。
同じ「とりあえず」の時間なら、できるだけ効率的な方がいい。
いくつもいくつも選択できるほど、私達には時間がないのですから。
新型コロナの影響がこれからどうなるかなど私には全く分からないけど、
影響が大きくなろうと収束しようと、
変わる人は変わり、変わらない人は変わらないのだから、
あとは、「いつ変わるか」だけの問題と思っています。
「変わる」なんてのは、私にとっては相当に難しい。
私が「廃業から上場」という経験をさせて頂いた背景には、
「自ら変わった」のではなく、単に「環境が変わった」だけというのが大きく影響しています。
結果、「行動を変えた」のではく、「行動を変えざるを得なかった」という、
「環境変化による強制」が働いたから、「自身への変化」が起きたということだと思っています。
もし私が個人資本100パーセントで同じ仕事をしていたとしたら、恐らく上場などなかったでしょう。
うるさい資産家や、価値観の違うすんなり行かない面倒くさい年上や、過去の成功体験を持ってすがってきる人や、
そういう人達がいたから、イヤイヤながらも、腹を立てながらも、合わせるところは合わせて、演技するとこは演技して、自分だけの思い通りにならないクチャクチャな状況を踏んで踏んで踏みまくっていくうちに、気づいたら結果として変化したのでしょう。
だから、私のような本来独りよがりで、グウタラでワガママな不遜な人間は、
環境も強制もなしに、自分の範囲で「変わる変わる」「変化だ変化だ」と言ってたところで、何も変わらないのです。
だから、今実績のない他人もきっとそうだろうと仮説を立てているのです。
それが私の身をもってした「変化」に対する自論です。
だとすると、もし、私が、本当にご依頼頂く会社や企業さんの業績アップや回復に対して、何らかの貢献をしようとするなら、
お相手に対して、経験上信じていることや、やるべきことというのは、徹底的に強制することなのかもしれません。
いつの日になるかは、お相手のペースや財務状況や背景もあるとして、
しかし、そのきっかけだけは作らせて頂かねばと思うし、
もし、それができれば私は本望です。
そこまでして目標や望みなど叶えたくないなら、その目標や望みを諦めるか、
自分は変わらずして願望だけ叶えてくれる人を探したり、
耳障りの良いことを言って気持ちよくさせてくれる人を探すのもいいでしょう。
何だかんだ言って、最後は結果を問われるのは、どの会社も同じように、私も同じである以上、
どのやり方をするかよりも、「結果」に対しての方が前提になるのでしょうから。
私個人としては、行動変化に対しては、無茶苦茶厳しい本質はあるけれど、
やってる現象は、見るからにグダグダで楽しくてアホ丸出し状態であるというのが理想中の理想です。
まぁ、結局は、私が自分自身に揺るぎない自信があるかないかになってくるわけで、それがどこまで行けるかが私自身への課題とも言えます。
街のディスプレイだけではなく、きっと今年も桜は咲いてくれるのだろうと思います。
環境や市況がどうあれ、美しく、狂おしく咲き誇り、そして、儚く散っていくその姿から、
きっと多くの、人生やビジネスの気づきや学びがあるのだろうなと思います。
そして、そこから、人は、含蓄のある思考をしたり、言葉にもしたり、
そして、自分に都合よく捉えたりもするのでしょう。
せめて、私は、せめて、
ご縁を頂いたり、ご依頼を頂ける方々のビジネスの桜が満開になるように、
そして、散ることなく、
せめて、私の今の全力を尽くしたいと、
一年に一度の、この桜の時期に考えているところです。
私は私で、仮説と実験で準備してきたビジネススクールという形で行動を起こし、
私自身の変化へと強制していけるよう進みます。