「隣の芝生」を見るより、やりながら自分を知る方が速いね

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今のお仕事になって、様々な経営者の方とお会いしてお話しさせて頂けますが、

創業された方、継承された方、それぞれの立場において、楽しいことも大変なこともあって、それはいいんだけど、

中には、果たして今の立場が自分に合っているのかと考える方もいるんだなぁ、と思ったりします。

以前書いたブログがFBに出てきたので、それについてこんなこと書いてたんだなぁ、と思う無責任な記事が出てきたので(笑)、多少の加筆と修正を加えてリライトしてみました。

今の選択が合っているのか合っていないのかは、結局のところ、自分が合っていると思えるか、思えないかであって(笑)、

そうなると、合っていると思えるだけの経験と自覚があるかないか、になってきます。

それについて長文でなんやかんやと書いていますから、「隣の芝生が青く見えてしまう」方がいらしたら、良かったら読んでみて下さいね。参考になるかも・・・、しれません(笑)。

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『2014.2.15ブログ記事・「創業者」も「後継者」も自覚しておくべき自分』

中小零細企業の社長や後継者の方とお話ししていく中で、その経緯を聞いていくと、

①創業されたか、

②後継ぎとして継承されたか、

この二つしかないことに気付きます。

その理由を聞いていくと、まぁキッカケは様々ではありますが、煎じ詰めれば、

①創業者は、誰の言う事も聞きたくなくて、自分でやり方を決めたい人

②後継者は、有形無形の財産・資産(顧客情報も含めて)を労せず手に入れられることを選択した人

という、それぞれのメリットを選択したと言えます。

それぞれのメリットがあるということは、それぞれにデメリットもあって、

①創業者は、「他人にいらぬことをつべこべ言われることなく、自由ややりたいようにできる」ことは手に入れられる代わりに、「お金を初めとする有形無形の資産が十分にな苦笑思い通りにならない」ということ苦しみます。

②後継者は、顧客情報も含め、有形無形の財産・資産が労せずして手に入れられる代わりに、色んな意味で、なかなか自分の好きにはできなかったり、思い通りにはいきません。特に先代からの社員さんとの関係や社内風土といった人間関係や価値観の違いに悩むことが多く見られます。

それぞれ、時として隣の芝生は青く見えますが、そのメリット・デメリットは50:50くらいなのだと思います。

時々、双方の経営者が「お前はいいよな。俺なんてな・・・」と、どっちが不幸を背負っているかの言い争い(笑)をしている場面に遭遇しますが、

そんなに相手の立場が羨ましいなら、今の自分の立場をとっとと断ち切って、新たなステージに挑めばいいだけのことですから不毛です(苦笑)。

かく言う私も、家業を継承すべく、大手アパレルの営業から名古屋の零細家業の傘メーカーに戻った時は、顕在意識としては「親が戻ってこい」と言ったからとか、「両親はじめ、私をここまで育てて頂いた社員さん達に恩返しする為」とか、「祖父が立ち上げた歴史ある暖簾を守る為」とか、まぁそういうことを大義にはしていました。

でも、まぁ、本音の本音を言えば、

アパレル時代の仕事は、私からしてみれば相当過酷で、理不尽で、もう色んな意味でヘキヘキとしていましたから、

最悪は家業に戻れば逃避できるなんて甘い考えがあったのも事実ですし、家業に戻った時の心情としては、「どんなにつべこべ言われようと血の繋がりがある以上、何があろうと首にはならんわな。」とか、

「以前の上司には『うるせーなー』なんてことは言えなかったけど、親には言ったところで、血の繋がりは消せんわな・・・・。」という依存心や、

「業績が悪い悪いとは言うものの、自由になるお金は少しはあるだろうし、何と言っても息子さんなんだからそこそこの生活は保障されていだろう。」という、俗にいうボンクラ丸出し認識とか(笑)、

無意識ながらも「楽して◯◯」の動機が多くを占めていたと思っています。

後継者は、後継した時点で、まぁ色々と口では言いはしますが、それはキッカケであって、どこぞに「楽して儲かる(自由・成果)が手に入る」という可能性を選択しているのでしょう。

だって私は「父が戻ってこいと何度も言うので・・・・・。」と家業に戻った理由にはしていましたが、

じゃあ父親が言う事は事は全部聞いてきたか?と言われれば、言うことなんて聞かなかったことがほとんどでしたから(笑)。

 

「思ったよりも業績が悪かった」「多くの年上の番頭さんや先輩がいて面倒だ」「このまま行けば衰退の一途を辿るんだしゃないか?」「実績がないうちは誰も認めてくれないけど、ちょっとくらい実績を出しても結局認めてくれない。」・・・・・、

と言ったリスクは、家業に戻ったその後に気付くのでしょうが、付き物で「後継あるある」ってとこなんでしょうね。

時を隔てて今・・・・・・・、

私が、できるとこまでは一人で何とかしていこうとしているのは、

自分が本当に思っていることや信じていることを「周りの人達に配慮したり」「遠慮したり」「立場を尊重しなくちゃいけなかったり」等、

本当に言いたいことや、自身の主義主張を、「大人の判断」という社会の常識のようなものに配慮しなくちゃいけないというのが面倒くさくなった・・・・・、

と言うのが、私の本音と言えば本音のはずです。

要は子供なんでしょうね(笑)。

 

それはそれで、傍目にはカッコいいことかも知れないけど、資本主義社会は「お金」という現実が付きまとうわけで、

これで子供達をこの後も食わせて行けるのか?生活を十分にしていけるのか?という不安はいつも付きまとっています(苦笑)。

社会人となったアパレル時代に、社会の理不尽さと言うものをイヤと言うほど味わったのがとえも大きかったと思うのは、

その後に家業に戻り、多くの経営者との関わりから、「中小企業の社長というのは、創業にせよ後継にせよ、あまり社会の現実というものを経験せずに、その立場にいる人が多いんじゃないか?」・・・・・、ということに気付いた時です。

一般に経営者・リーダーの力量を、「その人の器」と表されることが多いですが、

中小零細企業の経営者の方達とプライベートも含めて関わっていくと、

自分の意向通りに物事が進まなかったり、意図した通りの評価や認められ方をされなかった時などにに、

凄まじくストレスを抱えたり、ハレーションを起こしてまうタイプが多いような気がします。

私はよく、任意の集団・組織に属しているのなら、相手の基準を「受け入れること」は本人が決めていいけど、まずは一旦「受け止める」ことまではしようとは心がけます。

一旦はまずは「受け止める」。その上で、「受け入れる」のか、「わが道を進む」のかは、後で決めれば良いことだと思うのです。

そういう意味では、できれば若いうちに「理不尽」や「強制」という経験をしておいた方がいいのでしょうね。

じゃないと、永遠にキャパは広がりません。

キャパとは、他人の価値観をどれだけ受け入れることができるかの「心の広さの総量」ですから。

キャパが広がらない最大のリスクは、人生が豊かにならないことだと思っています。

他人から言わせればどうでもいいようなことに、強烈にコダワって我を通そうとしたり、

意向通りに進まなかったり、認められていないと感じているからと言って、「参加」することそのものから逃げるのは、

「こんな会社いつだって辞めてやる!」と何度も大声で叫ぶものの一向に辞めないボンクラサラリーマンと何ら変わりなく、その姿は滑稽です。

 

私は、社会は「理不尽」が前提だと思っています。

 

それが心地よいか?と言われれば決して心地よくはありませんし、面倒くさくてしかたありませんが、

社会というのはもともと自分以外の他人という、価値観が違う一人一人の集まりな訳ですから、

好きだろうと嫌いだろうと、そこで生息していくしかなくて、泣いてもわめいても、それが前提であり現実であるという考えを私は持っています。

「社会は理不尽が当たり前」という価値観を持るてている人と、持てていない人と、どちらが社会で成功していくかの免疫力をもっているかと言えば、言わずもがなでしょう。

学生時代に応援団や体育会系に所属していた学生が、就職において優遇されるというのはよく理解できます。

あいつら無茶苦茶理不尽極まりない世界で生活していたはずですから(笑)、「普通」の基準が、普通の奴より全く違うのです(笑)。

みんな、自分が普通だと思ってますから(笑)。

これは能力の問題ではなく、心の「許容量」の問題だということですね。

そういう意味では、いきなり創業したか、社会経験を1~2年そこそこで継承した人というのは、経営者としての「器」や「許容量」については、成長チャンスから大きく見放された存在とも言えます。

だから、そこを鍛えるという意味で、異業種交流会とか経営者勉強会とかで鍛えられる場があるのでしょうし、

自分でやっていてもうまくいかないから参加してみようとするのでしょうが、

肝心の本人が自分の「行動パターン」を一旦無理やりにでも変えてみようという参加意志がない以上は、やっぱり、無理なもんは無理なんだろうと思っています。

「理不尽」をいつ経験しておくか?と聞かれれば、それはやっぱり早い方がいいのでしょうね。

「思考パターン」が変わるに越したことはありませんが、「思考」は第三者からは見えませんから、

変えるべきは「行動パターン」だというのが私の見解です。

「思考」は本人が勝手に納得したいようにすればいいことだ、くらいに思っています。

 

理論上のリーダーシップの勉強では、「自分とは全く違うタイプをサイドに置いておくべき」とか、「社長にも遠慮せずにガンガン意見を言ってくれる幹部がいて欲しい」、という理想論みたいなものがあって、

それは頭で理解しているものの、実際にそれをやられると感情が許さないタイプはとても多く(笑)、

それは年齢や業績の問題ではなく、どれだけの人と真正面から関わってきたのかという経験の問題なのでしょう。

 

最悪なのは、「優秀な者や、個性的な人や、出る杭をどんどん引き上げる」と口では言っておいて、結局は自分の言う事を都合よく聞いてくれるタイプを優遇登用していくタイプで、

「言ってることと実際に行動が違う」タイプがトップにいると、社員達は本当に迷うか、あるいはバカにして言うことは(聞くフリしてても)聞かなるでしょうね。

「知識を言うことと、実際の行動が一致しているかどうか」を自分で知るには、「どういう経営者でありたいか?」よりも、「土壇場の意思決定をする時にどんな行動をしでかしたか?」の過去の実際の行動を、客観視して映像化してみるといいですね。

大事なのは、自分を客観視して自覚しておくことです。

その最大のヒントは、経営者ならば、自分は創業者なのか?継承者なのか?に根幹があると考えています。

口で言っていることと、実際に行動していることと、長いスパンで言行一致しているかどうかのチェックは定期的に必要でしょうね。

かくいう私はどうなのか?ということですが、サラリーマンも、継承者も、社長も、雇われ経営者も経験してきて、結局どれもこれも面倒くさくなった(苦笑)。

要するに、トップ・リーダーとして「器」「許容量」「キャパ」はない人間だったのだ、と最近になってやっと自覚できたので(苦笑)、

今後のビジネスは一人でやれる範囲に留めるということに、ここにきてやっと(50歳を手前にしてやっと(笑))自覚できた次第です。

色々経験してみた結果、私はトップ・リーダーとしての「器」はないのということを自覚しただけ(苦笑)というのは、最悪とも言えますが(苦笑)、今となっては、人生の途中で気づけただけ良かったという感じでしょうかね(苦笑)。

「自分を客観視」すること自体、とても恐いし、勇気がいることだとは思いますし、「客観視できた」と実感したけど、本当にできたかどうかなんてのはやっぱり分かりませんからキリがないと言えばないのですが(苦笑)、でも、その努力はしておくべきだと思っています。

どこまでいっても、自分のことが分かったのか分からないのか、分からないかもしれないけど、自分を客観視することそのものに意味があると今のところ信じています。

自分が、創業であろうと、継承であろうと、まずは、今の立場で全力投球しながら、時に自らの行動と感情を客観視する時間を持つ。

要するに、「やりながら自分に気づく」というのが、結局のところ、最も速い自分の立ち位置を見つけることなのだと思うのです。

隣の庭がどうかより、自分の庭がどうであるのが最も適しているのかは、まぁ、やってみてからみてから、あるいはやりながらボチボチと見つけていけばいいのでしょうね。

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考えてることはあんまり変わんないんだね(笑)。
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