成果が出ないのは正しい努力をしてないからだな(苦笑)
痩せたければ、
「摂取カロリー」を減らすか、「消費カロリー」を増やすしかありません。
利益を上げたければ、
「粗利額」を上げるか、「コスト」を下げるしかありません。
お金を増やしたいなら、
「収入」を増やすか、「支出」を減らすしかありません。
そんな単純な引き算の計算は、誰もが分かってるのに、でも、実際にできる人はできて、できない人はいつまで経ってもできません。
知識がないから、行動しようがないのか、
知識があっても、行動しないのか、
知識も得たくないし、行動もしたくないのか、
それは、分かりませんが、できない人は、何らかの理由があって、とにかくできないのです。
やらないのか、できないのか、それは知らないけど、欲しい成果まではとにかく繋がらない。
裏を返せば、実際にやったことがないので、何をどこまでやったら成果に繋がるのか、
その自分なりの基準や線引きや境目といったラインが分からない。
自他共に認めるだけの公の成果を出したことがないから、何をもってして努力と定義するのかがそもそも分からない。
努力しているか?と聞かれたら、多くの人は努力している、と答える。
でも、多くの人は成果まで繋がらない。
努力ほど、属人的で曖昧な基準はない。
どこまでらやったから努力したと、自分にOKを出すハードルは、人それぞれに委ねられる。
だから、成果が出ない人ほど、自分はどれだけ努力してきたかを訴えて、承認して欲しがる。
ところが、社会の評価は成果という残酷な局面は確実に存在し、そしてその現実は変わらない。
努力してるからいいんだぴょん、と開き直れる人ならいいけど、
多くの人は、そこでまた凹み、苦しみ、悩む。
努力した自分を認めてあげるのか、
成果を出した自分を認めてあげるのか、
どっちもやってのけた自分を認めてあげるのか、
どれなのかも曖昧なまま。
できない人は、適切な努力をしていない。
頭の中で、あぁなれたらいい、こうなれたらいい、と願望を張り巡らせているだけで、
適切な努力をしていない。
成果を出した人に、どうしたらいいのかを聞くは聞くけど、やれ「そのやり方はしたくない」「それは自分には合わない」「それは自分とは違う」と自分のやり方を誇示し優先する。
思考も行動も変えようとしない。
だから、今までのまま。
今までのままの自分のやり方の回数を増やす。頻度を上げる。
それを努力と言い張る。
成果からはどんどん遠のく。
だから、成果は上がらないけど、努力していると言い張る。
それでいいならいいけど、
成果だけを問われる局面に至ると、また困る。
その繰り返し。延々と続ける。
誰に何を言われても「これ以上はやってたまるか、煮るなり焼くなり好きにしろ。」と開き直れるだけの努力をしていない。
「俺は、完璧な努力だけはした、でも俺には才能がなかった。才能は生まれつきだから、しかたない。自信もって諦めた。別のステージで頑張る。大丈夫、俺は正しい努力だけは完璧にできるから。」と言えるだけの、自他共に認めるだけの正しい努力をしてきていない。
できる人は、正しい努力を5年やって、成果が出なければとっとと諦めて次のステージに移る。
対して、できない人は、努力してないから、努力したらできると言い聞かせてずっとやり続ける。
今日も今日とて、変わらぬ日々を過ごし、変わらぬ習慣のまま1分1秒を生き、口では「変わらなきゃ」と言いながら、何一つ変わらぬ時間を過ごし、寝て、起き、どっかに行って、クソして、また寝る。
それが一年・二年と続き、そして一生を終える。
だから、成果は出ない。
成果を出す人と、成果を出せない人は、そうやってドンドン差がつく。
そして、言う。
成果を出している人は、「大した努力なんてしてないですよ。」
成果を出せない人は、「これでも私なりに精一杯努力してるんですよ。」
だから、努力という言葉は私は信用できないのです。
だから、自覚するのです。
努力したつもりで、「これでも、ベルト穴2つ縮めたんですよ。」と自分で言うはいいけど、
タイトなレザージャケットをジップアップすると、腹がパツパツな状況は変わらない現実を(苦笑)。
目の前の煩悩に負け、都度言い訳を自らに与え続け(苦笑)、
せめて、滑稽で不細工な自分の姿を、こうして正々堂々と露呈させて(苦笑)、
正しい努力の知識と行動ができるように、自らに叱咤激励するしかないのです(苦笑)。
これでも、自分なりに努力してるんですよぉ(苦笑)。
私は成果が出せない人です(苦笑)。
今んとこな、今んとこ(笑)。