移動中に考える「自分とは何者か?」
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東京に向かう新幹線の中からです。
「坪井さんは移動が多いけど、移動中は何やってるんですか?」と聞かれることがあります。
本当は寝たいんだけど(笑)、私は移動中は大抵は考え事をしています。
一定の纏まった時間を、誰にも気遣いせず、自分だけのペースで一人っきりになれるからか、「移動」は好きです。
何を考えてるかと言うと、「あの時、自分があの感情を持ったのは、自分の何がそうさせたんだろう?」というようなことが多いです。
例えば、この2週間は、今の立場になってから初めてとも言える程の事が、たくさんたくさんありました。
次から次へと起こる新たな色んな出来事や、不慣れや予想外の出来事に、その場その場で、とにかく最善と思える私の全力精一杯を出し切った自負は持てています。
私の全力精一杯ではあるけれども、但し、それは第三者にとってみれば関係のないことで、その評価は第三者に委ねられ、その弾丸は、喜びも悲しみもごちゃ混ぜになって、情け容赦なくこの身にツキ刺さります。
今までにない動揺、今までにない楽しさ、今までにない緊張、今までにない哀しさ、今までにない喜び・・・。
言葉というものは、これほど便利なものと思う反面、使えばこれほど陳腐なものになってしまうのか?と思える程に、様々な感情が脳を駆け巡るこの2週間でした。
そういう連続が起こると、一つ一つが何だったのかを一回毎に纏める時間はなくなります。連続だから故にでしょうが(笑)。
よって、「あの時、自分があの感情を持ったのは、自分の何がそうさせたんだろう?」を纏めて振り返る時間は必要となります。
大事なのは、「何がそうさせた」ではなく、「自分の何がそうさせたのか」です。
起こる事象は一つなれど、それをどう受け取るのかは個人の認識に過ぎません。
よって、一つ一つの出来事で私が得た感情は、私固有のものです。
原因を他に求めるのはとても簡単で、「あの人は好きだ、あの人はいい人だ、あいつは嫌いで、あいつは胸くそ悪い、だから言ってやろう、無視しよう、引っつこう、離れよう。」と人間評論になって、後はせいぜい誰かにそれを喋ってスッキリして終わるか、それでもまだ収まらないか、その程度で終わり(苦笑)。
で、それは、最も興味のある「自分とは何者なのか?」のヒントにもなりません。
私が重要だと思っているのは、「その喜怒哀楽の感情は自分のどこから来ているのか?」ということです。
答えなんてないのかも知れないけれど、考えることそのものに意味やヒントはあると思っていて、それが、多くの人と喧騒にまみれながらも全力精一杯で頑張った自分への唯一のご褒美だと思っています。
自分とは何者か?人とは何者か?というものがちょっとでも知れたと思う時の感動はありませんから。
まぁ、そんなことを考えながら東京に着きます。
すっかりブログを更新する時間になってしまいました(苦笑)。
そんなもんですよね(笑)。