考えても考えなくてもいいようなことを考えてみる
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- 坪井の日常
人は、言ってもいいし、言わなくてもいい、という選択肢がありながら、でも、何かを喋る。
人は、やってもいいし、やらなくてもいい、という選択肢がありながら、何かの行動をしている。
それは、その人の何がそうさせているのか?
という風に、一旦仮説を立てて、人というものを考えてみる。
その「何が」なんてものは外側からは見えないけれど、
「何が」というものを「思想」という名称に置き換えてみる。
その人の言葉や行動行為から、人はその人の「思想」を透かして見て、
その「思想」に対して、共感したり、価値を感じたりする、
と、一旦の仮説を立ててみる。
そうすると、人は言葉や身体というものを使って、
自分の「思想」というものを表現しているという仮説になる。
自分が他人からどう見られたいと意図するにせよ、
無意識のうちに何かやったり喋ったりしているにせよ、
誰と一緒にいる・いないという選択をするにせよ、
SNSで発信する内容をどうするかにせよ、
自分の思想は他人から透かして見られていて、
どう取り繕っても、全て透かして「思想」という見えないものを見られている、
と仮説を立ててみる。
しかし、それは全て、他人の勝手な価値基準によって、自分という人間が何者なのかを作られている、
と仮説を立ててみる。
そういうどうでもいいとも思える(笑)仮説に基づいて考えていくと、
結局のところ、自分がやりたいように、自分が好きなように、自分が正しいと思うように、これが人に役立つと思うように、
そう信じられることに基づいて、
何かを表現して、何かを主張して、
それに対して、他人の評価がどうあれ、それはそれで受け止めて、
さらに、
その評価に合わせて変えていくのか、
評価など気にせず自分の信じた道を貫くのか、
その選択もまた自分でしていく、というのが、最も納得のいく人生になるのではないか、という仮説に行き着く。
そういうことを考えると、
自分の思想が、思い通りに表現されていると自覚できて、
その通りに他人からも評価されていると自覚できるというのが、
最も幸せであるという仮説が成り立つが、
そんなこと考えたところで、意味なんてあるのかよ?
みたいに思えることを、
行ったり来たりながら、迷いながら、だんだんと自分の軸が出来上がっていくのが、
私は人間だと思っていて、
そういうことを考えたり、仮説に基づいて実践してみることそのものに意味があると思っている。
という仮説を立ててみた(笑)けど、
大事なのは、それを表現する画像があるかないかに必死になっている、
という自分に気づいた(笑)。