知らぬ間に分からなくなっている懸念

生きている中での日々というのは、

自分自身が生きていく為や、

周りの人が良い人生を歩む為に献身的にやっていることや、

本来はそういうことの為に、「日々」という単位を生きているのだろうけど、

 

日々というのは、時に喧騒にまみれる一つ一つをこなしていくことと同義であるが故、

本来の意図よりも、目の前の意図に忙殺されて、何か大切なことを忘れてしまうことがあるのではないか、

と、まるでマクロとミクロの境目を行ったり来たりするような錯覚に陥ったりします。

 

去年一年から、いまだ続くコロナ禍という環境は、

きっと誰にも、否応なしに、大きく、様々な変化があったが故、

 

毎日を過ごすということが、実はどれだけの変化にとんでいたことなのかを、

一年という単位を、振り返りながらの分析を、自らに強制することで、

改めて認識していたりしました。

 

環境変化に対応して、自分も変化していかねばならないことと、

いかに変化しようと、変化することなく大切にしていかねばならないことの分別は、

せめて自分の中では明確にしておけるよう、意図的に時間をもっておくことが、

何が、どっちなのか、が自分で理解する為に、必要なのではないかと、

 

日々の変化というものが普遍化しているが故に、

日々を懸命に生きているが故に、

とても大切なような気がしています。

 

行ったり来たりを繰り返しているうちに、自分でも知らぬ間に、

どっちがどっちなのか、分からなくなるなっているのではないか?

という自らへの懸念は持っておきたいと思います。

 

分かっている自覚の時が一番怖い。
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