正しい自分の価値は誰が決めるのか?

何に価値を感じて、何に価値を感じないかは、人それぞれです。

 

それは、例えば、対象がモノであれば、誰もが難なく理解するわけで、

私のように、レザージャケットに異常なほどに価値を見出す者もいれば、

そんなことはまるで理解できない人もたくさんいて、

時として理解どころかアホとしか思われません。

(そっちの方が恐らく圧倒的に多いと思うけど(笑)。)

 

そういうことなら、何の違和感もなく分かるわけですが、

こと人のこととなると、その認識は微妙になるから不思議です。

 

自分という存在に、価値を見出す他人もいれば、

まるで価値を見出さない他人もいる、

というのは、至極当然と言えば当然なのかも知れませんが、

 

何故だか、人は、周りの人全てから自分の価値を認識されないと、納得がいかないようです。

 

仮に、価値というものを、「好き嫌い」と同義だとすると、

自分は、自分以外の誰かのことを好きだったり、嫌いだったりと、

他人のことは選択するのだけど、

 

こと自分のことになると、誰かから嫌われると、とてもイヤなようで、

 

そうなると、自分は他人のことは勝手に選択しても良いけど、

自分だけは誰からも選択されることなく、万人から好かれていないと気がすまないという、

客観視してみれば、どう考えてもおかしなことを、

ごく普通で当たり前の感情として持ち合わせているのは、

いったい何なのだろう?と時々思ったりします(苦笑)。

(仮に、本当にどこの誰からも100%好かれるようなことがあるとしたら、それを望むのだろうか?)

 

果たして自分は価値がある人間なのか、はたまた無価値であるのか、

レザージャケットのように、誰かからは価値があり、

誰かからは無価値であるのと同じように、

そもそもが、そんなことは、他人からの一方的な価値観や感情があるだけで、

本当のことなど、どこまでいってもまるで分からないのだから、

どうせ分からないのなら、自分が一番都合が良いように、自分のことなど決めておけばいいと思うわけで、

 

いや、むしろ、そんなことを考えること自体、どぉでもいいことなのかも知れないので、

ただ何も考えずに生きているだけの方が、幸せでいいのかとも思うわけです。

 

というわけで、私は今日も何も考えずに生きていることを、何とか肯定するのでした(笑)。

 

 

 

それじゃ単なるアホだ(笑)。
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