「絶望」と「希望」の狭間の悶絶に成果は宿る(笑)
仮に、何らかの「成果」を前提とした場合、
とりわけ、ビジネスの成果や、お金や資産が増えることに限定すると、
AIを使って、何かがアウトプットされて、
自分では、
「おぉ!すごい!AIでこんなことまできた!」
と思って、人に見せたくなるけど、見た途端に、
「はぁ、AIでしょ。」
となるのがAIである(笑)。
かといって、
「やっばり人間らしさ、自分らしさが大事だ!」
と思って、自分の事を出したところで、
「はぁ、あんたのことでしょ。そもそも興味ないし、それで成果を出せるなら、とっくに出てるんだから論理破綻してるじゃん。」
となるのが元々の自分である(笑)。
じゃあ、「どうしたらいいんだよ。」という、根本的・本質的な懐かしい悶絶は、
パソコンが普及した時も、スマホが出た時も、SNSが台頭してきた時も、
「これで時代が変わる」とされて、使えるようになったところで、ほとんどの人が「欲する成果」には繋がらない懐かしさがある(笑)。
それは、商品を作ったら売れる、店を出したら売れる、と思い込む懐かしさにも似ている(笑)。
「これをやったら、近い未来に、欲しい〇〇が手に入る。」
という即時性のある虚構を信じられる本能を、人間は備えているが故に、抗ったところで本能だから仕方ない(笑)。
そもそも消費の動機というものは、本来そういうものであるから、それが人間らしいと言えば人間らしいのだ(笑)。
問題と興味は、ビジネスも最新機能も、同じことをやっている人がどれだけでもいるに関わらず、成果を出す人と、出せない人の違いはどこにあるのか?
ということにある。
それは、一定の法則性があるのか、その人だからという個体としての絶対値や優位性なのか、偶然や運なのか、
私は、最終的な、客観性と再現性のある結論に至っていないです。
結局のところ、
「できる人は何やってもできて、できない人は何やってもできない」
という、自分に対する「絶望」を前提を持ちながら、
「いやいや、今までは、たまたまダメだっただけで、私は、そこいら辺の奴と違って、実はできるんだもん。」
という、脳天気とも言えるし、不遜とも言える、「希望」という体のいい言葉を信じられることは大事なんじゃないか?
という仮説は持っています(笑)。
となると、「成果」を前提として何かをする場合、
①「成果」を求めているに関わらず、「成果」など求めずに延々とやり続けられるほどの、当初の手段が目的化するくらいの純粋などうでもいい動機があるか?(笑)
か、
②実は自分は何をやっても「成果」を出せる側で、今までは、たまたまダメだっただけで、今度は大丈夫と信じ込めるアホ丸出し全開脳天気か?(笑)
のどちらかになるような気がして、
だとしたら、
「いつも笑って、楽しそうに、やりたいことを嬉々としてやって、ねぇねぇ見て見て、と言ってればいい。」
という「とりあえずアホ全開でただただ笑っとけ」というのが、「成果」を出す人の根本のような気がして仕方ないのですが(笑)、
でも、そうすると、この文章の最初に戻るスパイラルもあって(笑)、
まぁ、そういうどうでもいいことを繰り返しながら、実は知らぬ間に、気づいたら「成果」を出せる人になって行くのかも知れませんね、
という「希望」を持つと、不安な時代でも「希望」に溢れた人生ということになりますね(笑)。