「脳の記憶」と「心の記憶」の圧倒的相違点

本に書いてあることは記憶していた

永きに渡って、継続して経営の指導を頂いてきた方がいます。

思うところあって、久しぶりに、その方が書いた長編のビジネス書を1から読み直しました。

 

何しろ、27歳で家業を継ぐ為に名古屋に戻り、37歳で廃業に至り、その後47歳で株式上場するまでの20年近くの間、

個人的指導も含め、様々な勉強会やセミナーで継続的に指導を頂いてきた方だけに、

経営の方程式に始まり、事業の本質から法則・会計や目標管理・ビジョンや理念・人事・マネジメント・経営心理学・経営哲学に至るまで、

書いてある実践と論理に満ちたその内容は多岐に及びますが、何度も聞いたことがあるわけで、

読み返してみれば、そのほとんどは思い出され、頭の中では「記憶」していることです。

 

まるで、昔やったテスト勉強の教科書を復習をしているような感覚を持ちながら読み進めていく中、

一つ気づくことがありました。

 

即答しているのは「記憶」ではなく「実践」したこと

この5年は、私が実践経営の経験を通して、

様々な業種業態の経営者やビジネスリーダーの方々の、

リアルな課題や問題に対する解決を支援する側になっています。

 

その内容は、お相手の事業規模や立場・人生や価値観・性格等もあり、一言に経営と言っても多岐に及び、

また、現実的には、その時にその場で起こっている直近の問題や課題をどうしていったらいいのかを、その場でストレートに聞かれて、案を求められることがほとんどです。

 

聞かれたことは、私の出来うる範囲で考え、その場でいくつかの案を出し、選択していけるように努力しているわけですが、

その場で、即答して出せる解決案や方向性というものは、

勉強して「記憶」していることではなく、

勉強したことを「実践」してきたことに絞られていることを改めて気づくのです。

 

相談相手は「知識」に興味などない

本を読んだり、話を聞いたりすれば、その場で「知識」としては頭に入り、

それは何度も繰り返せば、短期的に「記憶」することは可能でしょう。

しかし、アシストしている現場では、

「いちいちその項目が詳しく書いてある教科書は何だったかを思い出して、探してきて、広げて、公式の書いてあるページを思い出して調べて、もう一度読み返して、その通りに相手に伝えて、考えてもらう・・・・、」

などというまどろっこしい時間はないし、そもそもそんなことを求められていません。

 

聞いてくる人というのは、その場で悩んでいることに対する最適な答えを労せずすぐ欲しいし、

自分の都合の良い方法を自分で選びたいわけだし、

それならできそうだからやってみよう、という行動への可能性を感じたいだけなのです。

 

相手は、私の知識には何の興味もないし、教えて欲しいなどとは思っていません。

ただ、今の自分が解決したいことを、自分の気にいるやり方で解決できそうな具体案を、自分の代わりに考えてもらって、いくつかの案を提示して欲しいだけなのです。

 

瞬時にアクセスできる記憶は「実践」

相談の内容がどうあれ、一旦でもその場で、解決への選択肢と可能性を出さねばなりませんから、

その内容が目の前に現れた瞬間に、すぐに自分の脳にアクセスして、適切な言葉を選んで、相手に伝えることになります。

 

それは、以前に勉強して脳に「記憶」したことは一つとしてありません。

言い換えれば、勉強して「実践」してきたことしか、瞬時に言葉に出すことはできないということです。

 

記憶では分かっていても、実践では分かっていない

私は分からないことは「分からない」と言います。

でも、改めて本を読んでみると、現場で「分からない」と言っていたかもしれないことでも、

私の脳の記憶内においては「分かっている」と判断していることが結構あることに気づくわけです。

 

言葉や文字としての記憶では「分かっている」と認識しているのに、

現場で即答を求められると「分からない」と判断しているということになります。

 

この違いは何なのか?を改めて考えてみたのですが、

結論としては、やはり

「実践したか・しなかったか」

ということ一点に尽きます。

「脳で記憶」と「心で記憶」することの違い

実際に実践してみると、

頭を悩ませたり、書いてみたり、何度も考え直してみたり、緊張したり、変な汗かいたり、

手を動かしてみたり、身体を使ったり、人と話してみたり、変な汗が出てきたり、いつもとは違う鼓動を感じたり、怖かったり、ドキドキしたり、

その工程の中で、嬉しかったり、悲しかったり、辛かったり、報われたり、何か大切なことに気づいたり、見えなかったものが見えたり、やってみて分かったこと、等々、

その時その時の

「克明な映像や場面」と、

「強烈に心に刻まれた感情」

があったりします。

 

それは「心と身体で記憶する」とも言えるわけで、

ここでは、短く名前をつけるとして

「心で記憶」

するとします。

それは「脳で記憶」するものとは明らかに違うものだと分かります。

 

学校や資格や技術の試験のテストで良い成績を取る為には「脳の記憶」はとても大事なのだと思います。

しかし、実践経営における現場における経営者やビジネスリーダーは「脳の記憶」はほとんど役には立たないというのが、私の結論です。

論理はシンプルでも実践は複雑になるのが経営

経営は机上の論理の上ではシンプルに考えることはできるかも知れませんが、

実際には、二律背反する問題や、とても複雑な問題が絡み合って、判断に迷ったりします。

それは何故かというと、様々な人間がそれを構成しているからなのだろうと私は思っています。

 

だから、論理の上では正しいと仮定できても、実際にやってみないと分からない。

(そもそも、その論理が最初から破綻していては問題外ですが(苦笑)。)

ということは、経営者やビジネスリーダーが、経営の中で起こる問題を解決して成果を出せるようにするには、

その立場になるまでの(あるいはなってからの)、「勉強量」と「行動量」の総和にかかっているといっても過言ではありません。

 

「勉強」と「実践」の相関関係

「勉強熱心だなぁ。」と思える経営者やビジネスリーダーを私はたくさん知っています。

本を読んだり、セミナーに行ったり、勉強会に参加したり、たくさんの勉強をしています。

でも、同じ本を読み、同じセミナーに出て、同じ勉強会に所属しているのに、

実積や成果に差が出るのは、何が起因しているのか?

その問題にとても興味があって、一言で「行動したか・しないか」「実践したか・しないか」としていましたが、

やみくもに、何でもいいから行動・実践してればいいものでもなく、

 

ここにきて、自分ごとに当てはめてみることで、改めて、

「知識と行動」「勉強と実践」

という相関関係は、成果を出すにあたり一体であると再認識したということですね。

 

そもそも「勉強」はなぜするのか?

そうなってくると、何故、勉強するのか?という問題になってくるわけで、

一つは、何となく何もしてないと不安だから、とか、勉強している自分でいたいから、とか、勉強会に行くと心地良いから、とか、勉強すると何かいいことあるんじゃないか、勉強している自分を自覚していたい、とか、そういうことをひっくるめて、

「勉強することそのものが目的」

と自覚できるのであれば、それはそれでいいかとも思うわけです。

それじゃダメだ、という人もいるかも知れませんが、それもまた一つの価値観だし、人生だし、趣味なのだろうし、言ってみればその人の勝手なわけで、私はそれならそれでいいんじゃないのかと思うのです。

そうなると、勉強は大して立派なことでもなく、ゴルフをしたり、キャバクラに行ったり、プロレスを観に行ったり、釣りに行ったり、映画を観たり、ボッサーと何も考えずにいたり、

そういう趣味とか暇つぶしと同じでいいわけです。

まぁ、趣味が勉強なんて、それはそれで何だか周りから褒めてもらえそうでいいんじゃないかと思うんですけどね(笑)。

 

ちなみに、私は子供の頃から勉強は大っキライなので(苦笑)、自分の大切なコストと時間を使って勉強するなんて絶対にしません(苦笑)。

やりたいことがあって、それを実現する為に必要な勉強がある場合にのみ、やります。

大学時代に、経営学や経済学を勉強する機会はいくらでもあったのに、一切やりませんでしたもんね(苦笑)。

私が今勉強することがあるとしたら、勉強することによって得たい何かがあるからでしょう。

私の勉強はその程度です。

 

あるいは、勉強会に行くことそのものが顧客作りになる、お客さんとの関係を維持する為に勉強会に行く、お付き合いだ、という場合もあるでしょうから、その場合は、

「販売促進の為に勉強する」

でもいいでしょう。

それはそれで明確な理由だから、それでいいと本人が自覚しているならそれでいいと思うのです。

(まぁ、言わんでしょうけど(笑)。)

 

理想の経営者像があるなら

ただ、もし、自分が経営者として、ビジネスリーダーとして、理想の状態があって、

理想の自分を求めるのであれば、やはり、知識を得たことを行動してみる、勉強したことを実践してみることは、不可欠であると言えるでしょう。

そうでないと、巻き起こる様々な問題や課題に対して、一つ一つ判断し、意思決定していくことはできません。

 

いま、私がやっていることなんて、一回の講演とか、月に一回程度お邪魔して、

「それなら、こうした方がいいんじゃないですかぁ?」

と、まぁそんな程度のことを言っているようなもんです。

 

そこから取捨選択して、何をして、何をやらないのかを決めて、実際にやってみるのは、

私ではなく、毎日経営している経営者やビジネスリーダーご自身なわけで、その実践は私にはできません。

(私がやったら、それはもう経営者本人になってしまうわけで(笑)、私はその会社の経営者でもビジネスリーダーでもないのだから、そんなことやっちゃいけないとも言えます。)

 

実践経営の現場では、利益が出る出ないに始まって、日々、様々な問題や課題が生まれます。

そこに、瞬時に意思決定して行動に至れるかどうかは、

「脳の記憶」ではなく、まさしく「心の記憶」しか当てはありません。

 

「心の記憶」のストックを増やすには

「心の記憶」をストックするには、「行動」「実践」しかないというのが私の結論です。

 

ストックですから、「勉強と行動の量」を積み重ねてきた人の方が圧倒的に有利でしょう。

そういう意味では、やってきた人とやってこなかった人との差は、時間と共に大きくなるばかりで、その差をひっくり返すのは難しいかもしれません。

残酷な現実ですが、しかし、そこを直視しないことには、次にも進めないのも事実です。

だから諦めるのか、でもやってみるのか、それは自分で決めればいいことだと思うのです。

 

 

今回、久しぶりに、改めて、そして時間をかけて本を読ませて頂いたことが、私にとっての勉強だとすると、

いま、私が実現したい対象は、その為の勉強をしてでも、本当に私がやりたいことでもあると言えます。

それは、私が私をまだ諦めていないとも言えるわけで、そういう自分に少しは安心をしたとも言えます(苦笑)。

 

 

論理を学んで実践してみるのか、

実践したことの意味を理解しようと論理を探るのか、

入り口はその人のタイプによるかも知れませんが、どちらから入ろうと、どちらも必要であることに違いはないのだろうと思うのです。

 

そんなことを考えながら、マネキンの論理に満ちているような美しいお礼の角度は、自分にもできるのだろうか?と興味を持って、横に立って実践してみるのでした(苦笑)。

やってみて、論理と実践は必ずしも一致しないことを身をもって知るのでした(苦笑)。

 

マネキンの論理と、私の実践は一致しない(苦笑)。
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