「努力」とは果たしてどれのことを言うのか?

セミナースライド用のイラストの一部です。

自己紹介で幼少の頃を出すときは、必ずウルトラマンのポーズです(笑)。

大きくなったら、本気でウルトラマンになれると信じていましたから、当時の写真はどれもこれもウルトラマンのポーズです(笑)。

当時の写真を見ると、改めて、信じる力は凄まじいものがあると思えます(笑)。

 

実績や成果を上げる為に「努力」は必須だと思ってはいます。

しかしながら、自分でどんなに努力したと自覚していても、成果に繋がらないことも、誰も認めてはくれない時があります。

反面、自分では何の努力もしていないつもりなのに、他人から「さすがに、スゴイ努力をされているんですね。」と評される時もあります。

 

個人的には「努力」という言葉はあまり好きではありませんでした。

学校の勉強はじめ、やりたくもないことや、苦手や不得意なことを、やりたくもないし、目的も分からずモチベーションも上がらないことを、無理やり克服せねばならない行為という認識がありましたから。

 

しかし、他人がどんなに「努力している」と認識しようと、

当の本人が、好きで夢中でやっているその行動行為は、果たして努力と言えるのか?という疑問を、

自らの幼少のアホ写真から抱くようになりました。

「努力」の定義とは一体何なのか?と思う訳です。

 

自らがなりたい対象や、焦がれる程に憧れる存在に近づこうとしてやっていることは、

その姿を他人がどう思おうと、当の本人は「努力」とは認識していません。

 

私の幼少の頃の写真の数々は、傍から見れば、将来ウルトラマンになる為に、過酷とも思えるほどの(笑)凄まじい「努力」をしています(笑)。

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しかし、当の本人は、当然ながら「努力」とは認識していません(笑)。

 

当時の私にとってのウルトラマンのことを、大人になってからは、「ビジョン」と呼んでいます。

「ビジョン」があるのとないのとでは、生き方そのものが大きく変わってくると思っています。

 

「楽しいことを選択する」のが、生き方として正しいというのは当たり前のようになっていて、それは私も正しいと思ってはいます。

しかしながら、目の前の「快楽」を選択し続けることも「楽しい」と言えるわけで、

例えば、子供が勉強もせずにゲームばかりをしていたり、社員が仕事もそぞろに飲み会や合コンばかりに夢中だったり、

そういう状態を問題視したり相談されたりすることは多々あります。

「楽しい」という言葉の定義を、勘違いされていることに対する憂いですね。

 

私は目の前の快楽を選択する「楽しさ」と、将来ビジョンに向かっている状態を「楽しい」と認識するのとはまるで違うと思っています。

何かに向かって進む時は、当然ながら快楽ばかりではありません。

それを克服する為の思考や行動行為は、時に辛さを伴うものもあって当然かと思っています。

しかしながら、それすらも、当時のウルトラマンポーズの訓練のように(笑)、夢中になって、楽しそうにできていたら、それは何て最高で最強で素敵なんただろうと思えるわけです(笑)。

何しろ、スペシュウム光線や、ワイドショットが本気で出せると信じていたのですから(笑)。

 

私は、本来ものぐさで、面倒くさがりで、グダグダでいたくて、できれば何もしたくないという人間(いつのころからか(苦笑))を自覚しているので、

だからこそ、

「楽しいと信じている最終成果を出せれば当然楽しい」←「そこに行きつく過程がどうあれ、それも楽しい」

という、そんな果たしてできるんかい?というようなことを、本当に実現できんものか?と本気で考えていたりします(笑)。

 

でも、もしそれができて、実践して、伝えられたら、社会が、仕事が、多くの人の人生が、

そんなことより、何より私自身の人生が(笑)、

どんなに素敵で素晴らしく、多くの人が幸せになれるのかと思うのです。

 

大丈夫、私にはきっとできるはずです。

何しろ子供の頃に、すでにやっている経験を持っているのですから(笑)。

 

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