「本質」というのは見えないけど言葉は使えるから恐いんだよ

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「本質を見る目を持つ」とか、

「物事の本質が大事だ」とか、

「本質」という言葉を使ってそれが大事だということ程度は、多くの人が知っているし、そう言ったりもします。

しかし、「本質」というものは目には見えません。

が故に、何が本当の「本質」かという問題は、結局のところ「これが本質だ」と言っている本人に委ねられているということであり、何をもってして本当の「本質」かという証明は誰にもできません。

その人が「これが本質だ。」と言ってしまえば、それはその人にとっての本質論であり、

聞いた他人が「それは本質ではない。本質はこっちだ。」と反論したところで、

どちらも折れなければ、それはそれで平行線となります。

例えば、私が「消費の本質」は、「人がわくわくしてドキドキして新たな自分の価値発見をする連続である。」と私なりの体験・経験に基づいて考えた結果、そう定義づけているとしましょう。

でも、誰かが「それは違う。消費の本質は、他人にお金を使ってもらって自分の商品を買ってもらうことだ。」と言ったとします。

これは、どちらが正しいとか間違いとか、誰が証明できるのか?ということになります。

そもそも「本質」という言葉の認識や定義というものは、曖昧で不明確です。

だから、解釈の仕方や使い方も人それぞれということになります。

ところが、「本質」という言葉自体は存在していて、誰もが「本質」という言葉は使えます。

ここがややこしい。

だからややこしい。

自分が「本質」が見えた、あるいは分かった、と自覚した時点で、その人にとっての「本質論」となる。

自分は「物事の本質が分かる」と自覚したが最後、「自分は分かる」となる。

だから「〇〇の本質はこうだ」と言い切ることができると言えばできてしまう。

私が恐いと思うのは、私の基準と違っている場合、

「あぁ、こいつは本質という言葉は使っているけど、本質など見えていないんだな。」

と思ってしまうことがあったりします。

言った本人が「これが本質だ。」と主張している以上、それがその人の本質論なんだろうな、とは思うけど、

反面、こっちはこっちで、「こいつ浅いな。」とか「アホさ加減が透けて見えるよ。」「こいつズレてねーか?」と勝手に見てしまうということが、往々にしてあり得るということです。

私も、こうして偉そうに書いてはいますが、でも、もっと深い人から見たら、「こいつ浅いな・・・・。よくこんな程度で本質論を語ってやがるな、バカ。」と思われるかも知れません(苦笑)。

しかも、実は誰が深くて、誰が浅いのか、などという問題は、

評価している側が、勝手に「あいつは深い・浅い」と言っているだけで、本当は深いのか浅いのかという客観性のある証明は誰にもできません。

誰かが誰かの本質論に対して「あれは本物だ」「あいつは浅い」とか、感じたままに勝手に主張しているに過ぎないのです。

ここがややこしくて面倒くさいのです。

「本質」という言葉に限らず、「根幹」とか「核心」とか「軸」とか「コンセプト」とか、あるいは「思想」とか「理念」とか「原理原則」とか、

そういう物事の根本的な考え方や、人の〇〇観に纏わる言葉というのは、そもそもが形のなくて人の脳の中にあるので、それそのものに「形」はありません。

ゆえに「本質」=「目に見えないもの」は、「現象」=「目に見えるもの」に置き換えないと人には分からないし、

ゆえに、「本質」と「現象」は常に一対であるのが前提というのが私の考え方です。

そう煎じ詰めていくと、私が「あぁ、これはこの人の言葉であり、この人だからこそ言える本質論なんだな。」と思えるのは、

本人が実際に体験や経験を通してやってきたからこそ「大切な根幹部分としてここに気がついた。」というリアルをもって伝えられる「本質論」は、本物に感じるということになります。

時に、人の使う「本質論」は、単なる言葉という記号であり、上っ面で、説得力ゼロで、何も伝わらないと思うことはあったりします。

簡単に纏めると、

「やってもいない奴の言葉なんて伝わらないよ。」

ということでしょうか。

(じゃあ、最初から簡単に纏めとけよ(苦笑)。)

それでも、「言えるか言えないか」という側面だけ言えば、「本質論」というのは誰でも彼でも言えてしまうわけです。

繰り返しになりますが、「分かっていても分かっていなくても」言えてしまうし、書けてしまうのですね。

だから恐い。

本人が「分かって」いても、それを評価する他人が見たら「分かっていない」となることは当然あって、

それにより、人の心が勝手に離れていくことも十分あり得る。

ところが、なぜ離れていくのかが言った本人は分からない。

いつまで経っても分からない。

そういうことが、あちこちで起こる。

主張が自由である分、主張できる場面が多くなった分、どんどんあちこちで起こる。

ここが恐いのです。

「本質」は見えない。

しかし、「本質」という言葉はこうして誰でも使える。

この訳の分からないパラドックスとも言える難問にいかに決着をつけれるかといえば、今の私が答えられるのは、

「実際にやってきたこと、リアルな体験・経験から導き出した自分なりの考え・主張」

となり、それを評価するのは、自分ではなく他人ということになります。

自分の「本質論」が正しいか間違っているかは他人に委ねるしかないのです。

ならば、私はウソをつきたくない。

ただただ自分が体験・経験してきたリアルな事実と、そこから感じたことを伝えるだけです。

そして、人にもそれを求める傾向があります。

私が講演等の冒頭で、

「私は教えることなどできないし、教える立場でもない。ただ実際にやってきたことと、そこから本当に感じたことをただお伝えするだけです。」

あるいは、

「実際にやってきた範囲でしかご依頼はお受けできないです。」

「あなたの独自の価値のヒントは過去の経験にある。」

と言うのは、ここまで書いてきた意図があるからだし、これからも変わらないだろうと思っています。

やってもいないことが、分かるワケがないでしょう・・・・・・・・。

私はそういう考え方の持ち主です・・・・・・・・。

やったことしか分からないんだよ・・・・・・・。
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