「どこまで行くか?」と「どこで止まるか?」は同義
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① まるで過去起こったかのような、明確で克明で詳細な未来の映像(ビジョン)が描けて、
② それを具体的に、数字とか日数とかの数値化をして、目標設定して、
③ 月単位とか、一週間とか、一日当たりの行動に落としこんで、動いていると、
当初の計画よりはやく理想の状態や目標が達成されたりします。
ありきたりのことを書いてはいますが、ありきたりと言われているだけの理由はあって、
この①②③の全部は、私のような凡人が、豊かで幸せな人生をつくる為には不可欠だと、経験上、私は思っていて、
この「ありきたり」に納得しています。
あとは、やるかやらんかだけの話になります。
私個人のこれまでのビジネス経験においては、今までの行ったり来たりしながらの経験則を振り返ってみると、
達成スピードをトータルで見ると、圧倒的に①→②→③の順番で進んだ方が速いです。
でも、① ② ③ それぞれ一つ一つを「書く」という所用時間の速さは、③→②→①という逆の順番だったりします。
何も考えず動いた方が動きとしては速いし、
とりあえず今日の行動スケジュールを立てて書く方が、それがどこに向かっているのかいちいち考えるより速いし、
数値目標を達成したら、どんな状態が自分に待っているのか考えるよりも、とりあえず売上目標や期日などを書く方が速いです。
要するに、いちいち「何故?」に対する答えを自分で考えるのが面倒なのです。
少なくとも、私は面倒です。
どの順番がいいのかは、人によって変わります。
すごく端的に言うなら、今、お金の余裕がどれくらいあるか?によります。
来月生活するお金がない人に、一年をかけてビジョンをつくりに行くのは現実的な解決ではなく、敢えて③から入るしかありません。
つべこべ考えずに、自分を機械にしたと思い込んで、とにかく顧客接点を上げる行動スピードを上げることです。
そんなことやっていると、何でこんなことまでせにゃいかんのか?こんなことまでして一体何の為にやってるのか?となってくることがあって、そうなったら、何とか空いた時間で①を考えればいいのです。
①のビジョンは、「ある」から「ある」のではなくて、考えざるを得ないから「ある」ようにするということです。
逆にある程度のお金の余裕があっても、思うような成果スピードを上げられないなら、
①から入る方が、②の得たい目標数値に関しては、10年が5年に縮まる可能性は十分にあります。
中小零細企業は、両方欲しい場合がほとんどなので、仕事時間を増やしてトップ自らも①から入って、少々疲れていようが、プライベートの時間は③をやるという一定期間が必要です。
私が少ないながらも成果を上げた時は、振り返れば、このペースを余儀なくされた時だけでした。
やはり、③から入って、もうイヤになるほどやって、何のためにやっているのか分からなくなって、
考えざるを得ないほどに追い込まれて、もう自分で考えるしかないとなって、
後から①のビジョンだったのです。
そうこうしているうちに、そうか、③から入れば、目標達成は縮まるんじゃないか?と、やっと気がついて、
それなら時間もできたし、①から入ったらどうなるのか?を実験してみようと、適当ながらも、やってみたのが今だったりします。
結果はどうだったか?というと、達成スピードは速かったという実感を得ています。
時間にして、大体、半分くらいに縮みました。
ただ、ということは、皮肉なことに、終わるのも速かったので、
また創り直すという苦闘がはやくにやってきたということにもなるのですが(苦笑)。
現実の場面では、
「いついつまでに来期の計画を、それぞれの部門ごとに出せ。」
みたいな感じで、次の期の直前くらいに指示が降りてくるので、
期日も限られているので、ついついとりあえず数値だけ合わせて出す、
みたいなのがほとんどだと思うし、そんなもんだと思うし、それでいいならそれでいいのです。
現実には時間は限られていますから。
でも、それじゃあ上手く行かなくて、上手く行かないことがなんだかよくないから、
何とか上手く行くようにならないだろうか?と思って、誰かに相談したり、教えてもらおうとするわけです。
恐らくは、他人から見た、私の「売り」は、「廃業から10年で株式上場」という実績に集約されていると思っています。
そういう実績を持っている人は、成果を上げる為の、考え方や方法論や人との関わり方など、何かの「答え」を持っているのではないか?という、他人からの予想は多かれ少なかれあるのだと思います。
でも、それは違います。
私は何も持っていません。
ただ、上記の①②③を質問して、不明確な項目を明確にしていく為にどうするか?を一緒に考えていくだけです。
ですから答えは私が持っているわけではありません。
せいぜい、不整合があれば調整したり、選択肢を増やしたり、可能性が広がるような具体案を出す程度です。
だとしても、結局最後は本人が決めたいのだから、答えは本人しか分からないのです。
よって、今以上、自分のことを自分で考えたくない人は去って行きます。
「答え」だけ欲しかった人は、「答えをもらい」にきたのに、「答えを考えさせられる」わけだから、たまったものではないでしょう(苦笑)。
私にとって理解不能なのは、自分が幸せになりたいのに、自分をちゃんと知らずして、どうやって自分の幸せが分かるのか?ということになるんですけどね(笑)。
私は、私の幸せの状態や映像については、私に聞けば分かるかも知れませんが、
他人の幸せの状態や映像が何であるか?は私には分かりません。
そういうもんなんじゃないでしょうか?
というようなことを考えながら、来年あたりからのことを考えては、四苦八苦しているのですが、
考えているうちに、新たな私なりの仮説が出てきています。
ビジョンとか目標というものが明確になると、それを予想よりも速く実現してしまうわけで、
それはそれで幸せで嬉しいことなんだろうけど、
達成すると同時に、次のビジョンを創り出したり、そこに向かう面倒くささが発生して、それはそれで、私は苦しいわけで、
幸せなのか不幸なのか、どっちなんかい?と(笑)
嬉しいのか、苦しいのか、どっちなんかい?と(笑)
そうなると、これまでビジョンや目標を創ることが当たり前だと思っていたけど、
そもそもビジョンや目標というのは、
「どこまで行くのが幸せで豊かなのか?」
ではなく、
「どこでやめるのが幸せで豊かなのか?」
なのではないか?とも言えてるわけで(笑)、
だって、行ったら行ったで、次の面倒くささが産まれるのだから(苦笑)。
海にある突堤って、それ以上は行けないから、先端まで行ったら、それ以上は望まないわけで、
それ以上は考えないし、望まないわけです。
先端まで行ったら、それで、もう良しとなって、それ以上は行こうとはしない。
もし、ずっとずっと続いてて、見果てぬとこまで伸びていたら、そもそも行こうとしてたんかな?と思うと、
私は、恐らく、ここまでも来てないんだろうな、と、
無邪気に突堤の先まで歩いている時に思ったんですね(笑)。
先っちょのないような、際限なき欲求って、結局そうなんだろうなと。
だって、不幸な人って、何がどうなっても不幸だし、
満足できない人って、何がどうなっても不満に溢れてて、
際限なく求め続けるってのは、際限がないのだから、どこまで行っても、何も得られないじゃんね。
得たいものに手が届かないのではなく、
得たいものがそもそもないから得られない、っていうんかな?
いるじゃん、時々、そういう面倒くさい人(笑)。
次へ、また次へ、さらに、また次へ、っていうのは、
よく言えば、成長意欲や向上心が高いとも言えるし、
悪く言えば、人間の煩悩とか欲望とかは際限がないとも言えるわけで、
その境目というのは、それこそ自分で決めるしかないわけで、
まぁ、そんなことは、どっちでもいいにせよ(苦笑)、
私はまだ、残念ながら、止まるわけにはいかない様々な現実がある以上、「ねばならぬ」状況でもあるわけで、
帳尻がちょうど合いそうなところで、適当に今の決着が付けれるとこを見つけれるように、
これからやってくる年末の時期を堪能してみたいと思っているところです。