考えてみたところで、それは分かるのか?(苦笑)
まぁ、そもそも、言ってもいいし、言わなくてもいい言葉、
あるいは、書いてもいいし、書かなくてもいい文章、
あるいは、出してもいいし、出さなくててもいい画像を、
こうして、毎日のようにブログにアップしたり、SNSに投稿してるわけで、
そのほとんどは、別にやってもやらなくてもどっちでもいいといえばどっちでもいいわけです。
にも関わらず、今日も今日とてこうしてわざわざやってるわけで、
そういう日々が続いていると、書いていることそのものの内容よりも、
何故それを書こうとしたのか?何故それを書かざるを得なかったのか?という、内なる理由や、心の声の方が気になるといえば気になるわけで、
人のブログやSNSの発信もそういう視点で見てしまうわけで、
それが好きだったりします(笑)。
公に出す情報である以上は、どんなに見ている人が少ないだろうと思ってはいても、
多かれ少なかれ、人に見られることを意識はするわけで、
イコール、自分は他人からどう見られたいか?自分をどう見せたいか?という心理が働いていると思うのです。
できれば心の内を素直にストレートに出せればいいのかも知れませんが、
かといって、ご丁寧に、読んだ人が気分を害したり、嫌な思いをするようなことを、
ホントはどんなに嫌な気持ちでいたとしても、わざわざ書く人はいないだろうし、
ナーバスで、落ち込んでいる自分や、悩んでいる自分がいたとして、それをさらけ出せばいいのかというと、
そんな奴は誰も関わりたくないことくらいは誰もが分かっているだから、これも書く人はいないだろうわけで、
かといって、毎日毎日、私は楽しくて、私は嬉しくて、私は前向きで、私はハッピー・幸せで、私は感動してます、なんてのを書き続けてればいいのか?となると、
喜怒哀楽の感情が交錯しながら生きているのが本来の人間らしさだろうと思うので、
それは何だか嘘くさいし、無理してんじゃねーか?となったりして、
果たして、それがその人のことをストレートに伝えてるのか?となると、違うと思えるわけですね。
ブログやSNSの発信でてきたその人のイメージと、リアルにお会いした時の印象がまるで違っていた、という話はよく聞くことではあるけれど、
それがダメかといえば、それは当然であり前提であると私は思っています。
そう考えると、ブログを自分のことを伝えることを主旨とするのは、そもそも無理があるのではないか?というジレンマに陥ります。
かといって、「やっぱり実際に会わないとね。」と言ったところで、
実際に会ってみれば分かるか?というと、実際に会えば、本当に自分のことが分かってもらえて、相手のことが分かるのか?といえば、
私にはそんな自信はありません(笑)。
私のことを相手に分かってもらえた、あるいは、相手のことを私は分かった、と本当に確信が持てる状態が果たしてあるのか?というと、
そんなことは私には分からないというのが本音です(笑)。
そう考えると、そもそも、自分を分かってもらおう、相手を分かろう、とすること自体が不毛に思えてきて、
せいぜい、分かってもらえるよう努力しよう、分かるように努力だけはしよう、と不毛を承知でそういう姿勢でいることくらいしかできないのだろうな、と思うわけで、
もっというなら、そんなこと考えなくて、ただその時の気分や感情に流されて、
言いたいことを言って、書きたいことだけ書いて、そんで、それに何となく共感した人とだけ関わりが持てればいいや、と開き直って、
要するに、最初から何も考えずにやってりゃいいじゃんね、というとこに落ち着くのが、いちいち面倒くさくなくていいや、となったりします(笑)。
こういうことを考えていると、「『考える』ことを『考えない』。」ことが、ほとんどのことに当てはまるような気がして、
どうせ考えても分からないのだから、だったら、最初から何も考えない方が、生き方としては面倒じゃないから、
あとは、「どうせ考えてもしかたないんだから、考えない」のか、
「どうせ考えてもしかたないかもしれないけど、考えてみる」のか、
自分はどっちでいたいのか?というだけのことなんだな、と今のところ自分では結論づけています。
ということを、大して考えることなく、早朝の名古屋駅太閤口でアホポーズで、写真を撮ってもらって、ご満悦でいる自分を見ていて、
どうして自分はアホ丸出しでこんなこんなことをやるのか?を、考えると、悲しくなって、考えざるを得なくなって、
一応は考えてはみたけど、案の定、分からないという結論に達したのでした(苦笑)。