方法が分かっていても、できない私の最後の探求と悶絶(苦笑)
成果を出すには、大きく、
①方法論
②マインド
の2つがあって、
人が初動段階で望むのは、ほとんどが「①の方法論」からなんだろうけど、
どんなに方法論を知ったところで、結局は、「②のマインド面」が障壁となって、
やらないことが多い。
かくいう私も、上手くいく為の方法論は、ゴマンと教えられてきたわけで、
ただ、いざ、やるか、やらないか、の時点で、
やれ、面倒くさい、だの、
それはやりたくない、だの、
それは私らしくない、だの、
やる気はあるんだけど時間がない、だの、
まぁ、適当な言い訳をして、正しい方法論をその通りにやった試しがない。
仮に、数少ない成果があったとしたら、それは、正しい方法論を強制的にやらされた時だけである(苦笑)。
だから、本当は、成果を上げたければ、自分のマインドなどというものは、一旦全部無視して、機械のように、ただひたすらにやりまくればいいのだとは思っています。
反面、
それだと、それこそ機械になってしまうし、本物の機械、昨今の人工知能相手には、確実に敵わないのだから、
残された道は何なんだろうか?ともなって、そこは残りの人生で仮説と実験を繰り返しながら、自らをモルモットとして探求しておきたい。
ただ、このマインド面というのは、いささか面倒だと私は思っています。
成果が欲しいなら、やればいいのに、やらない、という、難解な問題は、
その原因はどこまでいっても本人の人生の環境や経験が大きく関わってくる領域になるし、
そもそも、それが個性という人間らしさでもあるわけだし、
あるいは、お互いに使っている言語が、意味合いとして本当に共有されているかどうかも、
いかに分かり合えたと思っていても、最後の最後は疑わしいわけで、
外部からの刺激や情報、あるいは質問によって導き出される「気づき」みたいなものが、仮にあったとしても、
それで本当に解決されるなら、誰もがとっくに、やるべきことを淡々とやって、成果を導き出しています。
そもそも、誰かのマインドを良くしようとしている、当の本人のマインドがどの程度なのか?という客観的な理解が、私にできないわけで、
私だったら、どうでもいい相手から、私のマインドに対するご指導を頂いても、
大きなお世話程度にしか思えない、そんなクソマインドがそもそも備わってしまっているわけで(苦笑)、
どこまでいっても、どんなにマインド面をご指導頂いても、
相手によっては、まるで変わらないという現実がある(苦笑)。
だから、逆に、私は、あぁこの人こういうマインドだからダメなんだろうな、と思ったとしても、
私が言ったところで、クソの役にも立たないんだろうな?と思って、余程のことがない限り、こっちからは言わないでいたりします(苦笑)。
あるいは、仮に、「私は変わったの〜」と言っている人がいたとして、
その「変わった」という自覚は、
どこまでいっても、その人の自覚の領域であるが故、
本当のところは、何がどう変わったのか、全く分からない、という問題があって、
年間100万回くらい、私は変わった、という人もいたりして(笑)、
そうなると、もう何がなんだか、私にはよく理解できません(苦笑)。
変わった自覚と、欲する成果が比例するかどうかは、全く別物、
と言うか、その人が欲する成果が何なのかの前提が分からなかったりする場合も多々あったりして、
とどのつまり、悶絶させられます(苦笑)。
挙句、40歳だ、50歳だ、60歳だ、という年齢になって、
いきなり簡単にマインドが変わるなんてのは、
その人の人生の経験と、そこから得た感情を、丸ごとひっくり返すなんてことになるわけで、
そもそも論として、果たしていいのか、悪いのか、考えものだとも思います。
過去、目の前で、涙を流して、何か大きな気づきを得たかのように感じる人もいましたが、
そんなものは、せいぜい3日程度から長くて3ヶ月くらいで、
ケロリと元に戻ってしまっていた、なんて事例はゴマンとあって、
そんな経験を繰り返すと、とてもとても他人様の尊い人生から得たマインドなんてものに、
求められるならまだしも、頼まれてもいないのに、私ごときが、とやかく、つべこべは言いたくなし、
また、逆に、言われたくもありません(苦笑)。
人は、
「労せずして成果は欲しい」
と思うこそはすれ、
「何も、そこまでしてしてまで欲しい成果などない」
というのが同居しているような気がしてなりません。
私はその代表のなんじゃないか?と疑心を持ってますが(苦笑)。
だから、マインドなんてややこしいものに対して、時間をかける不効率を選ぶより、
それはそれとして、放っておいて、
じゃあ、どうするか?となると、私は、残る手は、一つだと思っています。
マインドはどうあれ、欲しい成果を既に手に入れている人のアウトプットを徹底的に観察して、できるだけ忠実に真似て、真似て、パクってしまうことです(笑)。
使う言葉とか、良く出る単語とか、所作はもちろんのこと、
一日の時間の使い方から、読む本、観ているテレビや、取っている情報や、受けている勉強から、遊びや趣味や寝る時間に至るまで、
何から何まで、できる範囲で、できることは、できるだけマネ切る。
これなら、当の本人のマインドはどうあれ、アウトプットがそうなるので、
マインドとは別に、成果が出るアウトプットをしている人になって、
そういう現象が積み重なれば、社会的な客観性からすれば成果が出るという論法になります(笑)。
「欲しい何かを既に手に入れている人=憧れの人」、
とでもいいましょうか、
そういう対象の人がいたら、まだ、やりようは残されているような気がします。
という小さな可能性を信じて、私は私で、成果を出すのに正しいアウトプットをしているつもりなのですが、
少し前の、人前に立った時の、自分のアウトプット像を改めて見てみると、
それが誰の真似をしてパクっていたのかを、そもそも忘れてしまっていることに気づいてしまったりして(笑)、
悶絶にも程があるだろ、と自らに呆れてしまって、
この探求は、まだまだ続けざるを得ないと思っています(苦笑)。