「カッコいい」は「カッコ悪い」ことに気づく残酷な現実(苦笑)
先日のディスカッションの模様を写真に撮ってくれてた人が、
数枚の写真を送ってくれました。
どれどれ、カッコ良く喋ってる姿が出てくるじゃないか?と、期待して見てみたら、
なんだ、これ、我ながら、なんか冴えない年食ったオッさんじゃねーか(笑)。
必死になって何かやってる時というのは、余裕がなく、
なかなか自分を取り繕えません(苦笑)。
と言うか、いつもはこんな風に、意図して顔をつくって写真を撮っているわけで(笑)、
言ってみれば、これは日常的ではなく、取り繕っている自分。
素の自分ではなく、嘘の自分とも言えるわけです。
そもそも、自分で自分を見る時というのは、
鏡で自分で自分を見たり、
写真や画像で、意図して撮られた自分を見ているわけで、
何も意図していない間抜け顔の日常の自分を、自分では見れていない方が圧倒的に多く、
日常的に他人から見られている、いわば通常の自分の姿を、自分では知らないと言えます。
と言うことは、こういう感じで、俺はいつも人前で恥ずかしげもなく、調子にのって、喋っているのか?と、
こうやって強引に客観視させられる時に、やっとショックを受けるのです(笑)。
実際、うわ、俺ってこんなんか?と思って人に見せると、
えぇ、いつもの普通にツヴォイさん通りですよ、
となったりする(苦笑)。
ということはだ、
いつも見ている自分は、せいぜい自分の中での最高の自分で、
社会で他人から見る本当の自分は、自分では見たくもない残酷でおぞましい自分、
ということになります(苦笑)。
意図している自分は本当の自分ではなくて、
意図していない時が本当の自分。
ということは、
カッコよく見られたいということは、
実はカッコよくない自分に気づいてもいないのは自分だけで、
本当は見たくもない自分が本当の自分という現実があるということになります(苦笑)。
「カッコよくいたい」=「カッコ悪い」
ということなんですね(笑)。
ただ、そういうことに気づいたところで、どうしようもないわけで(苦笑)、
いい加減、本当の自分と向き合う勇気を持って生きろよ、
と自分に言い聞かせる客観視と内省自観のひと時です(苦笑)。