一年経って自分に言い聞かせる命の使い方
気がつきゃ、胃癌の手術してから1年が経とうとしていて、
術後一年後の、血液検査とCTスキャン検査をしてきました。
血液も癌再発リスクについても全く問題なしで、お陰様で順調な経緯です。
造影剤が体内に入っていく時の、あのジワーっと全身が暑くなる独特の感覚にも慣れてきました(苦笑)。
この一年で、「人間は必ず死ぬ」という当たり前の現実と、
この一年のうちの出来事や、ご縁を頂いている方達の間に巻き起こる感情一つ一つがとても尊く思えるようになり、
故に、
「残して頂けた命をどう使うのか?」という、
まぁ、当たり前のことと言えば当たり前のことを、
一年前よりもリアルに認識したり考えるようになりました。
私は、怒っていても死ぬのだし、笑っていても死ぬのだし、
止まっていても死ぬのだし、前に進んでも死ぬのだし、
誰かに役立っても死ぬのだし、一人の快楽にまみれても死ぬのだし、
どう足掻いても死ぬのだから、
どうせ死ぬなら、どう生きたいのか?という価値観が、
死生観というのだろうなと思っています。
それは、一人一人違うのだろうし、違っていていいと思うわけで、
そこが明確になった人に対しては、誰も介入もできないのだろうし、
私は、他人のそれにとやかく言うつもりもなく、
単に、共感するか、しないか、というだけのことだと思っているので、
そういう意味で、誰もが、勝手に好きに生きて死んでいけばそれでいい、
という、その人なりの人生を全うすれば、それでいいと思っています。
個人的には、できればより多くの人に役立ったり、より良い影響側になって死ねれば嬉しいわけですが、
それは、
「貢献欲だけが強い無能が撒き散らす迷惑」
「自分の話だけ聞いて欲しけど、それは誰も望んでもい故に他人の命を奪う迷惑」
という、最もなりたくない残酷なリスクも伴うわけで、
そうなると、
「人に役立つ能力を経済活動の中でいかに高めていくのか?」
ということに、いかに真摯にストイックに向かっていけるか?
ということに、理論上では落ち着くわけですが、
ところが、生きていることのほとんど全てを面倒くさいと感じてしまう、
あるいは、自分さえ良ければそれでいい、という、
そもそものクソ以下の自分の性分は、いかんともしがたく、
その双方向からの闘いは生きている限り続くのかとは予測していますが、
せめて死ぬ時に、
やるだけやったけど、やっぱりクソはクソだった、
と言える程度までは、頂けた命を使いたい、くらいまでは思っています。
ってな、自分だけが分かっておけば良くて、
他人様にとってはどうでもいいことを、こうして書かんでも、
自分だけが粛々と向かえばいいだけのことなのですが、
こうして書き出すことで、この一年に感謝の気持ちを抱き、自分に言い聞かせながら、次に向かおうとしているのでしょう。
せめて、お読み頂いている方にはお役に立てるよう努力することを誓います。