「承認」と「無関心」の境目はどこにあるのか?
世の中の情報を見ていると、
例えば、芸能人の不倫だとか、覚醒剤を使用してたとか、政治家の発言が不適切だとか、
世の中の誰がおかしい、何がおかしいとか、
人はどうあるべきだ、こうすべきだ、と
聞かれてもいないのに、声高らかにわめく人の声という、
そういう情報も入ってくるわけで、
まぁ、情報は情報として受け取ったとして、フーン、そうなんだ、程度にしか思わないわけで、
そういうことに、とやかく反応したところで、
それが、自分の人生に何が関係するのかよく分からんことに、何でいちいち反応してんだろうな、とか、
いちいちギャアスカ言ったところで、まだ何者でもない程度の人が言ったところで何の意味もねぇだろ、
とも思うわけで、だから、いちいち反応すること自体がバカバカしいと思うから、
そこに人生時間を費やすことに意味はねーわな、と思うわけなんだけど、
じゃあ、反面、自分のやっていることそのものに、大きな意味や価値はあるのか?というと、
これまた、そんなもんがあるのか?ないのか?なんてのは、どこまで行っても、
分からないわけで、
そもそも人間の創り出していることのほとんどは、
「ただ生きる」ということからすれば、ほとんど意味なんてねーだろ(笑)と思えるような無駄を作り出しているようなことばかりだったりして(笑)、
例えば、クリスマスって何なんだよ?クリスマスツリーって何なんだよ?となるわけなんだけど、
そんなもんなくても、別に生きるだけなら、生きていけるわけで(笑)、
でも、街のクリスマスの風景を観ると、毎年性懲りも無くウキウキする自分が確実にいたりするわけで(笑)、
そう考えると、何かに反応して、何かに反応しない、と主義主張を持っているかのように思える自分という存在は、
そもそも果たして、生きている意味があるのか?の問われれば、
実は、最も意味のない存在のように思えるわけで(笑)、
だから、何を見て、何を感じて、何を言っていたとしても、
それはそれで、ちゃんと受け止めてあげれるだけの器の大きな人間になりたいと思うわけです(笑)。
ということは、何でもかんでも、フーン、そう思うんだ、となるわけで、
そこに、いかに共感しているかのような対応を、いちいちするかしないかだけで、
「承認」と「無関心」は紙一重だなと思う(笑)。