「無能に関わらず貢献欲は高い」のだから

企業や社会の、「こと生産性」において、

「無能に関わらず、貢献欲が高い人」

がいることが一番面倒です。

 

人は、ともかく、とやかく、やれ、

「人というものはね、・・・・」

「人間とはね、・・・・」

「社会というものはね、・・・・」

「人生とはね、・・・・・」

「経営とはね、・・・・・」

「世の中はね、・・・・・・」

というような大論じみた、自論極まりないことを、他人に言いたがります。

共感してもらいたがります。

 

あるいは、

「僕はこんなに頑張ったんだよ。」

「私はこんなにスゴイことやったんだよ。」

「ねぇねぇ、見て見て、知ってる?知ってる?あのね・・・・、」

「あのね、私は生きているにふさわしい、価値のある人なんだよ。」

と、自分のことを誰かに承認してもらいたがったり、是認して欲しいと、

何しろそのことで頭がいっぱいです。

 

人としての、「大脳新皮質」に関わる本能だけに、どうしようもないと言えばどうしようもなく、

それに加えて、自分の少々の生活や、少々の社会経験や、ゴマンといる程度の成果程度を出していく過程で、

それなりに、何か大切なことに気づいたことや、心が感動したことや、

あるいは、喜怒哀楽の感情が芽生えるものだから、

それらもまた、他人に共感して欲しいという本能を加速させます。

 

時代のスピードは速くなる一方という前提は、この本能たる欲求に、時に残酷な現実を突き付けます。

 

例えば・・・・・、

昨日まで、ある一定の生産性に対する能力が高く実績を上げた人がいます。

誰から見ても目に見える状態は、それ自体に貢献欲は満たされます。

さらには、実績があるが故に、表彰されたり、人前でスピーチしたり講演したり、

他の実績を上げたい人から、聞かれたり、依頼されたり、頼まれたりして、

要するに、他人からチヤホヤされたり、一人だけスポットライトを浴びる出来事に、

貢献欲はさらに満たされていきます。

そうやって覚えた快感は、脳に刻まれます。

 

ところが、昨日まで環境に対して有能だった価値は、スピードが速い故に変わる今日の環境に対して、有能かとなると、それは分かりません。

直近の事例で言うなら、コロナ騒動でしょう。

昨日までの有能は、今日一気に無能になります。

 

これが、最たる

「無能に関わらず、貢献欲が高い人」

の実態事例です。

 

人としての価値や尊厳は別として、こと生産性に関しては、それこそが圧倒的な不効率を生む権化となります。

とても辛く残酷な事実ではあるけど、でも事実は事実です。

時代のスピードが速くなることや、情報が増え続けること、価値観の多様化といった市場環境は、

その残酷な現実を次々と生み出していきます。

一つの成果やお手柄は、瞬く間に、何の価値もないお荷物となり果ててしまうのです。

そういう領域に入ってしまう人の数がどんどん増えるわけで、それでいいならそうやって生きていくのも一つの選択肢でしょうが、

それが嫌なら、真正面から、時代に合わせた有能な人になるべく努力するしかありません。

 

過去の成果という経験があるならまだしも、ただ生きてきただけで、何の実績も努力もなしに、サボりにサボり続けてきたに関わらず、

しかし、ただただ社会において、必要以上に是認して欲しい人など、吐いて捨てるほどいることでしょう。

 

私など、その人類代表のようなものです(苦笑)。

そもそも「コンサルタント」などという者は、誰からも頼まれもしないのに、

「私は◯◯について分かっているのだから、私が◯◯について教えてあげますよ。」

と、自分から人様に何かを教えてあげるなどと、

ほとんどの他人からしてみれば迷惑甚しいことをイケシャシャアと自ら言っているような人です。

 

その根拠と言えば、せいぜい、

「個人的な主張」か、「過去の実績・お手柄」か、「経験値」か、「人を動機付けさせるに値する感動やパフォーマンス」か、「統計値」か、「読んだ本や受けたセミナーからパクった知識の絶対量の多さ」か、「宗教」か、あるいは「宇宙と繋がっている」とか、「私には見えないものが見える」とか、

そういった根拠たるバリエーションがあるだけで、煎じ詰めれば客観的で科学的な証明など誰にもできないようなことを伝えて、集客して、情報を伝えて、お金と交換しているようなものです。

 

要は、いかに

「その根拠に共感しそうな人に、いかにそう思わせるか?」

ということを、(それを意図しているか、本能や天然でやっているかの違いはあれど)、伝えて、集客して、時間当たりのお金を頂く、ということをやっているに過ぎません。

幾多の反論はあるかも知れませんが、私はそう思っています。

どこからどう考えても、「未来を当てることが分かる」などということには、そうとしか思えないのです。

 

逆に、そーだ、そーだ、と思う人はいるかと思いますが、

でも、「そーだそーだと思う人」のお仕事も、厳密に考えてみれば、コンサルタントに限らず、それはほとんど全ての職業にも当てはまるのではないか?と私は仮説を立てています。

「この服を買って下さい。さすれば、あなたはこんな風に幸せになります。」

「髪の毛を切って下さい。さすれば、あなたはこんな生活が手に入ります。」

「私が作ったケーキを買って下さい。そしたらあなたは・・・・。」

「私の店で日用品を買って下さい。なぜなら・・・・。」

「私の仕入れた花を買って下さい。だって・・・・・・。」

全ての職業は、もうすでにどこにでもあるような、同じようなモノか、あるいはもっと安くて、あるいは代替えも効くような商品やサービスを、

「自分が売っているのだから」、という理由だけで、

「買ってくれ、買ってくれたら、あなたは、買った直後から未来に渡って、幸せになれたり、豊かになれたり、便利になったり、素晴らしい人生がおくれるのですよ。」

ということを、何の正確で客観性と科学性もないようなことを、根拠もなくただ言っているのです。

 

そう言う個人的極まりない主張に対して、顧客と想定される他人の集団は、

「なんで、あんたにそんなこと言うだけの根拠があるんですか?」

「なんで、私が、あんたを、わざわざ選んで買わなきゃいかんのですか?」

と、市場たる赤の他人達は思い、そして時に、ごく稀に、口に出して、

心の奥底か、健在たる言葉のどちらかで問うているのです。

 

そういう問いに、いかに、嘘なく、でも魅力的に、本当に自分を信じられる自分が、伝えられるかだけではないでしょうか?

 

となると、中小零細個人企業のスモールビジネスになればなるほど、いかに、

「他人に気に入られる自分」

「他人から魅力的だと思ってもらえる自分」

になることでしか、具体的に実績を上げることはできない、

すなわち、それしか道はないと言うことになります。

自分のことを信じてくれたり、気に入ってくれたり、任意の客数から支持されるに耐えうる自分になる為には、どうしたらいいのか?

人とどう関わり、繋がり、人の話を聞き、自分を伝えたら、そうなれるのか?

 

そこに愚直に真摯にひたすらに進めばいいに関わらず、

私達は、途中で、他人にとってはどうでもいい講釈を垂れたがります。

やれ、

「私の人生観は、仕事観は、これこれこうです・・・・」

「私の方がスゴくて偉いはずなのに、苦労してきたのだから、・・・・」

「私だってこうしてやってきたんだから・・・・」

「もうこの歳になって、若い人達に大事なことを伝えていきたいようになってきた・・・・」

 

それを聞いて、他人は思います。

「大きなお世話だよ。」

「知らんがな。」

「聞いてねーよ。」

「私の時間を奪わないで下さい。」

「もういいから、何もせずにじっとしてて下さい。その方が私は幸せです。」

そう言われています。

 

言葉では言われなくても、誰も認めてくれない自分と言う存在は、何となく感じることくらいはできるから不思議です。

それは、現実の評価である売上金額だったり、誰かも何も聞かれなかったり、相手されなかったり、誘われなかったり、

様々な場面で感じ、そしてストレスや鬱憤を溜め込みます。

 

溜め込んだ結果、何らかの形で、その感情を表そうとします。

時に、他人を攻撃することによって、

時に、誰かに聞いて欲しいと依存することによって、

時に、役立とうとして、

時に、部下という生き物の命を使い、

時に、キャバクラでお金を使って覚醒させ・・・・、

様々な手を講じて、自分の貢献欲を満たし続けます。

ただし、現実は現実です。

虚像から目が覚めれば、残酷な現実は変わることなく、変わらないどころか、さらに人を遠ざけるさらなる現実に至り、

こうなるともうアリ地獄とも、底なし沼とも、ブラックホール状態とも、形容のし難い状況に陥り、もう抜け出すことができません。

 

「終わり」です。

「終了」です。

 

終了だけど、ただし、一旦ではあります。

だから、諦めなくて良いと、私は思っています。

 

本当の終わりかと言うと、私はそうは思いません。

ここがやっと現実の認識であり、ここからがやっとスタートなのではないかと思うわけです。

クソだったり、クソ以下の自分を嫌と言うほど認識したとして、

だから、諦めるか、それでもあがくくらいはあがいてみるかは、それは本人の意思次第です。

だから、そのままで嫌なら、あがけばいいのです。

それくらいの選択肢と意思決定くらいは自分でしてもいいでしょう。

 

そこからでしか、他人様に貢献できる程の能力や実績を培う努力に向かう意思決定などできないのです。

 

恐らくは、「能力と実績と貢献欲」は比例します。

何がどうという論理は私の中で解明されていませんが、恐らくは比例すると思います。

貢献できるかどうかは、他人に聞かれたり、依頼されたり、任意の望む人数に至るまで、

淡々と粛々と実績を積み上げるのが、結果的には最も効率的です。

 

私事で言うなら、家業廃業時と、株式上場時と、ほとんど言っていることは変わらないはずなのに、

株式上場へと向かう過程と、株式上場してからの依頼の数は圧倒的に増えました。

どれくらいかと言うと、少なくともこの7年間に渡り、生活に困ることはなく、子供2人を私立の大学に行かせて、それなりに楽しい毎日とウソなく言いながら生きれる程度には、仕事の依頼が途切れることなく増え続ける程度に増えています。

人は、崖っぷちから、いかに立ち直っていったのかの過程にこそ、自分が学ぶ興味を持つのだと思います。

ということは、クソ以下である今というのは、スタートとしては絶好のチャンスとも言えるわけです。

 

だから、貢献が欲しければ、先に実績なのです。

身の丈に合わない「実績なき貢献欲」は、他人の迷惑を生み出し、泥沼に陥っていきます。

「実績に基づく貢献」は、そのままさらにスパイラル上に加速しながら上昇していきます。

その違いは、文字通り雲泥の差となります。

そして、何が唯一のキーワードかと言えば、こと実績であり、

実績があると認識できる瞬間こそは、他人から聞かれることであり、依頼となります。

 

ただ、そんなことを言ったら、誰も何も言えなくなるということになります。

にも関わらず、情報発信はしていかねば、何も始まらないという現実もまたあります。

この二律背反とも言える状況に、一つの答えを出していくことこそが、

まだ実績のない私や私達が出すべき、本来の「情報発信」とは何なのか?が見えてくるような気がするのです。

 

実績も、実力も、何もない私が、それでも何かしら貢献したいという、正しく、

「無能に関わらず、貢献欲は高い」

人類代表のような私が、今考えているところです。

 

これからどの実績を持ってして、他人様の人生に貢献していくか、

昔の人が言う、「愚直に勤勉に謙虚に真摯に、ただひたすらに働きなさい。」というようなお言葉は、

もしかしたら合っているのかもしれませんね。

それが正しいかも知れない、実験たる仮説と検証は、まだまだ続けないと、分からないのだろうなと思っています。

 

私は私で努力します。 

一緒にやれる人は一緒にやりましょう。

 

違うという人は、あなたはあなたで勝手に頑張って下さい。

たくさんの人類がまだいるのだから、それでいいと私は思っています。

 

私は目標に対してかなり無能(苦笑)。
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