「知識」をアウトプットする度に自覚する「無知」な自分(苦笑)

「経営者にとって知識はどれくらい必要ですか?」

という質問はよく頂きます。

 

時に「経営者には知識は必要はない。」と言う方はいますが、

私が見受けるに二通りの方がいます。

A.「知識」そのものがないことを肯定化したいが為に「必要ない」というバカ

B.「知識」は十分に持っているが、「知識」そのものは実践経営における価値は大してないという知識人

 

私は「知識」はないですが、どこまで行っても「知識」は必要だと思っています。

 

「知識がない」ことを、読んで字のごとく「無知」と言います。

ここでは詳しく書くつもりはありませんが、無知は、時に、無知であるが故に罪とまで発展することはざらにあります。

 

私は「能力」というのは「知識×体験・経験」だと思っていますから、

「経営能力」というのは「経営の知識」×「行動・実践」の量に比例すると言っていると同じでしょう。

よって経営能力を上げて実績や成果を上げようとするなら、「知識」はどこまで行っても必須ということです。

 

では「知識」はいつ発揮されるのか?というと、それは、

「実践において必要とされた時のみ必要」

というのが私の見解です。

 

そういう意味で、実践経営において、「知識」そのものはまるで価値がないと言えます。

 

人が何かをする意欲はあるのに何から始めていいのか分からない時や、自分が何かを実践する場合において、何から始めたらいいのか分からない時に、はじめて必要とされ、

そこで「知識」の価値ははじめて生まれ、時に「圧倒的な価値」にまで昇華します。

「知識は知識そのものに価値はないが、人に必要とされた時に圧倒的な価値を生む」

という時論は、そういうことです。

 

時に、知っている「知識」をアウトプットすることで価値を生むと思っているのではないか?と思える人はいますが、

それはそれでいいかも知れませんが、かなり不利で不効率なことなのではないかと私は思っています。

ビジネスの「商品・サービス」の一つとして「知識」を捉えるなら余程でないと顧客創造は難しいと思うのです。

 

どういうことかと言うと、

私は、スティーブ・マックイーンや、1970~1980年代までのプロレス・アメリカ文化に纏わるレザージャケットやジーンズ等については、

恐らく一般の人よりも相当な「知識」があると自負してはいますが、そんなもんを「知りたい」「聞きたい」と意欲を持っている人は、そもそもそんなにいないでしょう。

「ふーん。そうなんだ。」

程度で済むならまだしも、そんなもんを一方的に聞かされ続けたら「時間の無駄」の迷惑以外何者でもないはずです。

 

あるいは、

私の売りというのは、せいぜい「廃業から上場」という履歴の一点のみです。

それはそれでスゴイと言って下さる方はいますが、私自身は自分事なだけに、大した価値ではない、と思っているというのが本音と言えば本音です。

でもその事実は事実なわけで、その経験に纏わる「知識」も「経験」したからこそ分かる何かがあることがあるのも確かでしょう。

しかし、廃業やら上場やら、

「だから何なんだ。」

という人にとっては、クソ程の価値もありません。

だから、ある人にとっては「ある」し、ない人にとっては「ない」という、

「価値」というのはそういうものなわけで、

そうなると「価値」に内包される、纏わる「知識」など、屁の虫ほどの価値もないというこになります。

 

さらには、

「プロレス入門」「野球入門」「まんが入門」といった本を読んで、「知識」は誰よりも十分でも、

それが、プロレスラーや、プロ野球選手や、プロの漫画家にご指導ご鞭撻ができると思うようなことはないと誰もが分かっているのに、

ことビジネスや経営や、人としての生き方のこととなると、誰もが一斉に、評論家やコンサルタントや、育成指導マスターになって、教える側に回りたくなってしまうという、そういう人に、

アホ丸出しで何とも無様で滑稽でカッコ悪さを感じてしまう価値観を持っている私がいます。

 

私が「知識」に対して、市場価値における高い価値はないと思えてしまうのは、そういうことからです。

「知識」は高いのに、思うように稼げない人はたくさんいます。

逆に、私より「経営知識」はないのに、私なんかよりビジネスの現場で圧倒的成果を出している人なんてたくさんいます。

そういう現実こそは、「知識」は必要なれど、「知識」があれば経営ができるかどうかは別問題だと、私は思わざるを得ません。

 

もし、「知識」を出したい人がいるなら、出した成果や実績に関わる事実は事実としてアウトプットし、

「どうしてそれができるのか?教えてほしい。」

と言われるまで、淡々と粛々と愚直に真摯に目標や欲しい実績へとただただ向かえばいいということでしょう。

聞かれるまで出さないことです。

いかに聞かれる側に回れるか?そこを真剣に考えて動いてみる。

私はその方がカッコ良くて美しい生き方であり、適切な「知識」の出し方だと思うのです。

 

「知識」を出したいなら、「知識」を出すことそのものをどうしたらいいのかではなく、

どうしたら「知識」を必要とされる側になるかに努力を向けた方が、結果として効率的です。

 

私は、人様に「知識」を出せるほど「知識」がある、などと、おこがましいことは少しも思ってはいませんが、

それでも、様々な経営やビジネスに纏わる、ご相談やご依頼にお応えする場面はあるわけで、

そういう時には図らずとも、私が「知識」をアウトプットする機会はあります。

 

かと言って、私がアウトプットできるのは、「知識」などという高尚な印象とはほど遠い、

画像にあるような、結果としてラクガキとなってしまうわけで(笑)、

よって、出せば出すほど、まともな「知識」がない「無知」な自分という自覚を叩きつけられるという結果に陥ります。

 

少しは「知識」があって人や社会に貢献ができるよう勉強せにゃいかんと思っているところです(苦笑)。

 

知識はいる。そして知識はいらない(笑)。
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