「何が正しいのか」が分からない時は「自分はどうありたいのか」を信じます
「正しさ」の定義にもよるけど、
どの情報が正しいのかも分からないし、
情報を信じたところで、今度はどの行動が正しいのかが分からないという時がある。
そもそも、情報そのものが、国や政府や医療機関や、会社やコミュニティが出したものであれ、
その意思決定をしているのは、最後はそこに帰属する最終意思決定者という個人の人間が出したものなわけだから、
人間である以上、完璧である証明ができない。
だとすると、全力で考えようと、直感で動こうと、
その時点で、
「自分はどうありたいか」
「どういう人でありたいか」
「どう生きて死にたいのか」
という人間観や人生観に基づいて、今の選択をするしかない。
最後はそこが問われるのだと、そう私は思っています。
法治国家である以上、法律で決まってしまえば、個人の◯◯観がどうあれ、則るのは前提であるけれど、
今回のコロナウィルスの影響というのは、どの選択をしても、
まるでコインの裏表のように、即座に真正面からリスクが生じるものだの実感しています。
端的に言うと、
「感染とめますか?経済止めますか?」
ということに集約されるのかと。
どっちを取っても、最後は、今までの私の人生における「普通」という定義を大きく変えることになるのではないか?と予想しています。
もちろん、一番いいのは、どっちも上手く進むことなのだろうけど、
今現在、その対策が明確にない情報しかない以上、
一つ一つの選択に対し、一回一回の選択を自分でしていくしかありません。
会社経営で言うなら、キャッシュフローの状況によっても判断は違ってくるわけで、
今は大丈夫でも、時間の経過によってそれも変わってくるので、
常に最善と思える状況判断することに変わりなく、問題はその期間が長くなるような予感です。
大枠の方針を固めるとしても、
片方だけの選択で、巻き起こる全ての出来事に対して頑なにになるのではなく、
一つ一つ、一回一回に対して、一つ一つの選択が出てくるだろうということです。
それは、例えば、
「自分は飲食店や商業施設には行きたくないけど、自分の店には客は来てもらわないと生きていけないから困る。」
といったような、一見「自分だけ良ければいい」と評されるようなことが起きたり、自問したりすることが起きることもあるでしょう。
しかしながら、私は人というのは、元々が、意識的であれ、無意識であれ、
「自分だけが良ければいい」
ということを前提とした生き物だと思っているので、
それは当たり前のことだと思っています。
自分の、あるいは他人のどの判断が、世の中で最も正しい選択かは、とても論じることができない自分がいます。
「あなたはどうするのですか?意志を言え。」
と問われれば、その時の状況に応じた私個人の自論で答えることはできますが、
「世の中全ての人はどうすべきか?」
という問いにはとても答えられない。
だから、その時の自分のことは自分で決めて、決めたことに対するリスクを飲むことも同時に決めて、
進んでみるしかない。
どの選択をするか、ということは、イコール、どのリスクを取るかということと同義です。
最後は、
「どう生きたいのか?」
が問われることになるのだと思っています。
仮に、それが自分の価値観と違っていたとしても、それぞれの事情と状況によるという前提がある以上、
それを一方的にとやかく言えたものではありません。
よって、
「私はこうすべきだと考える」
「だから皆さんもこうしましょう」
と発信したり、促すようなことは一個人としてはできないし、すべきではないと思っています。
自分で決めたことを粛々と全力で進めるだけ。
残るのはそれだけのような気がしているし、
一人一人にそれが問われている時期なのだろうなと思います。
そして、それすらも、私個人としての考え方であるというのが前提となるということでしょうね。
明日のことは明日の状況にならないと分からないけど、
とりあえずは、今の今、どうすべきかは一回一回、自分のリスクの範囲で選択をしていきたいと考えています。
よく言えば、
「自分の軸がある」
とも言えるし、
悪く言えば、
「無責任」
ということなのでしょうがね。
ともあれ、
「何が正しいのか?」
が分からない時は、
「自分はどうありたいのか?」
を信じるしかありません。
仮にそれが自分と違っている人がいたとしても、
その選択を心から応援することが、私のような人間は、最低限のマナーだと思っています。
というわけで、今の誰の選択も、それが今の自分の精一杯で、良かれと思って意思決定したのなら、
その選択を心から応援しています。