「意識」と「無意識」の狭間で自分という存在を知る(苦笑)
ほら、よく、何やってても、かにやってても、
所作や仕草がピタっと決まってカッコいい人っているじゃないですか?
「絵」になる人っていうんですか?
写真撮ってもらう時とか、自撮りする時っていうのは、
いいカッコしたいとか、よく見られたい、笑顔を作ろうとするとか、それはまぁ、誰もがやってるとして、
あるいは、ボケかましているところや、アホ丸出しといったような、自分を落として出そうとする場合であっても、
それも、そう見せたいと意図してたり、そう意識したりしていることに変わりはないわけで、
要するに、それら全てひっくるめて
「自分をどう見せたいか?どう見られたいか?」
という状態であるわけで、我々は多かれ少なかれそうやって生きていたり、発信しているということになりますね。
そういう「自分をどう見せたいか」というのを意識してないような時・・・、
ごく自然体の時や、気を使っていない時、
もっと言うと、気を抜いている時や、気を緩めまくってる時とか、くそボッケーとしてる時とか、
そういう時ですら、「絵」になる人って時々いません?
まぁ、滅多にいないけど(笑)。
そういう人にスゲェ憧れるんだよなぁ(笑)。
いかにも「ちょっとハンバーガー食べてるだけです。」みたいにしようとしても、それは、そう見せたいと完璧に意図してるわけで(苦笑)、
もっとも、そうした場合ですら、全然「絵」になってないから救い用がないわけだけど(苦笑)、
そんなことより、
問題なのは、人様に見られまくっている、講演とかセミナーとかの人前で喋る時。
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一応、できる限り、可能な限り、自分を客観視したり、俯瞰したりと、「メタ認知」を意識して、
自分というものを自覚しておきたいとは思ってはいるものの、
講演やセミナーで喋る側になる時ってのは、そんなことできる余裕なんてのは、まるでないわけで(苦笑)、
まして、どうしても伝えたいという想いが強くなればなるほど、必死になってる状態なわけで、
そうなると、自分で自分を見るなんてことは、私にはとてもできるわけがないわけです。
だから、講演してる時の自分の姿を撮ってもらって、
(オレって、一体どれくらいカッコいいんだろう?)
と後になってニヤニヤして見ながら、その悲惨で残酷な実態を突きつけるにつけ、
立ち直れないくらいに愕然とする(苦笑)ことは、実はよくあります(笑)。
こーゆー時とか(笑)。
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よくもまぁ、こんな不細工で醜い形態に関わらず、調子ブっこいて人前に出てるなぁ、オレ・・・・、みたいな(苦笑)。
いや、まぁ、いつも一緒にいる人とかは、「いや、別に、いつものツヴォイさんでしょ。」かもしれないけど(笑)、
当の本人にとっては、全く違ってたりするわけです(苦笑)。
まぁ、日頃から、どんだけカッコつけて生きてるんだよ、あるいは、どんだけカッコいい幻想に囚われて勘違いしてんだよ、ってことなんだと思うんですけどね(苦笑)。
あげく、
「スーツ姿だって、実は粋に似合っちゃうんだぜ。」
とばかりに、試着してる時に、自分を作って撮ってもらって、さぞカッコ良く写ってるんじゃないか?と思ってても、
後から見たら、実は思ったよりも全然不細工だったりして(苦笑)、
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ダメじゃん、と思う程度ならまだしも、
完全に気を抜いてる瞬間を、切り取られた場面を撮られて、見せつけられる時なんて、
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ホントは、こっちの方が、「他人から見た時の本当の自分」なんじゃねーのか?と思えてくるわけで、
だとしたら、死んでもいいんじゃないか?とすら思える時もあります(苦笑)。
でも、それは、よくよく考えてみれば、自分を鏡で見ている時や、スマホで自撮りしている時の方が、
24時間の中で、圧倒的に時間は少ないのだから、それが「本当の自分の姿」、すなわち、
それが「いつも他人から見られている本当の自分の姿」という仮説は、仮説ではなくて、合っているような気がするわけです(笑)。
もう、こんな現実を突きつけられた時なんてのは、
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「なんだ、この、ショボくれた、ただの変なオッサン・・・・」
以上でも以下でもなく、ただそこにいる自分の現実となるわけで(笑)、
街を歩いていて、時々、すれ違いざまに目で追われたり、ジロジロ見られるようなことがあると、
「もしかしたら、オレってそんなにカッコいいんかな?」
と思っていたものの(笑)、実際は
「あまりにもショボくれているけど、革ジャンとか着て、アホ面こいてスマホいじってるオジさん」
なだけだったのではないか?と自覚せざるを得ない、となってくるわけであります(苦笑)。
いや、マジで(苦笑)。ガチで(苦笑)。
いくら自分のリアルな日常を切り取って、ブログやSNSで自分というものを発信しようとしても、
それは、「意識」した状態極まりない非日常の瞬間を切り取っているわけだから、
言い方を変えるなら、「嘘」の自分となります。
すなわち、リアルな自分を出そうと意図した結果、まったく逆の自分、リアルではない自分が出てしまう、
というパラドックスに陥っているということになりますね(笑)。
そうなると、
①「意識」している時は、カッコつけてて、それなりに自分では納得いってるんだけど「嘘」で、
②「無意識」の時は、もう救い用がないくらい無様(苦笑)で滑稽なんだけど、「リアル」で「本当で本物の自分」
という論法が成立することになりますね(笑)。
これをひっくり返して、
『「嘘」の自分が「本物」』で、
『「本当」の自分が『嘘』」
という状態にするには、どうしたらいいか?となると、それはもう、
一人でいる時以外、誰か一人でも同じ空間の時間を共有する時には、
「意識」の時間をできるだけ長くするか、あるいは完璧に意識し切るしかないわけです(笑)。
かといって、そんなことができるのか?というと、
そもそも「意識」している時は「意識」しているのだから問題ないのだけれど、
「無意識」というのは、「意識」が「無」ということなのだから、
「無」ということは「無」なのだから、「無」を「意識化」などできないから、
「無意識」を「意識化」などできないということになります(笑)。
だから、24時間、常に誰かに、自分を撮り続けてもらって、一人になった時にそれを見続けて、完璧になるまで訓練するか(笑)、
常に鏡を目の前に置いて、外出る時も鏡を前にして歩くとなして生きるくらいしか打つ手がなくないということになります(笑)。
でも、ちょっと待てよ・・・・、
そもそも私は、「人前で喋っている時の自分」を見ては、死にたくなっている「今」があるのだから、
それは、死にたくなる動機が増すだけになる、ってことになりかねないってことになるじゃんね(笑)。
やめた、そんな面倒くさくて、恐ろしいこと、やめた(笑)。
いっそ、人前になんか一切出ずに、引きこもって、一人で暮らしていけばいい(笑)。
無様でカッコ悪くて滑稽な自分を知りたくなければ、社会と一切関わらずに生きていけばいい(笑)。
そーしよー、そーしよー(笑)。
って、それも、現実的には耐え切れるわけないじゃんね(苦笑)。無論(笑)。
まぁ、それほどまでに、
「自分で自分を見る」「自分が何者であるかを知る」「自分で自分を自覚する」
ってのは、とても恐く、難しく、重要で、そして、それこそが誰もが持っている「人生のテーマ」なのかも知れませんね(笑)。
まぁ、いいや、私は、
「カッコつけたくて、自分ではカッコいいつもりでいるけど、他人から見たら本当はショボくて滑稽で不細工で、救い用のないオッサン」
ということで(笑)。
そう思っといた方が気楽だわな(笑)。
それを自覚して、人前に出て、他人様から一方的に評価されたことを、受け止めておけば、いいってことだわな(笑)。
そーしよ、これからも、そうしよ(笑)。
ってことは、こんだけ、つべこべ書いたところで、何も変わらないってことじゃねーか(笑)。
どーしよーもねーな(笑)。