「なんでも」とは、どこからどこまでのことを言うのか?

「何でも体験・経験してみないと分からない。だから、何でもやってみよう。」

というのはよく聞く言葉です。

まぁ、人それぞれそう思うことがあればそう思うわけで、

ということは誰でも言えるし、実際に、私でも誰でも口に出して言うわけです。

 

ただ、私が思うに、この「何でも体験・経験」というのには、大きく3つがあって、

① そもそもやりたかったことを体験・経験してみて良かったから、「何でも体験・経験してみよう」

例えば、「友達と遊園地に行きたくて実際に行ってみたら楽しかったし感動したから、やっぱり何でも体験・経験が大事!」

ということを言っているのか、

 

② できれば体験・経験などしたくもないことを、体験・経験せざるを得ないことになって、結果、新たな認識や価値観が生まれて、勉強になって、次の人生に活かせると自覚した、

例えば、「廃業・倒産なんてしたくてする奴なんていないだろうけど、そうならざるを得ない状況になって、でも、その経験があったから謙虚になって自分を見つめ直して、仕事観や人生観が変わって、その後の人生も変わったから、だから、何でも体験・経験してみよう!」

と言っているのか、

 

③  その両方ともひっくるめて「何でも体験・経験してみよう」

と言っているのか、

 

同じ言葉でも、いう人によって、それこそ、その人の固有の「体験・経験」によって違ってくると思うんですね。

 

私個人で言うなら、②のようなことが身に振りかぶって、やらざるを得ないことを体験・経験してみた後に、

それまでになかった自己の成長とか変化とか、そういうのを実感することが多いのだけど、

じゃあ、自ら好んで、好みもしないようなことに向かうか?と言うと、そもそも好んでなんていないから向かおうとしないわけだから、

できれば、そんなこと「体験・経験」などしたくないわけです。

 

例えば、好んで廃業に向かうか?と言えば、私は向かわないわけで、

でも、なぜ廃業した経験があるかというと、廃業せざるを得ない状況に追い込まれたからなわけで、

ただ、その延長線上に株式上場の経験をさせて頂けたとも言えるし、今があるわけで、

そういう様々なことをトータルして「何でも体験・経験」と言えば言えます。

 

だから、闇雲に「何でも体験・経験してみることが大事だから、やってみよう!」なんてことを、

自分は責任を持って言えるんか?と言うと、私はその自信はないというのが本音です。

 

この1ヶ月、私にとっては、そういうことを改めて考えさざるを得ない出来事があって、

色んな思いが交錯したし、謙虚に反省することもあったし、よくもまぁあんな偉そうなことを言えてたもんだなぁ、とこれまでが恥ずかしくもなったし、

でも、逆に、お陰で強烈に学んだと自覚できるし、新たな課題と、何より研究したい課題も興味も新たにできました。

 

決して自ら望んだわけではないけれど、リアルに体験・経験させて頂くことで、結果として一皮向けたと信じて、

できたら、人に役立てられるようになりながら進んでいきたいな、と思っているところです。

 

そういうことを考えていられること自体、私はきっと運がいいとのだと思うし、ついているのだろうし、恵まれているのでしょうね。

 

久しぶりにそういう感覚になりました。
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