自分が意味があると思うことに意味はあるのか?(苦笑)
このクソ寒いのに、何で私がお前の散歩に付き合ってやらにゃいかんのかね?
と言いたくなるような犬の朝の散歩でした(苦笑)。
よく、煮詰まった時とか、考え事を纏めたい時は、歩いたり、散歩したりすると良いとか聞きますが、
私の場合は、あまりの極寒を実感するだけで、特に良いことはありませんでした(笑)。
まぁ、人にはそれぞれ自分のペースがあるってことですね(笑)。
嬉しそうに歩いている犬が、
「あんた、こうやって、散歩に付き合わされてると、まるで意味がねーような顔するけど、
じゃあ、散歩してなかったら、よほど意味があることでもやってたって言うんかい?」
と言ったとしたら、何て言うんかなぁ?とちょっと思いました(笑)。
他人のやってることに、こいつこんなことやってて何か意味なんてあるんかなぁ?と思えることは多々あるけれど(笑)、
反面、自分のやってることにはご大層な意味があるのか?と思うと、
特に大して意味があることなんてやってねぇんだろうな、とも思えるわけで(苦笑)、
意味がなさそうなことに、意味があるのかないのか考えるということは、意味があるとも言えるし、
意味があると思い込んでいることに、意味がある客観的は証明ができるか?というと、どこまでいってもできないわけで、
意味がないことに意味があって、
意味があることは意味がないという、
般若心経みたいなことになるわけだから(笑)、
まぁ、自分のやってることをご大層に吹聴したり、言い分をのたまったりすることなく、
意味があるのか、ないのか、よく分からない曖昧な適当なところを、行ったり来たりしながら、
目の前のことをただただ一所懸命に、ただ生きていればそんでいいんだろうな、とも思えるわけで、
そう考えると、犬の散歩にも、もしかしたら、意味があるんかもしれんなと思うのでした(苦笑)。
まぁ、今日も適当に生きているということですね(笑)。