面倒なことでも諦めるまでは諦めるな

マネジメントやモチベーションアップ、あるいはリーダーシップといった、

ビジネスにおける「人の育成」に対して、私は苦手です。

苦手というか、好きではないというか、

やるだけやってきた結果、そういうことに関してまるで才能がないという自覚があります。

 

子供の頃から、学級委員とか生徒会長とか、

大人になってからも、プロジェクトリーダーとか、社長とか、◯◯長とか、勉強会のリーダーとか、

何故だか知らないけど、そういう場は与えられてきて、

好む好まざるに関わらず、そういう経験をたくさんさせて頂いてきて、

場数こそはたくさんあるものの、具体的な成果を出した自負はなく、

むしろ、苦しみと葛藤と強烈な挫折の自覚しかありません。

 

だから、その辺にいる「名ばかりリーダー」とか、

知識だけで「人に纏わることを専門にしたビジネスを謳っている人」よりは、もしかしたら得意かも知れません。

一般の人よりは、場数という経験を多くさせて頂いたわけだから、

まぁ「得意」かもしれませんが、要するに「好き」ではありません。

 

子供の頃から、多人数に対するリーダーみたいな立場をたくさんさせて頂いてきて、

(心情的には都合よく『やらされて』きて(苦笑)、)

色んな場面で相当に困って、それなりに勉強して、知識を得て、人に聞いては実践して、

やってはみるけど、うまく行かずに、

やったこのない奴からは批判されて、

やって欲しがる人からは後出しジャンケンのように、指導という名のお叱りを評論を受けて、

逆に、能力はないのに、人に影響を与えたがったり、求心力を持ちたがる面倒な奴はいて、

いるのはいいけど、自分はやりたいようにやりたいだけやって、

結局うまく行かずに、こじれて、組織やチームをグチャグチャのガチャガチャにしておいて、

どうにもならなくなったら、責任回避とばかりに上手いこと言って、こっちに振ってきて、とんでもない苦労と失敗事例と、その責任と評価だけは受けまくる、

なんていう、

そういうことを繰り返してきたわけだから、

恐らくは私の能力も上がったろうし、スキルも身についたろうし、ノウハウも持っているかと思ってはいますが、

「人」に纏わる件というのは、誰もが面倒くさいように、要するに私も面倒くささの極みに達したわけです。

 

ところが、見ていると、嬉々として経営者勉強会のリーダーとか、やっている人は確実にいて、

あるいは、社長とか部長とか、組織や社内での職位や立場、

あるいは自分の部署内のテーブルの位置に異常にこだわったりする人もいて、

そういう人の中には、確かに本物だと思える素晴らしい方はいらっしゃいますが、

私の一方的で勝手な評論からすれば、その比率は圧倒的に少ないという認識が、私にはあります。

 

とりあえずのやりたがりの人は、対象となる立場の知識や経験に対しては、無脳で無能で、対象たる努力もさしてしていないのに、

でも、その立場にいることに強烈なモチベーションを持っていることだけは分かるわけで、

それが一体何なのかは不思議でなりませんでしたが、

私が「面倒くささの極みに達した時」に、やっと分かったことがあって、それは、

「あぁ、あの人達は、要するにそれが『好き』なんだ。」

ということでした。

 

「好き」なんだから、能力があろうとなかろうと、条件など関係なく、やり続けようとはします。

 

そういう人達を不思議に見ながら、ここ最近になってやっと分かったことの一つが、

「得意」と「好き」の分別が、やっとついたことでした。やっとここ最近のことです。

 

長く長く「人」と関わってきて、あるいは関わらざるを得ない立場にあって、

長い体験・経験を通して、50過ぎになってやっと自覚したいう、なんとも笑えない実態です。

 

人よりも「得意」かも知れないけど、「好き」ではないということは、

「やらねばなない」「やらざるを得ない」状況にならなければ、率先してまではやらないということです。

私は、リーダーとかマネジメントとか、他人のモチベーションアップとか、

何のメリットもないのに、率先してまでアクションするような人間ではありません。

 

ならば、無脳だろうと経験不足だろうと、「好き」だからやろうとする人の方が、その立場に合っているのだろうし、結果としてスキルは上がっていって、

その中から、本物が生まれてくるだろう確率は上がり、

そして、そういう人の方が、周りの人を幸せにするでしょう。

そう思うのです。

 

私は「人については面倒くさい」という決定的な認識がある以上、それには向いていないということになります。

それが、冒頭の

『「苦手」である。「好き」ではない。』

という自覚であり、今のところの結論に繋がっています。

 

時に、

「そんなのは簡単だ。こうすればいい。」

と、人の成長や育成について自ら謳う人がいますが、

そういう人が、何人を対象にした結果を言っているかというと、

例えば、部下の人数が、1人とか、10人とか、せいぜい100人とかだったりするわけで、

学生数で言うなら1000人、勉強会メンバー数でいうと150人、社員数で言うなら700人で、

一定期間内に対する成果に対して限界と挫折を体感した私からすれば、

「その程度で、簡単とか、自分はできるとか、『人』のことを分かったなどと、よく言えたもんだな。」

と、どうしても『パブロフの犬状態」で思えてしまいます。

 

それは、私にとっても強烈に突きつけられた思い出があって、

以前、人のマネジメントについて、悩みながらも経験していく過程の中で、

「もしかしたら最も大事なのはここに集約されるのではないか?」

も思えることがあって、

(それが何かは忘れたけど(笑)。よって不遜だったのだろうな(苦笑)。)

ある指導的立場にある人に、

「◯◯さん、企業における『人』の成長の本質とはここにあるのではないでしょうか?」

と生意気に、よくぞここに気づいたと自負を持って聞いたところ、

「君は3,000人以上の従業員を持って経営をしたことがあるのか?

ないのか。ないなら、企業の『人』のことを語るな。」

と、見事に玉砕かつ一蹴されて(笑)、その経験が強烈過ぎてしまっているからだと思います。

そんなこと言ったら、一生『人』について語れないじゃねーか(笑)、理不尽だな、と思ったものの、

確かに妙な説得力があって、あれ以来、『人』のことについて、自ら率先して語らなくなりました(笑)。

だから、他人が語っていると、個人的見解や感情論や「好き・嫌い」論としては受け止められるし、

「はぁ、そう思うんだ。」

と思うものの、とても積極的に学ぶという意識には向かなくなっています。

 

確かに、『人』のことを総論として語るには、生まれてきてから今日までの間に、どれだけ多くの『人』と真正面から本気で関わってきたかの圧倒的な数が必要なのでしょう。

そう思います。

だとすると、子供の頃から、どこで何人と関わってきたか?から大きく影響してしまうわけで、

仲良しの人や、自分にとって都合の良い人とだけ、仲良しクラブや徒党を組んで、都合よく心地良い環境を選択して、

『人』の理不尽を避けて生きてきた人は、すでにもう不利という、元も子もない話になりかねませんが(苦笑)。

まぁ、私程度では、無理ということだけは確かですわね(苦笑)。

 

ところが、なのです。

ところが、今のお仕事の内容は、お一人お一人、あるいは一社一社、比率の違いはあれど、

100%と言ってもいいほど、「人」に纏わる相談になっていて、

それに私なりにお答えしていくことで、対価を頂いているという現実が起こっています。

私が、「不得意、苦手、好きじゃない、挫折した、実績などない」などという認識を持っていようとなかろうと、

現実に、その過程の中で得た、経験からくるノウハウや方法、失敗事例と少しの成功事例に対して、

現実として相場が発生しているわけです。

これは、この6年の間で最も意外だったことです。

私本人は、最も、挫折して成果を出していない自覚を持っているにも関わらず、それに対して依頼があって相場が発生しているのだから、意外としか思えないわけです。

 

それだけ、多くの人が困っている事柄なのでしょうね。

それだけ「人」に関することというのは、もともと企業にとって難しいことなのでしょうし、

特に昨今では、「価値観の多様化」や「世代格差」などが前提となる時代性もあるわけで、

余計に面倒になってきているのでしょう。

 

さらに言うと、

「雇用を前提としたビジネスモデルが限界に達している」

と私は思っているので、さらに難しくなっていると思っています。

 

なぜかと言うと、経営を良くするという根本の一つは「効率化」にあるからです。

簡単に言うと、人件費というコストに対して、資本家・経営者にとっての最大効率化は、

同じ給料なら、社員の行動力を増やした方が効率は上がりますが、

逆に、社員にとっての最大効率化は、

同じ給料なら、できるだけ自分は何もしない方へと選択することが労働効率が上がることになるから。

そもそもが、双方の立場において、最大効率の定義が二律背反しているわけです。

それでも昔は良かったのは、それでも雇用状態で働く方が良かったはずです。

それは、年功序列とか終身雇用制度とか、退職金制度とかが保証されていることに加え、

「幸せ」の定義が明確で、「幸せ」の選択肢が全国民中流階級になることで満たされていた時代というのがあったからだと仮説を立てています。

ところが、今の時代は、その前提から大きく変わってきてしまっているわけで、

それぞれの立場、経営者なら経営する目的そのものや、社員なら会社で働く明確な理由が問われ、

その問いに対して、

「誰がなんと言おうと私はこれだ。そのリスクは自分で持つからいい。ほっとけ。」

とまで言えるだけの自分というものが問われます。

これは、これで、そうそう簡単ではないでしょう。

簡単ではないし、永遠とも言える課題とも言えるかも知れませんが、

だからといって放っておける問題でもなく、必須とも言えることです。

客も「人」なら、自分も「人」、社員も部下も「人」であることだけは確かなのです。

よって、難解で困難だとしても、私としては、お相手の社会的立場に関わらず、私なんぞに、ご相談・ご依頼頂いたからには、私のできる限りで本気で向かうわけですが。

 

ビジネスにおける「人」の問題や課題に対して、私の中で解決に至るだけの答えなんてのは、当然ながらまだないわけですが、

一つだけ確信に近いことはあります。

 

それは、そういう難解で面倒な課題に対して、

本気で悩んで、考えて、なんとかしようと立ち向かって、挫折しては、またなんとかせねばと苦しみながらも、それでも前に進もうとしている人は、

それだけで、間違いなく、人として大きく社会的価値が上がっているということです。

 

だから、私は、

「難しいけど、諦めるまで、諦めるな。諦めたなら諦めればいいけど、諦めるまでは諦めるな。諦めたら諦めればいいけど、諦めるまでは諦めずにやってみよう。」

と、自分で書いていてもワケの分からないようなこと(笑)を言っています。

 

面倒なことは面倒です。

面倒なことは誰もが避けようとして当然です。

私もです。

だから「面倒」なことには価値が宿るのです。

 

特に「人」のことは面倒です。

面倒だから、ほとんどの人が避けて、うまいこと気持ちのいいことだけしようとします。

面倒だからそうなります。

そして、ほとんどの人が「人」のことで悩み苦しんで、

自分以外の人に解決を求めます。

 

現段階で、これほどまでに、一過性ではなく、

「需要が多く、まともな供給側が追いついていない」

事柄を私は知りません。

だから、悩み苦しんでいる人にとって、それそのものを磨いておくことは、これからのビジネスにおいて、大きな意味と重要性があります。

面倒なことをやり続けるのは価値が宿るのです。

 

それは、たかが私程度のような経験でも、今の仕事があることが、私の中に限っては証明されています。

様々な業種業態の方達とお仕事をさせて頂いていますが、

どんな業者業態にも関わらず、必ず必要とされる共通項目が、「人」に纏わる事柄、

すなわち、自分のリーダーシップや、人のマネジメントや、人のモチベーションアップであり、

それがかなりの比重であることは分かりました。

 

そういうことをやりたい奴はあちこちにいるかも知れないし、先生と呼ばれる立場の人もたくさんいるでしょうが、

そういう人を尻目に、

できていない自覚しかない私に、相談や依頼が、高額に関わらず来て下さっているのです。

 

もし、「人」のことで、悩んで苦しんでいる人がいたら、

それ自体が価値があると思ってやってみることでしょう。

私はそう思います。

どうか、諦めるまで、諦めずにやってみて下さい。

それは、必ず、あなたの未来を創っていくと信じてやみません。

応援していますら。心から。

そして、もし、ご縁があれば、一緒に考えていきたいですね。

面倒で難解なことに、それでも何かを感じて立ち向かっている人は、

私は、とても素敵だと思うし、そして好きです。

私はそういう人と一緒にお仕事できたら素敵で幸せだな、と思っています。

 

という面倒でしつこい話を、

ディスプレイのピンクの熊さんが、悩んでいるに関わらず、笑顔で頑張っているように見えて、

思わず語りかけてしまった体を表現しようと、以前に撮ってもらった画像を、やっと出したくて、

長文になってしまったのでした(苦笑)。

 

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論ずるより前に実績だろ

多くの経営者の方達とお会いしていると、

他の経営者の評価を聞くことがあったりします。

 

経営者には大きく分けて

① 業績を落としている経営者

② 業績を上げている経営者

の2通りがいます。

 

その中から、さらに評価の分類には、

「あの人は業績は上げているかもしれないけど、遊びが足りないから人生に面白みがない。話していても面白くない。もっと色んな経験しなきゃダメだよ。」

と評される経営者もいます。

評している人は、業績を落としている経営者だったりします。

 

逆に、

「あの人は、やれセミナーだ、勉強だ、仲間だ、なんだと言いながら、結局、遊んでばかりいるから業績が上がらないんだよ。」

と批判される経営者もいます。

その批判している人は、逆のパターンで、業績を上げている人かというと、実はそうでもなくて、

やっぱり業績を落としている経営者だったりします(笑)。

真逆の正比例しないから不思議です(笑)。

 

経営者が、何をしている時が「仕事」で、何をしている時が「遊び」か?

というのは、その人の「経営観」や、「経営者観」によって違うので、私は何とも言えません。

 

セミナーや勉強会を、「学びの場」にしている人もいるでしょうし、

「現実逃避」「遊びの場」「居心地の良い場」にしている人もいるでしょう。

 

セミナーや勉強会なら、そういう名称が付いていれば、まぁ、あたかも「経営者の勉強の場」として、他人には通し易いというのはあるでしょうが、

例えば、「映画」や「落語」や「演劇」や「芸術」や「海外旅行」や「買い物」といった、その文字だけ見たら、どう考えても「遊び」と目される事柄も、

きっちりと「勉強」や「学び」の場にしてしまう人もいます。

 

さらに、

そういう『どんな場面でも、経営に対する「勉強」や「学び」の場にしてしまう人』を見て、

本当はただ遊んでいるだけなのに、「私は勉強している。」と、表層の現象だけ真似ては自覚してしまう人もいます。

 

自覚なのか、勘違いなのか、よく分かりませんが、本人がそう思い込んでしまったら、そうなので、

そう言い切られてしまったら、それ以上は何とも言えないし、

 

何が「学び」で、何が「仕事」で、何が「遊び」なのかというのは、

まずは、本人の自覚は自覚であるでしょうし、それはそれで正しいとも言えるかも知れないし、

本人の自覚とは別に、他人から見てどう思うのかはまた違っていたりするかも知れないわけで、

この手の話というのは大変面倒です。

 

自分で自分のことをどう思おうと、他人のことを見てどう思うかというのは、

言ってみれば本人の勝手なわけですから、勝手に言ってればいいと思うわけで、

だから、結論として、

「私は何とも言えません。」

となってしまいます(苦笑)。

 

まぁ、私の自論としては、

「学んでいる」か「遊んでいる」かどうかというのは、

その行為そのものをどれだけ論ずるよりも、結果として実績が上がっているか、下がっているかでしか証明ができないと思っています。

 

セミナーしかり、研修しかり、読書しかり、映画しかり、芸術しかり、旅行しかり、

対象が何であれ、良くも悪くも、「結果による証明」でしか他人は判断ができないのです。

 

そうなると、根本は、

①「本質を見る心の目を持てるかどうか」

②「どこからでも学ぶ謙虚な気持ちがあるかどうか」

③「自分に置き換えることができるかどうか」

の能力になってくるのではないか?と思うわけですが、

 

じゃあ、それだけでいいのか?となると、また面倒なことがあって、

「ビジネスにおける結果」というのは、経営者の能力の前に、「ビジネス環境」というのがあって、

そっちの方が経営者個人の能力など「への虫」でもないほどに大きく影響するからです。

 

私は、子供の頃から見続けてきた漫画や、映画や、プロレスから間違いなく大切なことを学んだ自負はあって、

よく置き換えたりして話したりしましたが、

廃業した時は、そんな戯言なんぞ、誰も相手しないどころか、聞く耳すら持たれないし、聞いてくれたとて、説教やお叱りに至ることも珍しくありませんでした。

ところが上場したら、同じこと言ってもまるで反応が違うどころか、どうしたらそんな視点が持てるんですか?教えて下さい。となるわけです。

 

その違いは何か?といえば、単純に「実績の違い」であって、

じゃあ「実績の違い」は何か?と言えば、

衰退業界の「傘屋」から、時流の「リサイクルショップ」に乗り移っただけといえます。

 

物事を見て何が本質かを考えたり、置き換えたりする視点が、大きく変わったわけではないのです。

それほどまでに、どの「ビジネス環境」に身を置くか?というのは大きいのだと確信している現在です。

 

だからと言って、誰もが

「はい、ここで今のビジネスは終わり、明日からはこの仕事。」

とできるのか?と言えば、現実的には難しいわけで、

そういう難しいことを、私が実際に経験させて頂けたということは、

私の場合は「いかに運が良かったか」

に尽きると言えましょう。

 

お仕事で、経営者やビジネスリーダーへのアドバイスとして、

私はその人の「運」など分からないし、「環境を変える」ということは現実的ではないとなると、

運がどうあれ、環境がどうあれ、「今できる効率的な努力の方向性」で打ち合わせしたり、

将来どんな場面でも適応や応用が効くであろう研修内容にフォーカスしていく、ということにならます。

 

私の研修の出口は、「業績アップ」一本です。

人間性がどうだとか、人としてどうあるべきかというのは、その向こう側だと思っているし、

そもそも、私にそんなこと語れるほどの力量も達観もありません(苦笑)。

というか、そっち方面で、何か聞かれたことありません(苦笑)。

 

業績は上げているが、遊びが足りないと言われる経営者もいます。

遊んでばかりいるから業績が上がらないのだと批判される経営者もいます。

経営者が何を学び、どう遊んでいいかどうかというのは、

その人の実績が上がっているか下がっているかでしか、他人に対して証明ができません。

セミナーしかり、研修しかり、読書しかり、良くも悪くもそういうことでしか、他人は判断ができないのです。

 

だから、私の場合は、「私には何とも言えない。」という結論になるわけです。

 

だとしたら、「経営者としてどうあるべきか?」を自ら論ずる前に、

まだ自分よりも実績のない誰かから「論じて下さいませ。」と聞かれるまでは、先に何らかの実績を上げるしかなく、

それが、よく言われる

「実績のない奴は喋るな。」

という端的な言葉になるのだろうなと思うわけです。

 

ということを考えながら、自分がいかに考え抜いたお仕事先での研修内容やプログラムであっても、

見た目に、どうしようもなくアホにしか見えない現象は、

自分から何をどう言おうが、他人から見たらただアホなだけであって(苦笑)、

ただ単にアホがアホなことをやっていると見られとしても、

それはそれで仕方なく、

だって、まぁ、まだ、何の実績もなく、何の実力もないわけだから、要するにアホなんだから、それが適正な評価とも言えるわけで、

それはそれで仕方ないといえるわけですね。

 

私は私で頑張ります(苦笑)。

 

どう見てもアホはアホだな(苦笑)
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「意識」と「無意識」の狭間で自分という存在を知る(苦笑)

ほら、よく、何やってても、かにやってても、

所作や仕草がピタっと決まってカッコいい人っているじゃないですか?

「絵」になる人っていうんですか?

 

写真撮ってもらう時とか、自撮りする時っていうのは、

いいカッコしたいとか、よく見られたい、笑顔を作ろうとするとか、それはまぁ、誰もがやってるとして、

あるいは、ボケかましているところや、アホ丸出しといったような、自分を落として出そうとする場合であっても、

それも、そう見せたいと意図してたり、そう意識したりしていることに変わりはないわけで、

要するに、それら全てひっくるめて

「自分をどう見せたいか?どう見られたいか?」

という状態であるわけで、我々は多かれ少なかれそうやって生きていたり、発信しているということになりますね。

 

そういう「自分をどう見せたいか」というのを意識してないような時・・・、

ごく自然体の時や、気を使っていない時、

もっと言うと、気を抜いている時や、気を緩めまくってる時とか、くそボッケーとしてる時とか、

そういう時ですら、「絵」になる人って時々いません?

まぁ、滅多にいないけど(笑)。

 

そういう人にスゲェ憧れるんだよなぁ(笑)。

 

いかにも「ちょっとハンバーガー食べてるだけです。」みたいにしようとしても、それは、そう見せたいと完璧に意図してるわけで(苦笑)、

もっとも、そうした場合ですら、全然「絵」になってないから救い用がないわけだけど(苦笑)、

そんなことより、

問題なのは、人様に見られまくっている、講演とかセミナーとかの人前で喋る時。

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一応、できる限り、可能な限り、自分を客観視したり、俯瞰したりと、「メタ認知」を意識して、

自分というものを自覚しておきたいとは思ってはいるものの、

講演やセミナーで喋る側になる時ってのは、そんなことできる余裕なんてのは、まるでないわけで(苦笑)、

まして、どうしても伝えたいという想いが強くなればなるほど、必死になってる状態なわけで、

そうなると、自分で自分を見るなんてことは、私にはとてもできるわけがないわけです。

 

だから、講演してる時の自分の姿を撮ってもらって、

(オレって、一体どれくらいカッコいいんだろう?)

と後になってニヤニヤして見ながら、その悲惨で残酷な実態を突きつけるにつけ、

立ち直れないくらいに愕然とする(苦笑)ことは、実はよくあります(笑)。

 

こーゆー時とか(笑)。

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よくもまぁ、こんな不細工で醜い形態に関わらず、調子ブっこいて人前に出てるなぁ、オレ・・・・、みたいな(苦笑)。

いや、まぁ、いつも一緒にいる人とかは、「いや、別に、いつものツヴォイさんでしょ。」かもしれないけど(笑)、

当の本人にとっては、全く違ってたりするわけです(苦笑)。

 

まぁ、日頃から、どんだけカッコつけて生きてるんだよ、あるいは、どんだけカッコいい幻想に囚われて勘違いしてんだよ、ってことなんだと思うんですけどね(苦笑)。

 

あげく、

「スーツ姿だって、実は粋に似合っちゃうんだぜ。」

とばかりに、試着してる時に、自分を作って撮ってもらって、さぞカッコ良く写ってるんじゃないか?と思ってても、

後から見たら、実は思ったよりも全然不細工だったりして(苦笑)、

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ダメじゃん、と思う程度ならまだしも、

 

完全に気を抜いてる瞬間を、切り取られた場面を撮られて、見せつけられる時なんて、

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ホントは、こっちの方が、「他人から見た時の本当の自分」なんじゃねーのか?と思えてくるわけで、

だとしたら、死んでもいいんじゃないか?とすら思える時もあります(苦笑)。

 

でも、それは、よくよく考えてみれば、自分を鏡で見ている時や、スマホで自撮りしている時の方が、

24時間の中で、圧倒的に時間は少ないのだから、それが「本当の自分の姿」、すなわち、

それが「いつも他人から見られている本当の自分の姿」という仮説は、仮説ではなくて、合っているような気がするわけです(笑)。

 

もう、こんな現実を突きつけられた時なんてのは、

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「なんだ、この、ショボくれた、ただの変なオッサン・・・・」

以上でも以下でもなく、ただそこにいる自分の現実となるわけで(笑)、

 

街を歩いていて、時々、すれ違いざまに目で追われたり、ジロジロ見られるようなことがあると、

「もしかしたら、オレってそんなにカッコいいんかな?」

と思っていたものの(笑)、実際は

「あまりにもショボくれているけど、革ジャンとか着て、アホ面こいてスマホいじってるオジさん」

なだけだったのではないか?と自覚せざるを得ない、となってくるわけであります(苦笑)。

いや、マジで(苦笑)。ガチで(苦笑)。

 

いくら自分のリアルな日常を切り取って、ブログやSNSで自分というものを発信しようとしても、

それは、「意識」した状態極まりない非日常の瞬間を切り取っているわけだから、

言い方を変えるなら、「嘘」の自分となります。

すなわち、リアルな自分を出そうと意図した結果、まったく逆の自分、リアルではない自分が出てしまう、

というパラドックスに陥っているということになりますね(笑)。

 

そうなると、

①「意識」している時は、カッコつけてて、それなりに自分では納得いってるんだけど「嘘」で、

②「無意識」の時は、もう救い用がないくらい無様(苦笑)で滑稽なんだけど、「リアル」で「本当で本物の自分」

という論法が成立することになりますね(笑)。

 

これをひっくり返して、

『「嘘」の自分が「本物」』で、

『「本当」の自分が『嘘』」

という状態にするには、どうしたらいいか?となると、それはもう、

 

一人でいる時以外、誰か一人でも同じ空間の時間を共有する時には、

「意識」の時間をできるだけ長くするか、あるいは完璧に意識し切るしかないわけです(笑)。

かといって、そんなことができるのか?というと、

そもそも「意識」している時は「意識」しているのだから問題ないのだけれど、

「無意識」というのは、「意識」が「無」ということなのだから、

「無」ということは「無」なのだから、「無」を「意識化」などできないから、

「無意識」を「意識化」などできないということになります(笑)。

 

だから、24時間、常に誰かに、自分を撮り続けてもらって、一人になった時にそれを見続けて、完璧になるまで訓練するか(笑)、

常に鏡を目の前に置いて、外出る時も鏡を前にして歩くとなして生きるくらいしか打つ手がなくないということになります(笑)。

 

でも、ちょっと待てよ・・・・、

そもそも私は、「人前で喋っている時の自分」を見ては、死にたくなっている「今」があるのだから、

それは、死にたくなる動機が増すだけになる、ってことになりかねないってことになるじゃんね(笑)。

 

やめた、そんな面倒くさくて、恐ろしいこと、やめた(笑)。

いっそ、人前になんか一切出ずに、引きこもって、一人で暮らしていけばいい(笑)。

無様でカッコ悪くて滑稽な自分を知りたくなければ、社会と一切関わらずに生きていけばいい(笑)。

そーしよー、そーしよー(笑)。

って、それも、現実的には耐え切れるわけないじゃんね(苦笑)。無論(笑)。

 

まぁ、それほどまでに、

「自分で自分を見る」「自分が何者であるかを知る」「自分で自分を自覚する」

ってのは、とても恐く、難しく、重要で、そして、それこそが誰もが持っている「人生のテーマ」なのかも知れませんね(笑)。

 

まぁ、いいや、私は、

「カッコつけたくて、自分ではカッコいいつもりでいるけど、他人から見たら本当はショボくて滑稽で不細工で、救い用のないオッサン」

ということで(笑)。

そう思っといた方が気楽だわな(笑)。

それを自覚して、人前に出て、他人様から一方的に評価されたことを、受け止めておけば、いいってことだわな(笑)。

そーしよ、これからも、そうしよ(笑)。

 

ってことは、こんだけ、つべこべ書いたところで、何も変わらないってことじゃねーか(笑)。

どーしよーもねーな(笑)。

ひっくるめて自分と割り切った方が気楽だな(笑)
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