「やりたいことがたくさん」は「やること」を決めていないのと同じ

「やりたいことがたくさんあり過ぎて困ってるんです。」

と目の前で延々と聞かされたことがあって、

途中で遮るのも面倒だから、

「はぁ〜、へぇ〜、ほぉ〜、スゴイですねぇ。さすがですねぇ。」

と延々と聞いていたんだけど、

そんなに困るほどやりたいことがあるんなら、

こんなとこて喋ってないで、とっととやりたいこと勝手にやってりゃいいじゃんね、

と私は思うのです(苦笑)。

 

「自分がどういう人間であるか」

を認識して、過不足なく人に伝えることはとても大切なことではあるんだけど、

 

時に難しいよなぁ、と思うのは、

「自分がどういう人間に見られたいか」

「自分がどういう人間と自分で思っておきたいか」

の欲求が強く出る時ですね。

 

「私って、こういう人なんです。」

と、聞いてもいないのに自分のことを言う人は、私から見てそうじゃないことは往々にしてあります。

「私って、変な奴なんです。」

と言う人は、大抵いたって普通でどこにでもいるような人です(笑)。

 

私も、自分で自分はこういう人間だと思っていることと、他人から見た自分の評価が大きく乖離していることがあって、戸惑うこともよくあります。

 

やりたいことがたくさんある方がいいのか、やりたいことは一つに絞った方がいいのか、

どちらが正しいか?というのは私はよく分かりませんが、

私は、やりたいことは一つに絞った方が良いと思う方です。

 

目標も、一年に一つ程度には絞りたいと思っているし、

経営計画についても、経験上は「年間通して徹底すること」は一つの方が良いですし、

自社の価値やコンセプトといった大きい概念も一つに絞りこんだ方が良いと思います。

一つが決まれば、かなり高い確率で達成はできます。

 

ただ、言うは易しで、これがなかなかできません。

まずトップが一番大事なことを絞り込めないことは往々にしてあるし、

人数がいると、それぞれがそれぞれのことを言うし、

一つに絞るということは、他の優先度は落とすということになるので、そのリスクを考えると迷うとか、

そういうことが渦巻いたりします。

 

だから、決めるまでがとても大事だし、時間はかかります。

でも、決めないと、結局は何も進まずに、何も変わらずに、

また次も同じようなことを言い、そして変わりません。

 

変える為に何かを決めるはずが、何も決めないことを決めるので何も変わらないという逆説に陥ります(苦笑)。

 

お金も時間も取得できる情報量も限度がある中で、どうしたらいいのか?といったら、

「順番決め」するしかないと私は思っています。

「やりたいことがたくさんある」状態というのは、

「やることを決めていない」のと同じなのです。

 

困るほどにやりたいことがたくさんある「やりたいこと」って何なのでしょうね。

まずは、箇条書きにしてみて、順番決めする必要があります。

 

なんて偉そうなことを言っている私ですが、私のやりたいことなんて、せいぜい騙し絵を偶然見つけて、

直情的に、騙し絵の前でアホ画像を撮りたくなる程度です(苦笑)。

 

かと言って、

「また一つ、やりたいことができた。」

となるか?というと、なるわけなくて、日常のどうでもいい一コマに過ぎないのです(苦笑)。

 

やりたいことをやったのに、何の達成感もなければ、自己承認もできません(笑)。

 

一つに絞りこんでいないから余裕のある証拠なんでしょうね(苦笑)。

 

 

こういうことで自分を誤魔化さないようにしたいと思います(苦笑)。

 

なかなか絞りこめないからアホなことやって誤魔化す(苦笑)
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「努力」は具体化しないと分からないのです

「努力をしたか?」

と複数名に対して、聞けば、

「しました。」と言う人も、「していません。」という言う人もいるでしょう。

 

ところが、同じ相手に、

「100回やったか?」

と聞いてみると、「努力したか?」の問いに対して「しました。」「していません。」と答えた時の人数とは変わってきます。

 

大きな成果を出した人も、「私は努力をしました。」と言う人もいれば、「努力なんて全然していません。」と言うもいます。

 

実際に何をどれだけしているのか?という具体的な行動や、

一定期間内の何にどれだけ時間を費やしているのかを聞かないと、

何をもってして努力と認識していいのか、よく分からないから、具体的な思考や行動としての努力を認識できません。

 

相手が努力と言っていても、こちらは努力してないなと認識する時もあるし、

逆に、相手が努力していないと言っても、こちらからすると凄まじい努力をしていると感じる時もあるのです。

 

「努力」というのは、その人の認識や意識の問題になってくるので、言葉だけではよく分かりません。

 

私から見て成果を出している人によくよく話を聞いたり、あるいは可能な限り観察していると、

24時間の中で一定時間を成果に対する努力に使い、そしてそれを継続しています。

ただ時間を使うのでなく、適切な時間の使い方をしていて、

あぁ、そこまでやらないと成果など出ないし、努力などと言えないのだな、と思い知らされることが多く、

グウタラな私からすると、簡単に「努力しています。」などと言えないのだな、と思い知らされます。

 

皮肉なことに、努力というものを具体的にすればするほど、努力が遠のくような感覚になることがあります。

だって、努力の方法が分かったところで、そんなことまではできないとなって、結局やらないのですから(苦笑)。

 

もし、成し遂げたい何かがあるのら、それを達成している人の具体的行動行為を真似てみることからがスタートなのでしょうね。

ということは、そういう人がいるかどうか、実際に会って話が聞けるかどうか、一緒にいられるかどうか、になってくるでしょうね。

そういう人がいたら幸せと言えます。

 

というようなことを、カップからウニュっと抜け出しているような画像を撮ってもらうのに、

10回撮り直してもらう努力をしながら思うのでした(苦笑)。

 

いまの努力は努力と言えるのか?
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環境とは自分である

誰もが自分にとってより良い環境を求めて動くのは当然かと思います。

 

「誰と関わるかが大事」「どのコミュニティーに属するかが大事」ということはよく言われるし、

「環境が人を創る」という概念にのっとれば、それは正しい見解といえるし、私もその通りだと思います。

 

周りが東大を目指して勉強している人ばかりなら、東大を目指すのが、その人の普通になるのでしょうし、

周りが楽しさを追求するなら、自分もいつも楽しい状態であるように工夫したり動いたりするでしょう。

 

だから、どうなりたいか?という目標があれば、

既にそれを実現している人の元や、同じように目指して頑張っている人と同じ場に向かうことが、

目標を実現していく上では有効と言えるし、そういう周りの人達のことを仲間とか何とか言うのでしょうね。

 

そういう任意の場に集う人が、どんな人達かを知るというのは最も大切な情報と言えるでしょう。

例えば、就職先選びもそうなのでしょうし、

学校選びや、どのサークルに入るか?どの地域に住みたいか?もそうでしょうし、

どのセミナーに参加するとか、勉強会に属するのかも同様でしょう。

 

人は、自分のメリットの為なら、属するであろう環境や、属している相手のことを知りたがるし、調べるのです。

そして、自分にとって都合が良いと判断すれば、そこに行こうとしたり、参加しようと試みます。

時に、試験があったり、お金を払うという条件がありますが、商業施設のように何の制約もなく誰でも入れる場もあるでしょう。

 

人は、自分以外のことを「環境」と呼び、

自分にとって都合の良い状態や、都合の良い人の集まりを環境として望み、何らかの条件をクリアして、そこに行こうとします。

 

問題は、視点を変えてみると、自分以外の人、すなわち他人から見た自分は、他人からは環境の一つであり、環境の一部となります。

環境を選ぶのは自分だと思っていたら、「自分が環境の一部」として選ばれていたということになります。

 

集団や団体の印象を創り出すのは、トップだけの存在ではなく、

トップの元に集まる人達が、その集団や団体の印象を決めてしまうということはよくある話です。

 

そういう意味では、属する環境の印象を良くするも悪くするも、自分であると言えるわけで、

すなわち、環境とは、実は自分自身と言えるわけで、その自覚は持っておいた方がいいのでしょうね。

選ぶ側だとばかり思っていたら、実は他人から選ばれている側であり、

貢献しているかもしれないし、評価を落としているかもしれません。

「環境とは正しく自分」なのです。

 

素晴らしい人達に囲まれて、

「誰と関わるかがやっぱり大事」

「どんな環境にいるのかがやっぱり大事。」

と言っている当の本人が、その環境や集団の価値を下げかねないリスクは誰にもあるわけで、

私なんかは相当に気をつけないといけないんだと思うのです(苦笑)。

 

ということを、考えながら、

遠征に行く機会があれば、必ず伺うお気に入りのお店があって、

なぜかというと、店舗そのものの空間が私にとってとても居心地に良く、

自分が好きなものを発見したり、気づかせてもらえる楽しみがあるからなんだけど、

店内で撮ってもらった写真を見て、自分を客観視したら、

肌着のようなヘンリーネックのTシャツに、スウェットパンツという、寝起きのような格好でうろついていたわけで(苦笑)、

他人視点で見た場合、お気に入りであるはずのこの店の雰囲気を、気に入っているという自らがブチ壊していたのではないか?と

強烈な反省が込み上げるのでした(苦笑)。

 

果たして、自分は、そこに生息していて、存在そのものが迷惑になっていないのか?ということを、

一歩外に出る度によく考えて生きていこうと思います(苦笑)。

 

選ばれているのは自分なのである。
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