本人が思ってるほど他人からはどぉでもいいことだわな(苦笑)

私とまだ会ったことのない人が、私のことを知ろうとする時に、このブログを見てくれるんですけど、

その後に私と会った時に、

「最初は恐い人かと思ってました。」

と言われることは多々あって(笑)、それは髪型をオールバックにしてるからかなぁ、と思って、

ナチュラルヘアにしたら爽やか好青年に見えるんかな?と思って、何もつけずに出てみたけど、

単なるボサボサ頭のオッさんじゃんね(苦笑)。

いいや、もう別に、どう見られても(笑)。

どーせ元々どうでもいい人間だし(苦笑)、実際に会ってもどうでもいい程度だろうし(苦笑)。

こういう変顔ばっかりしているからいかんのかも知れんな。いや、そもそもの顔がいかんのかな、顔が。

とかなんとか思いながらの始発の新幹線。

 

そんなことより、今回の遠征はどんだけ寒くなるのか分かんないから、レザージャケットにコートを羽織ってきたはいいけど、

五十肩が痛くて、車内に入って脱ごうにも一苦労するわけで、そっちの方が深刻だったりするわけで、

そうか、いっそ、モヒカンにして、裸にしたら、それ以上とやかく考えなくて楽かも知れんな、と思うはいいけど、

するわけねーよな、と2秒で思う程度だな(笑)。

 

本人が思ってるほど、自分の外見なんてのは、他人からしてみたら、ホントはどぉでもいいことばっかりだというのが片方にあって、

やれ髪型だ、ファッションだ、今日はどぉしたこうしたと、どぉでもいい自分の情報ばっかり面倒くせぇ奴だな、と思ったり思われたりする反面、

もう片方で、いかにパーソナル情報を出すかで共感や関係性が構築される側面も確実にあるわけで、

そのバランスは、それこそ個人の良かれと思う範疇での情報発信と受け取り方になるから、

その辺のさじ加減ってのはきっと大事なんだろうな、と思いながらも、

でも、まぁ、思ったところで、情報の全ては受け手に委ねられるわけだから、どぉしようもないと言えば、どぉしようもないのだから、

どぉしようもないわな、とか何とか思いながら、

でも、同じ個人情報でも、共感できる人と、自分のことばっかり出してこいつ大丈夫か?と思う人というのはいるわけで、

その差や違いはどこからくるのか?なんてことを考えながら、今日も今日とて行ってきます(苦笑)。

私の個人情報のほとんどはどぉでもいいこと(笑)。
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「意味がない」などと言う意味はあるのか?(笑)

生きていれば様々なことはあって、その中には、

「こんなことやってて意味があるんだろうか?」

と、刹那的ながら深刻に思えることは多々あるのだろうけど、

 

そもそも、生まれてくる意味など分からずに生まれてきているわけだし、

さらに、生きている意味が分かって、今日も生きているのか?と問われれば、

あいも変わらず、今日も今日とて、こうして生きているわけで、

 

まぁ、いちいち、目の前に現れたことに意味を見出そうとすること自体、果たして意味などないとも言えて、

だったら、目の前に現れたことは、きっと意味があるのだろうと割り切って、

せめて全力で取り組む方が、後付けで意味があったと思い込めたりすることもあるようなもので(笑)、

まぁ、そっちの方が、結果として、人として豊かで深みのある人生を作っていけるような気もするし、

見ていて、そういう人の方が魅力的だし、私は好きだなぁ、と思えるし、

実際に、この人は素敵で面白いなぁ、と思える人は、

まずは全力で取り組んできた人だったりするので、

まぁ、つべこべ言わずに、やるだけはやった方がいいんだろうな、と思います。

 

大体、「意味が分からないからやらない。」なんて言ってる人は、

じゃあ、自分のやってることは全て意味があると言い切れるのか?と言うと、そんなもんは立証のしようがないわけで(笑)、

ということは、単純に「やりたい」とか「やりたくない」といった、その場の感情でのみ生きている程度だったりすることを、

わざわざ「意味」という単語を出して、さも論理的めいたことを言いたいだけ程度なんじゃねーか?とも思えるわけで(苦笑)、

だったら、好きなように思いつきで生きているだけです、と言えた方が潔さを感じます。

 

ということを考えるわけですが、なんでそんなこと考えるかというと、

そうでもしないと、何かを見つけるたびに、気がつけば、こうしてアホ画像を必死で撮ろうとしている自分の無意味さに説明がつかないのです(苦笑)。

 

生きている意味など分からずに今日も生きている(笑)。
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果たして「ちょっとは考えて」いるのか?

子供の頃、何も考えずに、好きなことばっかり、その場の思いつきで喋っていたら、

「ちょっとは考えてものを言いなさい。」

とかの定番の言葉で、親や先生からよく注意されました。

(まぁ、今でもだけど(苦笑)。)

 

小学校2年生の国語の授業の時に、

「『玉』という漢字を使った単語は何があるかみんなで出してみましょう。」

という時間があって、クラスのみんながハイハイと手を挙げては、

「玉ねぎ」とか「玉子」とか言っては、その単語を本田先生は黒板に書いていっていました。

本田先生は女性の先生で、年齢は子供から見ると、いわゆる「おばさん先生」の領域でしたが、何となくポテトを彷彿させる可愛らしい感じの先生で、私は好きでした。

 

出尽くしたのか、手を挙げる子がいなくなったので、

私は、言われていた通り「ちょっとは考えて」、日頃から使っているのにまだ出ていない単語を言おうと元気よく手を挙げました。

「・・・・ツヴォイ君」

本田先生は十分に予測できたのか(笑)、ちょっと躊躇しながら当ててくれました(笑)。

お気づきのことかと思いますが(苦笑)、案の定、私は

「金玉!」

と笑顔で元気良く答えました(苦笑)。

 

クラスのみんなは爆笑でしたが、本田先生は呆れたような笑顔を浮かべ、そのまま立ったままでした(笑)。

黒板にはその単語を書いてはくれませんでした(笑)。

 

「まだ肝心なのが出ていないぞ?」「みんな恥ずかしくて言いにくいのかな?」「日常過ぎて忘れてるのかな?」「まだそれがあったか!と皆に思い知らせてやれるぞ」と、

私なりには「ちょっとは考えた」わけですが(笑)、それはどうやら見本とはならなかったわけですね(苦笑)。

 

私は私で、私の発言だけ、黒板に書いてくれなかったのがそれなりにショックだったりして(笑)、

それ以来(と言うのが果たして合っているのかどうか分かりませんが)、私は「ちょっとは考えろ」と言われると、どれくらい考えることを言うのか、すごく考えるようになりました(苦笑)。

あの時の本田先生の姿と顔は鮮明に焼き付いていて、強烈な思い出の一つです。

 

それから随分と月日が経って、高校生になった頃・・・・、

地下鉄の駅で偶然パッタリ本田先生に出会いました。

変わらぬ本田先生に、私はすぐに気づいて、せっかくだからご挨拶だけでもと思って、正面から歩いてくる本田先生に目を合わせました。

本田先生は私のことを覚えていてくれて、「あら、ツヴォイ君。」と向こうから名前を呼んでくれて、相当にビックリしました。

「あの・・・、本田先生、覚えてくださっているんですか?」

と聞いたら、

「なんでぇ?、この辺なんかあの頃の小さい時のまんまで全然変わらんがね。」

と、私の顔のあたりを手のひらで覆うようにして、変わらぬ笑顔で答えてくれました。

 

少ない時間の中で、私はよりによって「金玉事件」の思い出を話して(笑)、

当時のあまりのアホさを謝りながら、それ以来「ちょっとは考える」こと「考える」ようになったことを言いました(苦笑)。

本田先生は、笑いながら、

「そんなこともあったかねぇ(笑)。

でもねぇ、1年から2年の引き継ぎの時に、1年の担任だった橋本先生が、『ツヴォイと◯◯は伸びますよぉ〜。』って、そう言われてた子だったんだよ、ツヴォイ君は。」

と懐かしそうに教えてくれました。

なんだか無性に嬉しくなりました(笑)。

 

あれからさらに月日が経って、果たして私が実際に伸びたかどうかは分かりませんが(苦笑)、

あいも変わらずいい歳こいても下ネタをキャッキャッと喜んで喋っていることは変わらないわけで(苦笑)、

こうして街中で「金の玉」のオブジェやディスプレイを見かける度に、

本田先生のことや「ちょっとは考える」ことや「金玉事件」を思い出しては、

あれから「ちょっとは考えてものを言う」ことはできているのか?と自問しては、

小学校2年当時と変わらぬ現実に自ら戒めされます(苦笑)。

 

もうすぐクリスマスシーズンがやってきて、街のあちこちには今年もきっと「金の玉」が溢れるのでしょうね。

私にとっては1年に一度の日々大反省大会の時期がやってきます・・・・(苦笑)。

 

ちょっとは考えんとな(苦笑)。
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