自分の範囲で変化したと思っている時は変化していない現実(苦笑)
何かの情報に触れたり、経験したりして、
「私は変わった!」
と言う人はいて、何が変わったのかよく見てみても、
「変わった、変わった」と本人が言ってるだけで、何がどう変わったのか、私にはよく分からないんですね。
そりゃまぁ、生きてれば、細胞変化は刻一刻としてるんだから、変わり続けてるんだろうけど、
(それを一般には「老化」という(笑))
人が、他人の変化を認知するには、余程劇的な外的変化がない限りは全く分からないというのが、今のところの私の結論です。
まぁ、一般には、太ったとか痩せたとか、ハゲたとか、髪型やファッションなどの見た目とか、
住む場所や、仕事が変わったとか、
業績が前年150%アップしたとか、
アウトプットによって証明されることで分かりやすい対象はあって、
ただ、それは、単に分かりやすいというだけのことで、
本人が大騒ぎするほど「変わった」とは他人は認知までしなくて、まぁ、よくある話だね程度なのだと思うわけです。
恐らくは、内的な思考性とか、ものの見方とか、視点とか、そういうものが「変わった」から「変わった」と言いたいのだろうけど、
内的要素が変わったなら、その証明としてアウトプットが変わって、結果、他人から見て「変わった」と認知されることで証明されるわけで、
やはり、結局「変化」というものは、他人が認識して初めて「変化」となることからは免れないのだろうなと、私は思っています。
というか、人は他人にそれほど興味がないように、
自分は、自分に興味のない他人の変化などどうでもいいたろうし、
他人もまた、自分のことになど大した興味などないのです。
逆に、
「あなたは変わった。」
と言われるときや、言いたくなる時はあって、
それは正確に言うと
「自分への優先順位が落ちた」「自分への時間が減った」「選ばれていない」
という自覚が生まれている時で、まぁ、それなら、誰からも求められる自分になる努力するしかないわな、
と思うわけです。
となると、「私は変わった」と言いたくなる時は、
他人から「変わったね」と言われるまで、魅力的になって、自他ともに認められる実績で証明するしかない、
という一択なるのだから、
自分から「変わった」と言いたくなる人は、いちいち言うことなく、
何かしらの圧倒的行動量をアウトプットして、他人から「変わったね」と言われるまでやり切った方が早いのだろうな、と思うのですが、
それはそれで、私はとても面倒くさいので、
「変化など、自分の意志の範囲では、大してできないものなんだよ。」
と、「変化」になど興味がないように見せかけて、何かの拍子にもしかしたら他人から「変わったね」と言わるといいな、
という姑息な手を選んで生きているところです(苦笑)。
AI時代の「人間らしい仕事」をAIに考えてもらいたい(笑)
なんか、話に聞いてると、今の仕事の何から何まで全部AIがやってくれるというので、
人間がやることなんて何もなくなるんだな、と思うので、
「AI時代の人間がやるべき仕事」セミナーを企画して、
①AIに、AI時代に人間しかできない仕事を出してもらって、
②AIにセミナーの構成とか内容とかシナリオを考えてもらって、
③AIにパワポとかのスライドも作ってもらって、
④当日はAIにカンペを出してもらって、
⑤私は、何も準備せずに当日をむかえて、当日は何も考えずにカンペ見て、その通りに喋ったら、
それは、果たして「人間にしかできないセミナー」になるんかどうかを検証してみたい(笑)。
そもそも、何とかコンサルタントとか何とかセミナーというのは、その人の持っている知見やコンテンツが価値だと言って、
情報やら無形商材とかの何やら分からないようなものを売ってる私のような仕事というものは、
A・任意の情報をどっかから取って、そのまま情報がない人に喋ってるか、
B・その情報に対して、私はこう思う、などと無責任な感想や主張を喋ったり、
C・「私は知識だけじゃなくて自分で実践したきた結果これが言えるんです」とか言ったりして、
極めて属人的な要素が故に再現性は乏しく、他人がやったところで同じような結果にならないようなことを言ってる、
D・別の事例や比喩と、原則論・本質論を組み合わせて、相手によって理解しやすい言葉や事例でアウトプットしようとしたり、
みたいなバリエーションを行ったり来たりしてる程度なので(苦笑)、
こと情報量とか知識量とか、編集バリエーションや、ロジック通りの戦略論程度なら、そりゃAIの方が有利になるのは目に見えているわけです。
誰もが無料で手に入るような情報や時間になってくると、有料価値などなくなるわけで、
そういう仕事をしている人は、仕事がなくなるんだろうな、というのは、誰もが思うわけですね。
まぁ、それは、一般の組織にも当てはまるわけで、ここまでの歴戦の勇者たる立場や仕事なんてのは、まるで必要がなくなるということなのでしょうね。
そんな時代に、もし、前記したような、ただ自分が喋るだけの空間と場で、
「わぁ、やっぱり、ツヴォイさんって言うことが違うわぁ。やっぱりスゴイよねぇ。カッコいぃ~。」
なんて勘違いされたようなこと言われたら、それはもう、とんでもなく有頂天になるわけで(笑)、
そこに価値が生まれるとしたら、それこそが、今の時代の「本物の証」と言えるのでしょうね。
だとすると、これからの人間の仕事の価値の一つは、
芸人とかタレントとかアイドルとかの要素やビジネスモデルにさらに近くなっていくのでしょう。
これまで、価値になると思っていたことが、一気に無価値になって、
全然違う勉強やスキルが必要となると、これはもう、今の段階で終わってるかも知れないし、
あるいは、ここから努力するとして、したところで何とかなるもんかどうかは、全く分からないわけで、
まぁ、そこが覆いかぶさる不安とも言えるし、誰にもチャンスはあるという面白さでもあるということなんでしょうね。
という訳で、私としては、そういうセミナーとかやって、検証してみたい興味は山々なのだけど、
やったところで明らかに凹むのが目に見えているので(笑)、
やってみたいけど、その勇気も根性もないということで、
あぁ、それこそが人間らしさなのだろうな、と、自分自身に人間を実感しているのでした(苦笑)。
「何を」から「誰が」の時代になるくらいの言葉は誰もが言いますが、
その「誰」になれるかどうかは、「誰も」とはならないわけで、
それはそれで、残酷で恐ろしい格差の現実を分かった上で、分かったようなこと言う必要があるのでしょうね。
積み重ねてきた者しか言っちゃいけない言葉ってあるな(苦笑)
映画「サタデー・ナイト・フィーバー」(1977年・アメリカ映画)のオープニング、
「ジョン・トラボルタ」がペンキ缶を持ってブルックリンの街を歩くシーンは、最高にイカしてて憧れました。
こういう一歩一歩を歩むシーンというのは、
まるで、「人生は歩いてきた日々の軌跡の積み重ね」で決まるってもんさ、みたいなイメージがあって、
影響を受けてか、私も、人生の価値というものは、その人の経歴の事実に宿っていると思っています。
いつか、歳を取った時に振り返ることができたらいいな、とは思っていて、
もう少しで60歳になろうとしてる中、どんな人生の道のりだったのだろう?と振り返ってみるものの、
落としたきたはずのペンキの跡など跡形もなく消えてしまっていて、
いや、正確には、現実に大したものなど何も残していなくて(苦笑)、
いや、そもそも、ほとんどは忘れてしまうような空虚な日常を垂れ流していただけだから、
積み重ねもへったくれもないわけで(苦笑)、
反省して、せめてあと10年は、自分に積み重なるようにせんといかんな、と思っているところです(苦笑)。
そろそろノンビリしたい、などと言えるのは、ちゃんと頑張って生きてきた人だけに与えられた権利なのだろうな・・・、と最近はつくづく思うのです(苦笑)。
あぁ、それにしても、グダグダしていたい(苦笑)。