不要と必要の心理的架け橋(笑)
聞いてもいない、
頼んでもいない、
依頼もしていない、
相談もしていないのに、
誰も相手にしてくれない故の貢献欲なのか、
自分の存在確認や、価値観の押し付けなのか、
ご丁寧に余計なアドバイスや、要らぬご指導頂けるようなことはあって、
あぁ、面倒くせぇな、と思いながらも、
お気持ちだけはありがたい、と譲ってあげて、
適当に聞いてあげてればいいうちはいいんだけど、
あんまりしつこかったり、結局自分の言いたいことだけ延々と言いたいだけじゃん、となると、
いよいよ、いい加減不要なんだから、切っちゃおうかと思ったりするんだけど、
フと、自分の着ているフリンジジャケットの画像を見ていると、
フリンジってのは、絶対に必要か?と言われたら、不要の権化とも言えるわけで、
でも、フリンジを切るどころか、それを楽しそうに着ている自分がいて、
不要なものというのは、実は必要なんじゃないかとも思ったりして、
さらには、そんなこと考えてる自分の存在そのものが不要なんじゃないか?とも思えてきて、
そんな時に、不要なものが実は必要なんじゃないか?と、
自分は世の中で必要とされていると自己肯定に繋げる時があります(笑)。
他人の心配より、まず世界中の誰よりも自分を心配するのが賢明だと思うのでした(苦笑)。
「がんじがらめ」解除の2段階認証
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もう「がんじがらめ」で何ともならない、
と思っていても、
「がんじがらめ」の枠は、どこまで行っても「自分の思考範囲での枠」という前提があって、
そこに「がんじがらめ」の限界がある。
「がんじがらめ」だと思っていても、視点を変えたり、視座が高くなったり、視野が広がったりすことで、
方法の選択肢は、論理的には広がって一旦「がんじがらめ」ではなくなるので、
実は「がんじがらめ」は「がんじがらめ」ではない。
ただし、現実には、次のハードルはある。
方法が増えたとしても、それをやるかやらないかの段階。
やらないのであれば、「がんじがらめ」は変わらないので、
実は「がんじがらめ」が、変わる人と、変わらない人の違いはここにある。
「脳・神経・筋肉」の動きの連鎖によって行動は成立するので、
結局最後は個体差の問題だから仕方ないね、というのが現実だったりする。
それでも何とかしようとするのか、しないのか、が努力の前提である。
どうしようもないと思える個体差を自覚しながら、それでもやることの可能性を見るか、見ないか、
それは、人それぞれの人生なのだから自分で決めて生きていけばいいのだと思います。
ちなみに私はすぐへこたれるので、一度「がんじがらめ」だと思ったら、ずっと「がんじがらめ」のままです(苦笑)。