その立場・職位は「何をしてきて・何ができて・これから何をしていこうとする」人なのか?
子供の頃、学校の勉強が大嫌いで大嫌いで、見かねた親からこっぴどく「勉強しろ」と言われてきました。
なんでこんなつまらんことをしなきゃいかんのか?と勉強する意味が私には全然分からなくて、
ある日「なんで勉強なんてしなきゃいけないの?」と聞きました。
親は「お前は、いい高校行って、いい大学入って、いい会社に就職して、そして将来、お父さんの後を継いで経営者にならんといかんからだ。」と言いました。
『いかん』って、自分の人生なのに、なんで勝手に他人に決められたようにしなきゃ『いかん』のか?と思って(笑)、
「じゃあ、経営者にならない。そしたら勉強しなきゃいんでしょ。」
と言ってこっぴどく叱られたことがあります(苦笑)。
いや、理屈の上の言い分としてき合ってると今でも思ってるんですけどね(笑)。
当時の私には「経営者」という人がどういう人なのか分かりませんでした。
せいぜい、父がそういう人だと認識はしていたので、子供の頃は、理由もよく分からずに「勉強しろ」とだけいう人が「経営者」なのだと思えて、
そういう大人にはなりたくはないなぁ、程度に思うのがせいぜいでした(苦笑)。
(父のことは大好きではありましたけどね(笑)。)
月日は経って、私は就職しました。
入社2年目当時だったでしょうか?
コピーを取るように指示されて、新しく入ったコピー機の使い方がよく理解できずに、試し刷りしようと思って、一枚をミスったところに、何かと口うるさい上司が通りかかりました。
「あっ・・・・・」
と鬼の首を取ったような顔で、絶好の機会とばかりに、
「ツヴォイ、お前、コピー一枚取るのに、いくらかかると思ってるんだ!」
「分かりません・・・・・。」
「コピー一枚とるのにもお金がかかってるんだぞ。自分のお金じゃないと思っているから平気でそういうことができるんだよ。自分の金だと思え。
お前たち新入社員は分からんだろうから、平気でそうやって無駄遣いする。今でこそ大企業とか何とか言われてそう思ってるかもしれんが、俺達の時代はまだまだ小さな会社でそうじゃなかったから、皆が節約する意識を持っていたよ。
もっと『経営者』の感覚で仕事にあたれ。」
「・・・・・・・・はい。すいませんでした・・・・。」
合点のいかないまま、一応の返事をしました(笑)。
「経営者」ってのは、従業員のコピー一枚のミスまでガミガミ口うるさく言わなきゃいかん人だとしたら、そんな人にはなりたくないなぁ、とせいぜい思ったものです(笑)。
って言うか、時間当たりの人件費が高いその上司が、教育とか指導とか、そういう自覚を持って喋ってるコストの方が、コピー一枚のコストよりよっぽど高いだろ、と思うんですけどね(笑)。
って言うか、そこまで言うなら、新しいコピー機なんて、新たにコスト使って投入するなよ、とか心の中で屁理屈こねるわけです(苦笑)。当然、言わんけどね(笑)。
(あと、ダンボールを積み上げるのを失敗した時に、
「お前、このダンボール、いくらすると思ってるんだ!?」
と言ってくる面倒な先輩がいて、
「いくらなんですか?」
と聞いたら、
「俺も知らないけど・・・・・。」
と言っていた人もいたな(笑)。ありゃ、漫才だよ(苦笑)。)
そういうことが日々の他愛ない出来事によって、物事というのは影響されていくのだと思います。
どんなに自分の価値観だ、自分の個性だ、自分の人生だ、といったところで、生まれてから今日までに関わってきた人や環境によって、影響されているわけですから、
本当に、「誰が何を言ったか」というのは大きいですね。
前のブログで、
↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
「経営」とは何か?について書きましたが、同様にこの「経営者」というのもまた極めて曖昧に適当に、人によって勝手に使われている名詞のように気がします。
「経営者」というのは、「経営」する「者」ですから、「経営」の定義が本人なりに明確でないと、そもそも何をする者なのかが不明確なわけで、
だとすると、「経営者」と称している本人が、自分は何をする人なのかが分からずに生きているというこになります。
「経営」共々、「経営者」という言葉ほど、その認識が人それぞれでバラバラなものはありません。
それからさらに月日が経って、私は家業に戻り、「経営者の息子」という立場になり、世で言う「経営者勉強会」や「経営者セミナー」等に行くことになります。
そこで分かったのは、「経営者」という言葉は、かなり適当で曖昧に関わらず、多くの人は共通言語として使い、互いに理解し合っていると認識してるんだろうな、ということでした。
さらにその後、私は廃業し、他人と資本を出し合い、会社を創ることとなりました。筆頭株主でないに関わらず「社長」という立場があったことから、
「プロの経営者」とはどういう人なのか?どういうことをする人なのか?をしこたま考えさられることになります。
資本家と経営者は違います。資産家も資本家も経営者も違います。
ただ、中小零細個人企業のほとんどは、資本と経営が同一人格の中にあるが故、ごっちゃにして語る場合がほとんどなのだと思うのです。
幼少の頃の親の影響→大学時代のアルバイト→サラリーマン→3代目の後継者→廃業→起業・立ち上げ→筆頭株主ではない社長→副社長の立場で株式上場・・・・
様々な場で「経営者」という言葉について語られ、影響されてきましたが、皆が皆、それぞれの想いや定義を語りはするものの、「どうなったら『経営者』という人になる」という明確な基準は皆無でした。
にも関わらず、「経営者とはこうである」という自分の基準を他人に植え付けたがる人も多くいました。
それは相当にカッコ悪い行為のように見えてしかたない。
こっちが頼んでもいないのに、承認を要求してくるようなその姿は、私から見るととても滑稽で自信のなさを露呈させているかのようでした。
そんな中、強烈に印象に残る出来事がありました。
中途採用の面接をしていて、そのお相手に、
「あなたはどんな仕事ができますか?」
と聞いたところ、
「はい、私は『部長』ができます。」
と答えた人がいて、心の中で爆笑したことがありました(笑)。
なんだよ、それ(笑)。さっぱり分かんねーよって(笑)。
でも、これヒントだったのですね。
社会に出て、いつしか人は、職位や立場で人を語るような人になっていく傾向があるのだと思います。
その人がどんな人なのか、職位や肩書など、余程のことがない限りどうでもいい。
「何をしてきて・何かできて・これから何をしていこうとしている人」なのかどうかです。
そういう意味で、「経営者」とか「社長」というのも同じなわけです。
果たして自分は、「何をしてきて、何ができて、何をしていこうとしている人です。社内の立場は経営者です。」と言えるのか?
それによって他人は、その人がどんな人なのかを認識するのだと思います。
「アパレルメーカーで5年間営業をしていて、家業がピンチだと聞いたので何とかしないといかんと思って戻ってきて、この一年、傘の営業を手伝っている経営者です。今後は赤字4500万の状況を1年で黒字転換させようとしていいます。」
と言えばいいのです。
それを聞いた側が、果たしてこの人を経営者かどうかを判断するかは、聞いた側の経営者観に委ねられるということです。
「まだ何も知らないバカ息子さんで経営者じゃないね。」と言う人もいれば、「立派な経営者だね。」と言う人もいるでしょう。
そんもんは第三者が勝手に思ってればいいのです。
「家業を再生すべく10年頑張ましたが、結果廃業しました。これから自分のやりたいと思っていた仕事を起業し始めた経営者です。5年で上場しようと頑張っています。」
と言えるかどうかです。
それを聞いた側が「こいつは負け犬の遠吠えなだけで経営者ではない。」と思うも勝手だし、「この人は面白い。立派な経営者だ。」と思うも相手の勝手としか言いようがありません。
「傘屋の家業廃業後、リサイクルショップの店舗展開を10年で株式上場の経験をさせて頂きましたが、革ジャン着るのもいちいち配慮しなきゃいけないし、チ○ボコとか言っちゃダメらしいし、そんなの全然面白くないと思って退任した「無職」です。これからは今までの経験とスキルを通し、同じ悩みを抱える中小零細企業個人企業に従事する皆さんの業績アップのお役に立てるようになりたいです。」
と言えばいいのです。
私が自分で、「経営者です」「無職です」「サラリーマンです」と、職位や立場を言おうと言わまいと、
私が何者であるかというのは、私の事実を聞いた相手が勝手に認識して、勝手に評価するということなのだと思うのです。
こんなこと、私はとても簡単なことだと思っていましたが、この3つがキチンと言えない人は案外多いんだな、ということにも気づきました。
自分は「経営者」だと言う人はいても、「自分が何者か」が認識できていないわけです。
だから、何をやったらいいのかが分からない。
面倒かも知れないけど、自分で考えるしかないんでしょうね。
「自分の人生の体験・経験から何を学んだのか?」ということと「ビジョン」というのは一対なのだと思います。
どちらか一方では、軸は成立しません。
そういう経験と影響を繰り返しながら、考えながら、私が行きついたのは、結局のところ、「何をもっして経営者と自分で言い切れるかは、それは自分で考えて、自分の基準を持て。」ということなんだなということです。
その定義や考えに、客として、従業員として、取引先として、共感するかどうかは他人が決めることです。
ただ、現時点で、一つ言えることはあります。
「お前は将来経営者なれ。」「お前は経営者の気持ちになって考えろ。」「お前はまだ経営者ではない。」「お前は早く一人前の経営者になれ。」
と様々な場で様々な人から「経営者」という言葉を聞いてきましたが、言っている人のその言葉だけでは、それが果たして何者なのかがまるで見えなかったということです。
見えなかったか、言っているその人が「経営者」という肩書があったとしても、その人のようにはなりたくなかったということです。
見えない者には近づきようがありません。
逆に言えば、見えて、そうなりたければ、近づきようはあるということです。
そういう意味で、強烈に憧れる相手がいたら、それはかなりラッキーと言えます。
巷で言う、師匠とか、師事するとか、そういうやつなんでしょうけどね。
「自分は何をしてきて、何ができて、何をしていきたいのか?」というのがあるとすれば、
すでにそれをしてきている誰かに影響されていると言えますから。
自分で考えるのはもちろんですが、その一番のヒントとなるのは、自分があぁなりたいと思える「経営者」という肩書の人を目指して、
「あぁいう人になりたい」と目指せるのが、自分の持つ「経営者」の一番分かり易い答だということになるでしょう。
今のところ、私はそう考えています。
だから、そうとでもしとかないと、つじつまが合わないわけです(笑)。
「経営者」には色んな人がいすぎて、誰もが「経営者とは・・・・」と、自分のことを言いたがりますから(苦笑)。
私にも、「理想の経営者像」という人は実際にいて、強く影響を受けています。
ただ、その人が果たして世の中でいうところの「経営者」と評されるかどうかは分かりませんが(苦笑)。
自分にとっての「経営者」とは何者なのか?
それは、
「○○さんみたいな経営者になりたい。その人は、こういう生き方をしてきて、こういうことができて、これからこうしていこうとしている。私もあぁなりたい。」
というのが、その人の「経営者」観のヒントなのかも知れません。
そう考えれば、もし、誰かに「経営者」云々を語りければ、誰かに語る前に、誰かから聞かれるような、憧れられる存在になるよう努力することが一番の近道なのかも知れませんね。
結局は、他人にとやかく言う前に、自分を磨き続けるしかないということなのでしょう。
そう考えると、グウタラでいたい私は、やっぱり「経営者」になんてならなくていいや、と子供の時と同じように思うのでした(苦笑)。