意識から入るのか、形から入るのか?
これでも、たまにはちゃんと勉強してるということをアップしとかないと、
本当にアホなだけな奴に思われると思って、分厚い本を読んでるところを撮ってもらおうとしたら、
スマホを向けられた途端に、自動反応でストローを鼻にブッ刺してしまって、
「アホに見える」のではなくて、「単なるアホ」なだけではないのか?と、
疑心暗鬼になっています(苦笑)。
「意識を変える」「思考する」「よく考える」といった言葉はよく言ったり、聞いたりしますが、
それらは外側からは全く見えません。
「ちゃんと考えたのか?」と聞いて、「はい、考えました。」と言われても、本当のところは、よく分かりません。
「意識したのか?」と聞きて「はい、意識しました。」と言われても、本当のところは、よく分からないのです。
見えないからです。
意識が変わろうが、やる気がどうだろうが、行動行為として現れなければ、意識などできていないと見なされる事例は、山ほどあります。
よって、意識を変えたければ、そもそもの意識が変わるかどうかより、
行動行為の型から入って、所作としてキチンとできた後から意識は身に付く、という考え方はアリで、一つの方法ではあります。
そういう意味では、
私は、日頃から勉強することは意識はしているものの、
こうして画像に収めようとするとアホ丸出しになってしまうわけで、
そうやってアホの形から入ってばかりいたら、中身までアホになってしまうという逆説的な論法は成立してしまうわけです。
元々がアホだから、こうしてやってしまうのか、
こんなことばかりやっているから、どんどんアホになっていくのか、
それは分かりませんが、読もうとしていた本のページが一向に進まなかったことを鑑みるに、
どちらから入っても、やはりアホはアホだという事実しか残らない、ということがよく分かってきた昨今です(苦笑)。