発信する言語に人間観は宿るのか?
新幹線に乗ったら、中年のサラリーマン風のスーツ着た4人組のオジさん達がドヤドヤと入ってきて、
(ちなみに私はオッさん(笑))
席の通路挟んだ辺りで、「俺、17番のAだから、あぁココ、ココ。」とか言って荷物あげたりコート脱いだらしてるから、ヤな予感したんだけど(苦笑)、
案の定、シートの前後ろを回して遠足状態の席にして(笑)、缶ビール空けて、宴会モードが始まった(苦笑)。
って、まだ夕方4時10分なんだけどね(苦笑)。
こういう状態になると、宴会がヒートアップしてバカ丸出し話がうるさくなるんだろうなぁ、と思う反面、
楽しい人間観察ができるから楽しみでしかたない気持ちが込み上げてきてしまって、複雑なわけですが(苦笑)、
(私は趣味が悪い(苦笑))
ほとんどどぉでもいい会話なんで、特に聞いてなかったんだけど、
どうやら、お決まりの同僚批判・上司批判・体制批判が炸裂し始めてて(笑)、
そうなると、ここぞとばかりに、みんな自分の正しさ全開・無責任丸出しで主張しても、
とりあえず聞いてもらえる状態だから、ステキなコミュニケーションが始まるのでした(笑)。
ってか、個人名から業務内容まで、聞きたくなくても丸聞こえだよ、あんたら(笑)。えぇんかい?みたいな(笑)。
もう楽しくってしかたない(笑)。
(私は趣味が悪い(苦笑))
てか、社員証のネームプレート、首から下げたまんまだし(笑)。
夕方4時から仕事放棄して宴会やってる側が、どうして他人の仕事内容やマネジメント能力を、果たしてとやかく言えるのか?(笑)ということや、
「新しい仕組みを導入するのはいいけど、そんなことをまず理解するだけの時間がないのが問題だ。」と言うけど、今あるじゃん、今、その時間、ビール呑んで生産性のない話してるその時間(笑)、ということを、
聞いてみたくて聞いてみたくて(笑)、そのウズウズを止めるのに必死になるわけです(苦笑)。
(私は趣味が悪い(苦笑))
こうして集まると、まぁ共通のネタは、共通の知り合いだったり、同僚・上司になってくるから、
コミュニケーションツールの一つとして、誰かをネタにして評論するというのは、よくよくあることだろうし(苦笑)、
(私は知らないところで、きっとボロクソに言われている(苦笑))
その話自体は大した意味も、そこまでの意思を持って喋ってるわけじゃないだろうし、
明日になったらどうせ大人になって、ネタにしてボロクソ言ってた相手とも、うまく関わっていく程度なんだろうから(笑)、
それはまぁそこまでとは思いません。
(ちなみに私は他人の悪口言うのは大好き(笑))
でも、そんな会話の中で、強烈に反応してしまったのがあったんですね。
「だけどさぁ、◯ ◯ さんってさぁ、人使えねぇじゃん。」
私、実は、この「人を使う」って言葉に強烈な違和感を感じてしまいます(苦笑)。
「使う」って、モノや機械じゃねーんだからさ。
まぁ、言いたいことの意味合いは分からないでもないんですよ。
でも、この言葉を使っちゃう人って、なんかすんげえ「さもしさ」や、「自信のなさ」や、「心の歪み」や、「屈折した何か」や、強烈なコンプレックスや、耐えきれない劣等感を抱いてる人のように、私からは見えてしまうんだよなぁ。
同じ意味合いだったらさ、まだ、コミュニケーション能力が低いとか、部下のモチベーションをあげられないとか、リーダーの資質に問題があるとか、求心力に欠けるとか、そういう言葉を選べばいいし、使えばいいじゃんね、と思うのです。
きっと、この会社に入った若い人達は、劣悪で酷い環境にさいなまされるんだろうなぁ、と予想してしまいます。
オレ、絶対行きたくないね、自分を使おうと意図する会社なんて。
こういう言葉を使う人って、「自分は人を使う側」と認識していないと、自己の優位性を保てない、あるいは失ってしまう何かがある人なんだろうな、と思えてしまうのです。
「人を使う」側でいたい欲求を持った人ほど、人としての品格や品性や評価を落として、人が相手をしなくなっていく怖さを知らない。
私なら出来るだけ離れて、縁を切ろうと目論むからね。
私だったらイヤですね。
人として生きているのに、まるで道具や機械のように、誰かに「使われる」なんてのは絶対に嫌だ。
ふざけんなよ、と思う。
人間観として、根本的な何かが欠落していると思う。
いいんですかね?「人を使う」って言ってる人は、誰かに一方的に道具のように使われる仕事や人生でも。
まぁ、それでいいなら、いいんですけどね。
美学や価値観の問題ですから、そうやって生きるのも一つでしょ。
私は、そんな風に誰かに扱われたら、ゾッとするってだけです。
いや、自分から言うならいいですよ。
「私でよければどうか使ってやって下さい。」「それなら、私はこの能力を持っていますから、使えばいいんですよ。」
みたいに、自分から差し出すような場合。
それは、その本人が相手に言っているのですから。
でも、「私は使う側、あなたは使われる側」なんて、同じ人間同士で、そういう区分けをしておきたい心理は、私は理解できないし、とてもみすぼらしいと思えて仕方ない。
そうとでも自覚しておかないと、精神的優位性や優越感を得られないというのは、
よほど自信がないのか、不幸な人生を余儀なくされてきたか、とんでもないコンプレックスや、歪んだ心を持たざるを得なかったか、愛情を得られずに生きてきてしまったか、
そう思うと、もうどうしようもないが故、哀れみに似た気持ちすら抱いてしまいます。
以前、会社の幹部会議みたいなのがあって、
「いや、こっちは決めるだけでいい。あとは部下にやらせればいいんだから。」
と、「決めるのはこっち、やるのはあっち」みたいな発言をした「うすらバカ」がいて、
そのくせ、部下からの求心力や支持や人事権は欲しくて欲しくて仕方ない様子が伺えてしまうダイプで、
それが、もう痛々しいほどに辛そうで、かと言って何もしてあげることなんてできなくて、
もうこいつダメだな、と、それこそ見下してしまって、それ以来、もうその人への印象が変わることはありませんでした。
そういう、人を、自分の欲する何かの為の道具のように使おうとする心理や発言が、私はきっとすごくすごく嫌いなのだと思います。
あぁ、思い出してきた。
店舗を24時間営業にするかどうかの話し合いしてて、計算したら利益が出る算段がつきかけて、やってみようかとなった時に、あるボケナスが、嬉しそうで醜悪な笑みを浮かべながら、
「働く人、可愛そう〜。」
って一言言いやがって、そういう瞬間に出るんですよ、その人の人間性が。
「可愛そう」というのは、前提に「私はそうじゃないけどね。」の心理が隠されているから、
私はそんな仕事やらない、という気持ちが丸見えで、でも、そんな仕事を店舗のスタッフにやらせようとしてるなんて、
なんてクソ野郎だ、決めたのなら率先してやるだけの覚悟をまずこっちが見せるべきだと思っていた私は、
もうその時点で、その人に対する気持ちが終わりましたね。
それからは、ずっと見下してました。
そういう言葉とかって、そりゃ、明らかにシャレや冗談だと分かる場合は、理解もするし、使ったりもするかもしれませんよ。
でも、ガチでそう思っていたり、言葉を発するのは、どうしてもダメですね。
透けて見えたら、もうアウト。
とてもとても一緒に人生を送ってなんていけない。
そんで、まぁ、ここまで書いてきて分かるわけですが、
これは私の価値観であり美学の問題なのだから、私がそういう言葉を使わなければいい。
誰かがその言葉を使っていても、その人の勝手だし、
別のどの言葉を誰がどう使おうと、その人の勝手です。
そんだけのことです。
でも、私は、そういう言葉を平気で使って、共通言語として成立しているような人達とは関わりたくないので、関わらないという選択をするだけです。
余談ですが、私自身は、他人の悪口や批判は大好きです(笑)。
大好きではありますが、よほど気心知れた相手や、意図を理解してくれる相手にしか、そういうことは言えなくて、
例えば、こういうブログや、公の場で、批判や批評や悪口はとても言えません。
(よって、公の場でボロクソ言える相手のことは大好きだということですからね(苦笑)。)
それは何故かといえば、公にしたが最後、前記したような、そうでもしてなきゃ精神的優位性が保てない、優越感を得られないほどの心の歪みや、自分では返しきれないほどのコンプレックスを持っているのだな、と思われるリスクを、自分に取れないからです。
今回、私が感じてしまった、あの4人のオジさん達のように見られたくないからです。
要するに、勇気がないと言えば、勇気がないだけなのですよ(苦笑)。
公で、ブログでSNSで、正々堂々、誰かの批判を元に主張を展開する人はいるにはいますが、私は神経を疑いますね(苦笑)。
正直言うと、私からはとてもまともな人間とは思えない。
特にブログやSNSは、書いている時は、個人の作業だから、書いてる最中は、書く作業は誰も止められない。
話しているなら、話の途中を遮ってでも止めたり、言い合いになったりできる。
でも、書いてる作業の最中というのは、思うがままに、どんどん自分の良かれと思った脳内で暴走してしまう。
(このブログも(笑)。)
書いて発信した後に、誰かに注意されて、削除したり編集したりはできるだろうけど、
少なくとも書いてる最中は自分だけの世界だから、誰からも止められない。
それが出た瞬間というのは、その人の全てが露呈されている訳だから、その時が恐いと言えば恐いのです。
その人の生まれてから今この瞬間までの全てが、モロにストレートに表現されてしまう。
私から見て、この人歪んでるなぁ、と思えてしまう人達には、決まって私から見た共通点があることに気づいた時があって、
でも、それ言ったら、それこそシャレになんなかったり、人道的に世間様から何言われるか分からないような文言になっちゃうから、とてもとてもここでは書けないけど(苦笑)、
ほぼ確信に近いものがあります。
私は、そうは全方向から見られたくない、というだけのことです。
そんな勇気ないということです。
そういう意味では、あの言葉も、公での誰かの批判も、「言う・言わない」「書く・書かない」と意味で、
人社会でどう生きていくのか?という価値観や美学や道徳観として、同義なのでしょう。
日頃から、チ◯ポコとか、ウ◯コとか言ってはキャッキャと喜んでいる私が言うのも、まるで説得力などないとは思いますが(苦笑)。
こうして、ブログやSNSが一般化され、これからのビジネスや生活に不可欠なものになればなるほど、
その人の、普通とか道徳観とか人間性とか、そういう目に見えなかったものが露呈され、あからさまになっていくのだろうな、と思います。
でもそれは、決してリスクではなくて、より人間を知り、より自分の存在を知るということに今までよりも大きな広がりをみせながら、次に繋がっていくと思うのです。
そして、自分は、どんなステージの誰と関わっていくか?が大きく問われていくのだと思うのです。
環境が人を創るとしたら、自分が生息する環境や人の集まりというのは、その人の普通を構築していくわけで、本当に大事でしょうね。
例えば、会う前に、絶対会いたくない人が分かるとしたら、それはお互いにすごく分かりやすく、人生を効率的に進める時代と言えるでしょうね。
そんなことをあれこれ思いながら、名古屋で私は降りましたが、あの4人のオジさん達は、まだ乗っていました(笑)。
どこまで、何を喋りながら帰っていって、そして、今頃何をして、明日は何を考えて生きて、そしていずれ死んでいくのだろう?と、
恐らくはもう二度と会わないだろう人達へ、心の中で、せめて、さよなら、お陰様で、こんなクソ長文を書きたくなるほどに、勉強になりましたとお礼を言うのでした(笑)。