期せずして来ていた「未見の我」の時期
片方で、
走り出してみないと、分からないことがある。
登ってみないと見えない景色がある。
だから、やってみる。始めてみる。
もう片方で、
始まりがあれば、必ず終わりがある。
出会いがあれば、必ず分かれがある。
生まれてくれば、必ず死ぬのである。
期せずして、今の仕事や生活になって、気がつけば5年が経とうしていて、
兎にも角にも、自分なりに、全力で、一所懸命に、一つ一つに集中して、
恐らくは走ってきたのだろうな、と思います。
5年前に、大体まぁまぁ、10年くらいかけてここくらいまでできたら本望だな、とおぼろながら見ていたことは、
気がつけば、もうすぐ目の前に来ていて、
それほどまでに、克明に映像化された将来ビジョンというものは強烈なのか、
あるいは、自分に対する可能性や期待や自覚が浅すぎたのか、
あまりの多くの新たな出会いと、そして唐突な分かれにいつのまにか疲弊していたのか、
久しぶりに新鮮な戸惑いを感じながら、深呼吸するような時間に至りました。
全ての始まりが終わる時、私がどうしても欲しいのは「大発見」という、私にとってはかけがえのない価値であるが故、
あぁ、そういうことか、と改めて分かったり、自覚したり、落胆したり、新たな研究課題が生まれたり、
理由はどうあれ、予想よりも早く、そういう時期がやってきたのだと思います。
フと公園を見ると、コンクリートの大きな遊具があって、
子供心に火がついて、無性に駆け上がりたくなりなりました。
やってみたら、昔のようには一気に駆け上がることができないことにすぐに気がついて(苦笑)、
年甲斐もなくこんなこと、と思う反面、これくらいなかなか行けなくて、でも無条件に駆け上がりたくなる焦がれる何かがないと、
そうか、走り出すこともできないと気づくわけで、
どうあれ、一つだけ言えることは、次のステージに向かう時が来ているのだろうな、という、そこまではやっと理解するのでした。
「未見の我」ほど楽しみなものはない。
久しぶりのこの時期は、片方でとても面倒だけど、片方でとても高揚するわけで、
じっくり時間をかけて堪能してみようと思っています。