これからの資本主義社会でいかに生きていくのか①

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このシリーズのはじめに

私達は資本主義という社会のシステムの中で生きています。

資本主義というのは、簡単に言うと「資本を多く持っている者が有利」あるいは「強い」という主義です。

それは、「好き・嫌い」「良い・悪い」ということはさておいて、今の環境なわけで、仮にそれをイイだ悪いだギャアギャアいったところで、それはもう今日現在はどうしようもないわけで、そこに基づいて生きるしかありません。

その範囲で、どう生きていくかの選択は人それぞれであり、私も、社会に出てから、様々な立場を経験して、様々なことを知りました。

 

社会の中では「立場」から始まる

社会における一つの立場として「経営者」というのがあります。経営者とはよく聞きますが、果たしてどういう「者」を経営者というのか、ずいぶん長い間模索してきたような気がします。

 

「経営者勉強会」や「ビジネスセミナー」といった場に行ってご挨拶する場合、

「○○という会社の経営をしています。」

「まだ経営者ではないんですけれども・・・・」

とか、そういった社会的立場に基づいて挨拶をする場合は普通にあります。

 

名刺に書いてある役職や職位名(代表取締役とか社長とか専務とか部長とか、何とかアドバイザーとか)を見て、

「ご創業ですか?」とか「後継者さんですか?」とか、

「あぁ息子さんなんですね。」とか「実は株主とは血縁のない経営者なんですけどね。」とか、

「社員さんはどれくらいなんですか?」とか「事業規模はどれくらいなんですか?」とか、

そういう会話を進めていきながら、その人が何者なのかを、取りあえずそういう社会的立場を認識しながら関係ができていきます。

ただ、関わったり話を進めていく間に、私から見れば(あくまで私から見れば)、

「この人は、社会的立場としては経営者と見られないかもしれないけれど、他の立派な経営者にも劣らないくらいスゴイ経営能力を持っているんじゃないか?」

と思う人もいれば、

「名刺の立場だけは代表とか社長と書いてあるけど、経営者としてやっていくにはちょっと厳しいんじゃないかなぁ・・・。」

と、思う人もいます。

あるいは、

「『人』としては尊敬できるけど、『経営者』としてはズレていないか?」

と思う人もいるし、

「『経営者』としての実績は高く評価されるだろうけど、『人』としては、こいつ救いようのない最低のバカだな。」

と思う人もいます。

その全ては、私の人生の中で、本やセミナーで学んだり、実際に経験してきた上で定義している「経営者観」であり、最後は私個人の定義であります。

 

「立場」の認識はどこで持つのか

辞書や書物を読めば、あるいは今の時代、ネットで調べれば、その言葉の意味や定義は、言葉では説明はしてくれて簡単に手に入ります。

それで100%理解できたと自覚できればいいのですが、さらに「説明しているその言葉の意味」を調べる必要にかられて(例えば、『経営者とは経営をしていく上でのリーダー』と書いてあるすると、今度は、『経営』とは何か?『リーダー』とは何か?と探求していくということ)、どんどん研究していくのか、しないのか。

研究していく過程の中で、さらに深く研究をしていくのか、どこかで諦めるのか。

実際にその立場を経験してみるのか、しないのか。してみたところで、どの時代の何をどの期間経験したらできたと自覚するのか・・・・・・。

長期間経験したから分かるのか、増収増益をし続けたらわかるのか、株価が高値更新していたら分かったのか、納税額が一番になったら分かったと言えるのか、でも、その後倒産したらどうなるのか・・・・・、

そう考えるとキリがなくなってきます。

そうやって考えてみると、どんなに勉強しても、経験してみても、結局最後は「私の経営者観」に留まって、それを信じるということになります。

 

「立場」の共有はできるのか?

「坪井商店」の後継者として家業に戻ったころ、勉強会や研修の場において討議や議論をしていく間に、相手がついつい熱くなって、「お前はそれでも経営者か!」とか「それでは経営者としては失格だ!」「お前みたいなこと言ってる経営者がいるからダメなんだ!」とか、意味も分からず言われることがありました(苦笑)。

今思えば、それを言っていた彼らは、何をもってして「経営者」という「者」のことを言っていたのか、そもそもそこが分かりません(笑)。

中には、昨日まで「坪井は俺が経営者として教育してやらないとダメだな。」と言っていたはずの人が、私の経営に対する考え方は変わっていなかったとしても、株式上場した途端に、私に対する態度が180度変わったりする人もいます(笑)。

 

逆に「私は経営者です。」と言い切る人もいましたが、よくよく聞いてみると「経営者感覚になって今の仕事に従事している優秀な社員。」ということを言いたいんだなという人もいたし、「今はサラリーマンだけど、将来は経営者になるという夢を持っている」ということを言いたいんだなという人もいます。

現在でも「坪井の経営者としての見解を教えてみてくれ。」というような話はよくあって、聞かれれば私なりの見解は述べるはしますが、実は、その相手が何をもってして「経営者」と言っているのかは厳密には分からないまま、「坪井の経営者観」に基づいてベラベラ喋っています(笑)。

私の今現在のお仕事では、経営者ご自身の相談に乗ることもあるし、社員教育の為に出向く時もあります。講演のご依頼でも、対象は経営者と限定される時もあるし、ある会社の従業員のみが対象の時もあって、それはそれぞれの経営者やご依頼者の職位に対する定義を、本当はちゃんと聞いておかないとご期待に応えられるかどうか分からない。

前職の時なんかは、私の名刺に書いてある職位は、社長や副社長という立場を変えながら、株式上場はしましたが、資本の背景(私の持ち株比率)を知って「俺は経営者だけど、坪井はサラリーマンなんだね。」と言う人もいました。

そういう人に「君の定義する経営者とサラリーマンの違いって何?」と聞くと、中には「最終意思決定者」とか「自由にやり方を決める人」と答える人はいますが、では、「無職」という社会的立場の私はどうでしょうか?

私は今「無職」という立場で、やるかやらないかの最終意思決定は100%自分でしていますし、自由にやり方を決めているかどうかと言えば、私の社会人生活の中で最も自由を実感しています。

「さて、私を世間一般で経営者と呼びますか?」と聞くと「う~ん、違うよね・・・・。」となるので、「じゃあ、明日、事業所届けを出したら、明日から経営者でいいのですか?」と聞くと、さらに「う~ん・・・、いや、俺が言いたいのは・・・・」となって、要するに自分の言いたいことだけ言いたいのか?と突っ込みたくなるような話の展開になったりもします(苦笑)。

当の私の心境としては、前職の立場の時は「経営者」の自覚はありましたが事業規模が大きくなり株式上場に近づくにつれて「自由」という概念は日に日に薄くなっていき、ついには上場後にその糸のバランスはブチ切れました(苦笑)。

逆に、今は「経営者感覚」はもっていると自負していますが「経営者」ではなく、「無職」と自覚していて、でも「自由」に関しては100%自由でいると自覚しています。

「無職」の私が、世の中で素晴らしい実績を創ってきていたり、尊敬する部分がたくさんある「経営者」を相手に講演や、その相手のアドバイスしている現実や、経営者向けに本を出してみませんか?とおススメされるに至っては、一体どないなっとんねん?となります(笑)。

 

持ち株比率はゼロでも、父親の後を継いで役職名だけ社長とか専務という立場の人で、何の経験も勉強もしていないけれど「自分は経営者だ。」と自覚している人もいるし、あるいは、後継者でその本人は会社の利益に対してまったく貢献していなくても親がコツコツと会社の資本を本人名義に移していて、資本比率だけは、どんな長年勤めて利益に貢献してきた社員よりも大きくて、何の貢献も実績もないけど「自分は経営者だ。」と自覚しているけど、周りは誰一人として経営者としての実力は認めていないから、あんたまだ経営者じゃねーよ、という人もいます。

「自分はサラリーマン時代に月売りNo.1の実績を更新し続けることで「自分は経営者になれる。」と自負している人もいます。

 

社会に出る前から「立場」は芽生え始める

私が、中学・高校の頃「いいなぁ、坪井は経営者の息子だから。」と友人に言われて、「何で?」と聞けば「だって、経営者の家の子は金持ちだし、将来の心配なんて何もいらないじゃん。」と言うので、「はぁ、何か俺のこと見て、羨むようなことでもあるんかな? 家なんてボロいし、プロレス雑誌一つ、洋服一つ買ってもらうのにも、とんでもなく苦労するほどお金なんてないのに、何がいいんだろうか?・・・・。」と思ったこともあります。

中学校の時にある先生からは、「お前は、普通の高校に行って、普通の大学に行って、普通の会社に勤めて生きていくような人ではないんだ。そんなことやっててどうする? 親の気持ちをよく考えて経営者の息子ならもっとしっかりしなさい。」と叱咤されて、(まだ親にもなったことねーのに、どうやったら分かるんだよ・・・・)と、意味が分からなかったこともありました(笑)。

あまりに勉強をしなくて、成績にバラつきがあったので、別の先生からは「坪井君は、経営者の息子だから結局甘いのよ。やればできる子なのに必死になって勉強しない。サラリーマンの家の子達は、み~んな、必死なのよ。親が、いい学校に行って、いい会社に就職しなければ、幸せになれないことを身を持って知っているから、そういうことを環境の中で教えられているの。今やらないと将来後悔するのよ。自分のことなのよ。ちゃんと考えないと・・・・。」とご丁寧に言われて、私にしてみれば、(このババァ何言ってんだ? だったら、先に親に経営者やめさせろよ。って言うかサラリーマンの家の子は全員勉強ばっかりしてんのかい? 俺より成績悪い奴は一人もおらんのかい? 経営者の子供はみんなバカなんかい? 俺はバカだけど、姉貴も弟も成績すげーいいぞ。)くらいしか思えなくて(笑)、勉強のモティベーションにも繋がらなかった記憶にも「経営者」というキーワードが出てきました。

高校当時はもっと勉強なんてしなくて、高2の一学期の通知表は、10段階中の「2」が3つもあって(笑)、それが主要科目の「数学」「英語」「古典」の3教科で(笑)、こりゃ進級すらもヤバいということで、補習も受けて必死になって勉強して二学期の通知表は、「8」とか「7」とか「9」になって、こりゃ、保護者面談の時に褒められるかと思っていたら、母親が血相変えて帰ってきて(笑)、先生に何て言われたかと言うと、「私の長い教師生活の中でも、ここまで一学期の間の成績に落差がある子は見たことがありません・・・・。やれる力は持っているのに、やる時はやるけど、やらない時は全くやらないという、バラつきが極端なこういう子は社会に出た時に一番心配するタイプの子なんです。このままだと、これから大変になりますよ・・・・。ご家庭でよく話し合って下さい。」と言われたらしく(苦笑)、母はそれがとても響いたようで「だからもっと必死になって勉強はちゃんとしなさい、あんたは将来この家を継いで「経営者」にならなきゃいかんのだから、ちゃんと勉強しなさい。」となる(笑)。

当時のアホ全開の私からしてみれば、(じゃあ世の中の「経営者」ってのは勉強がいつもできて、学歴が高くて、常に同じ精神状態を保っていなきゃいかん人なのか? それを言ってるあんた達側はどうなんだ? 経営者だけど、学歴って高いのか?いつも同じ精神状態なのか? そもそも、今の今、血相変えてるじゃんか(笑)。大体、あの先生、バカじゃねーのか?「見たことがない」って言ってるのに「一番心配」って論理破綻してねーか(苦笑)? 大した努力もしてないのに「8」とか「9」取ってる美術の先生からは、美術大学行けばいいのにって言われてるのになぁ。)と神妙に聞いてるフリして心の中で思ってるわけです(苦笑)。

 

大学生になって、東京・日野市の下宿屋のおばちゃんに両親と共にご挨拶しに行ったとき、父の名刺を見たおばちゃんは「はぁ、ご立派な方なんですね。」と言っているのを見て、何故か誇らしかったこともあるし、逆に、「商売屋の家になんて絶対に嫁ぎたくない。」と言う女性もいて、「何で?」と聞けば「大変だから。」というウルトラシンプルな答えだったりしました。

何が「立派」で、何が「大変」なのか、その人がなぜその言葉をつかうのかの背景は分からなくて、でも、結論の言葉だけは耳に入ってきます。

大学生の時に、マルクス資本論のオタクかと思える程の友人がいて、「お前んちの親は、経営者なのか・・・・。お前らは、うちみたいな労働者階級の生血を吸って生きてる略奪と搾取の生き物だ。よくもそんな生き方して平気でいられるな・・・・。」と言われて、「俺は吸血鬼なんかい!?」と笑ったものの、そんなもんは学生プロレスとバイト先のファッションビルでどの子とデートするのかで頭一杯だから気にも留めません(笑)。

就職したアパレルメーカーでは、上場準備にあたり「社員持ち株会」をつくるということで説明会が開かれて、全員出なさいとなりましたが、クソ忙しいのになんでそんなこと聞かなくちゃいけないんだよ程度で参加して、聞いても何言ってんのか分かるわけなくて(笑)、周りの人がどうするのかを見ながら、じゃあ自分もそうしとこ、程度なわけです(苦笑)。

 

同じ経営者の家に生まれた子供でも「親の姿を見ていて、経営者になりたかった。」と言う人もいるし、「親の姿を見ていて、将来、経営者だけには絶対にならないと決めていた。」という人もいることを知っていく訳です。

実際の「経営者」でも、本当に楽しそうにイキイキと仕事している人もいるし、地獄にでもいるんかい?と思える程苦しそうな人もいます。

 

「立場」に「人」としての上下はあるのか

ビジネスパーソン共通のセミナーや勉強会の場で、立場が「経営者」というだけで、参加している「社員」を小馬鹿にするような態度をとったりする人もいるし、そういう人の中でも、起業した人もいれば、後継者に生まれてきただけで労せず「経営者」の立場についている人もいます。

逆に、すごい実績を誇る経営者でも、社会的立場に関係なくキチンと人と関われる人もいれば、私が「無職」と言えば興味ないけど、「上場した無職」と言えば態度が変わる人もいます。

「私は次の経営者を10人育てる。」と言っている人もいるけど、よくよく聞いてみると「それは、あんたのやって欲しいことを代わりにやってくれる運営者のことを言ってるんだろ?」と思う人もいます。

個人でも経営者の人はいますし、5000人の従業員の会社の経営者も経営者だし、毎年増収増益の実績を創りだしている経営者も、連続赤字を更新している経営者も経営者だし、じゃあ、それだけが経営者の評価と言えば、同じ程度の実績でも、あの人は素晴らしい人だけど、もう一人の方に対してはあんなの経営者じゃないと言う人がいたり、社会における評価は実に様々です。

 

「立場」に議論は必要なのか

くそ長ったらしく書いてきましたが(苦笑)、要するに、私にとって「経営者」というのは、その言葉の定義、あるいはその社会的立場ほど曖昧で虚ろなものはなく、その定義は個人の価値基準に委ねられていて、社会共通の認識になっていない。誰も共有できていないけど、目指したり、そのなったら嬉しかったり、満足したり、疲れたり、苦しんだり、そういう「者」って、他にはないんじゃないか?とすら思うんですね。

「あなたにとっての経営者って何ですか?」と誰かに聞いて、その答えを聞いて、それを鵜呑みにしていいのか、あるいは違うと言って自分の意見を言うのか、言ったところで相容れないことが多いから、最初から聞くなよ、とか(笑)。

でも「経営者」同志で集まる場は数多くあるし、「経営者」というキーワードに基づいてコミュニケーションをとっている時は、生きているいろんな場面で予想以上に多いわけです。

時々、経営者論をぶつけてくる人に、「いやいや、ちょっと待ってよ。その話をする前に、お互いの『経営者観』を一致させておこうよ。じゃないと話が進まない。ちなみに、君の言っている『経営者』というのは、マルクスの資本論を前提にしているのか、あるいはマキャベリの君主論に基づいたリーダーシップを語りたいのか、あるいは君個人の主観に合わせればいいのか?どれなんだい?」と、聞きたくなる時はあるけど、でも、そこまでは、ならない訳です(笑)。

それを合わせているうちにタイムオーバーになるだろうし、合わせようとしたところで、果たして合わせられるものかどうかすら分からないから(苦笑)。

なのに、自分も含めた世の「経営者」達は、それぞれが「経営者」と自覚したり、誰かを「経営者じゃない」と評価したり、わざわざ集まって「経営者」同士だから理解し合えると信じて話し合ったり勉強しあったりしようとしています。

なりたい「者」が、実は一体全体何者なのか分からないのに、大きくなったら「経営者」なるんだと思ったり、実際になったり、ならされたり、またさらに実際に「経営者」になって、「経営者」を続けている・・・・・(笑)。

自分が「社員」だった時代に「経営者感覚を持て」と言われて、訳もわからず「はい」と答えたり、でも言った人は上司ではあったけれど「経営者」ではなかったり(苦笑)、私が経営者だった時も部下に「経営者感覚を持って仕事しろ。」と言ったこともあります。(そういえば、「経営者ってどういう人なんですか?」とは一度も聞かれなかった(笑)。)

もう訳が分かりません(笑)。

 

「立場」に正解はあるのか?

誰か、分かります?「経営者」って何者なのか。

分かっている、と言ったところで世界標準規格とか資格とか何か決まっているわけでもなさそうなので、どこまで行っても、私は分からないと思っています。

分からないから、自分の「経営者」観の軸は絶対に持たねばならないし(それは仮にサラリーマンであっても)、よって、他人の「経営者」観は参考にすれこそ、否定したり批判したりは誰もできないとも思っています。

 

とても印象的だった会話があります。

私が家業の後継者だったころ、友人の一人に創業社長がいました。彼は会社規模が小さいことを時々嘆いていました。そういう彼の話を聞きながら、私は本心でこう言ったことがあります。

「だけど、お前は立派だよ。自分だけの力で会社を立ち上げて、自分の力で社会と対峙しながら、こうして年々利益も上げ続けて立派に経営してるじゃないか。それに比べて俺なんて歴史ある会社を継ごうとしたはいいけど、結局赤字経営を続けて、旧態依然とした体質を変えられずに、ビジョンすら描けず苦しんでいるじゃないか。俺から言わせたらお前の方が立派な経営者だよ。」

そしたら、彼はこう返してきました。

「坪井さんは、いつもそう言ってくれるけど・・・・、坪井さんは立派な会社に就職して、その時点でもう俺達なんかより社会の中では選抜されてて、そこで色んな経験して、その時点でもう俺たちとは全然違ってて、そして経営者になって、勉強会のリーダーになって、何でも知ってるし、何でも答えてくれるじゃないですか。俺のことを経営者と言ってくれるけど、俺たちなんて、まともに社会に出て勤めることなんてできないから、しょうがないから、これくらいしかできないなぁ、ということを始めて、そしたら、名刺に社長って書いて、そしたら社長じゃないですか。社長って言ったって、経営者としては何にも知らないし、社員もいないし、入ってきても辞めちゃうし、同じ経営者っていってもそもそものステージが違うんですよ・・・・・・。」

「わっはは!まぁいいじゃん、いいじゃん、飯でも食いに行こうぜ。」

今にして思えば、この些細とも思える会話の中に、私にしてみれば様々な学びのヒントがあるし、何より、経営者勉強会で集う者同士の互いにあるべき姿勢と、そこから自己を見つけるヒントが垣間見えるような気がします。

 

個人の定義を持っておけば良いのか

まぁ、そういう経験をしながら、色んな経験をしながら、「経営者」になりたいなら、自分の「経営者」という定義をそれぞれが見つけていけばいいんじゃねーのか?と思っているし、私は私で持ってるつもりでいるからいいし・・・・・、程度に思ってたんですね。

「思ってた」ということは、今はちょっと違ってきたということなんです。

それは、つい最近の他愛ないある会話からフと思い、よくよく考えてみたら、これから生きていく上でとても大事なんじゃないか?と思ったことがあったから・・・・・・。

特に資本主義社会の中では、分かっておいた方がいいんじゃないか?と思ったんですね。

それはね・・・・・・・・・、

 

次の投稿へ続く・・・・・・・・。

 

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