「最強の理想」とは「完璧な虚像」である
2013年に、スティーブ・マックイーンのカッコいい写真を真似て撮ったアホ画像です。
友人が面白がって、背景をそっくりに加工してくれたのですが、我ながらカッコよくて(笑)、気に入っている一枚です。
「憧れの人」や、「なりたい存在」というのを、聞かれることはあって、それを、例えば、
「世界の人に自己愛の尊さを伝えられる人」
だとして、
そういう概念論や本質論で言ってもよく分からないので、
例えば、自分なりのその具体事例を
「スティーブ・マックイーンです。」
と正直に言ったとしましょう。
ところが、目に見える現象が明確になるほどに、聞いた側の認識でしか判断できないというリスクも生じるわけで、
映画俳優だというだけで、怪訝な顔をしたり、軽い奴だと思ったり、見下したり、
「映画俳優になりたいの?いい年して何言ってんの?」
「もう死んだ人、いない人のこと言ってもしかたないでしょ?」
「そんな人知らない。」
「虚像の世界のことでしょ。」
等の話にしかならないことは多々あって、そういう意味で具体事例のリスクは付きまといます。
こうして明文化する形で出すと、「例えば」と分かりやすくなることを前提にしてはいますが、
でも読んだ人がその言葉が強烈に残り「ツヴォイはスティーブ・マックイーンが憧れなんだよね。」と確定的に思われたりもして、それも含めてリスクです。
(まぁ、マックイーンなら本望ですが(笑))。
「君は、スティーブ・マックイーンの一体何に憧れているのか?」
と聞いてくる人は稀です。
仮にその理由を言ったとしても、最後までキチンと聞いて理解しようとする人はさらに稀だし、
そもそもその時間が取れるか?本当に相手が聞きたいことなのか?聞くだけの姿勢なのか?というのも状況によります。
時には、質問して聞いといて、「俺の場合はね、私の場合はね、」と自分のことを聞いて欲しいから、あたかも相手に興味があるフリして、自分のことを話したいばかりの伏線で使う馬鹿な奴もいて、面倒です。
いや、こっちは聞きたくねーし、お前のことなんか(苦笑)。
だから、面倒くさいから、いっそ、
ヘレンケラーとか、エジソンとか、ニーチェとか、徳川家康とか、聖徳太子とか、明治天皇とか、諸葛孔明とか、孔子とか、両親とか、
そういう、子供の頃から聞かされてきた理解しやすい名前でも適当に出しとけばいいんかな?と思う時はあります(笑)。
ありますが、それは、聞かれた相手への最低限のマナーとして失礼なのではないか?とも思うわけで、それも含めて面倒だったりします(苦笑)。
憧れや理想を聞いてくる人には、その人なりの聞くだけの理由があるのだとは思いますが、
それを元に指導したかったり、何かを示唆したかったりする場合がほとんどです。
ツヴォイ個人に興味を持って、もっと私を知りたいという気持ちで聞いてくる人も稀です。
当然、私程度の者なのだからそれは当然でいいのです。
よって、聞いてきた人には何らか一定の思惑があるわけで、そこから私に対して何かを指導したいとか、諭したいとか、そういう感情や意図があるのではないか?と思うのです。
意識的も無意識も含めて。
私も指導的立場になった時はそうだから、それはそれでもいいのです。
理想や、理念や、ビジョンや、それも基づく「憧れの状態」や「なりたい自分」というのは、経営をしていく上で、自分の人生をどう生きていくかの上で、とてもとても大切だと私は思っています。
それは、とてもとても良く分かるのです。
分かるのですが、そういう意図や感情を持って聞いてきた人に、私なりに真摯に答えたとします。
「分かりました。じゃあ言いますね。
子供の頃から、ウルトラマンや仮面ライダーや、アントニオ猪木といったヒーローが大好きで憧れでした。
でも、大人になるにつれ、それはそれで、表面上では虚像の世界であり意図的に作られたものだと理解できるようになりました。
スティーブ・マックイーンはその延長線上にある等身大のヒーローでした。
あくまでも延長線上です。
映画「大脱走」のバイクの有刺鉄線越え、「荒野の七人」でのリアルなガンさばき、「ブリット」の極限までセリフを削った迫真の演技、「タワーリングインフェルノ」の使命に満ちた隊長の姿、「ハンター」の最後まで全うする姿とお別れとも思えるラストメッセージ・・・・・。
あげれば枚挙にいとまがない数々のその姿を追い続け、美学やダンディズムの強烈な影響を受けていく過程の中、
それもまた、映画という世界の中であり、俳優マックイーンが演じる虚像の姿であることにも気づいていきます。
しかし、私は一つの疑問を抱き始めました。
なぜ、マックイーンの演技には、どの映画も『リアル』が心の中に刻まれるのだろう?
なぜ、アクションシーンやクールな映像の中に、その悲しげな瞳の奥が印象づけられるのだろう?
演技の中に滲み出る人間の素とも思える何か。
本当なのか演技なのか?本物なのか虚像なのか?
いつしか、マックイーンの人生そのものに強烈に興味を持つようになり、
様々な公私に渡る国内海外の写真集や、本や、あまり出ていない自叙伝のようなものや、もちろんネットでも、読み漁り、調べました。
様々な俳優マックイーン、様々な人間マックイーンを知っていく中で、
その中の一つに、強烈に残るエピソードがありました。
決して恵まれない家庭環境と成長過程を経て、子供の頃から様々な仕事を転々とし、軍隊を出た後、俳優への道を、マックイーンは歩み始めました。
それもまた決してスムーズではない中、「荒野の七人」をきっかけに本格的にムービースターへとなっていきます。
さらに、紆余曲折の中、70年代の「タワーリングインフェルノ」でトップスターの座を射止めたマックイーンはこう言いました。
『私の決して恵まれない環境で育ちながら経験してきた数々のことは、今の私のかけがえのない礎となっている。
私の人生の全ては、今の私のこの仕事に全て必要なことだった。』
不屈の精神を演じるマックイーンの人生もまた、不屈の精神で手に入れたものであり、その演技のリアルさは、まさしくリアルの人生と、プロ意識の結晶であることを知り、
だからリアルを感じたのかと、だから本人が滲み出ていたのかと、だから瞬間が心に刻まれていたのかと、
そこにこそ本物である仕事と生き方、すなわち人生があると思えたのです。
子供の頃、悪くて少年院に入れられていたマックイーンは、晩年、恵まれない施設へ訪れ、施設へ入っている子供達を関わり、寄付もしていたと聞きます。
私もそんな生き方でいたい。
私にも、子供の頃から些細ながらも色々なことがありました。
今の私をハタから見たら、どう見えるかは知らないけれど、それらの経験は、人に言えることも、言えないようなことや、やってきたり、やらされてきたり、辛かったり、傷ついたり、
もちろん、嬉しかったり、楽しかったり、
家業の廃業も経験したり、株式上場の過程での経験もしてきました。
時に思うのです。
今でも、苦しいことや、逃げ出したいことや、なんでこんなことばかり起こるのか?ということを。
でも、そのたびにマックイーンの言葉を思い出してきたし、思い出すのです。
そして、いつか、私もそれが言えるだけの人になりたい。
でも、まだ私には、マックイーンのように、その財力も何もなければ、影響力もない。ウンコでもハナクソですらもない。
マックイーンほどの存在にならねば、私の話など誰も聞きたくもないし、聞いたところで大きなクソお世話なのです。
私の生まれ育った界隈で、愛情を受け止めていないのだろうな、と思える友達はたくさんいました。
それは、彼らが悪かったのかどうか、家庭環境か悪かったからなのか、
どうして、あんなに心が荒んでしまったのだろう?と、私からすると思える人が多かった。
でも、私はもうあんな思いはしたくないし、当事者になど誰もさせたくない。
ならば、どうするか?
マックイーンのように憧れられて、憧れられられるような実績を持った存在になって、影響力とお金を持ち、
私の信じる平和で楽しく成長していける世の中に貢献していきたい。
確かに、最初はマックイーンの姿形に憧れ、マネから入り、コスプレで近づこうとしてきたけれど、
私がマックイーンになれないことなど知っているし、生まれ変わったらマックイーンになりたいと言ってるんじゃない。
標榜するか生き方がそこにあるのであり、それを一番具体的に説明しやすいのが、私の中のマックイーンなのです。
そして、その姿は、経営者の先輩でもある父の姿とダブるのです。
私の父は、お金を稼いだことはあったけど、決して贅沢する人ではなかった。
だから、私は自分の家は貧乏だと思っていた。
父は稼いだお金を、他の人やボランティアや寄付や、そして何より私達の教育費や家族の何かに最もつぎ込んでいたと、
死んでから分かるのです。
マックイーンの姿こそは、父とは色々とあったけれど、父は私のヒーローであったと自覚できることに喜びを覚えるのです。
だから、マックイーンと言うのが自分で自分に一番明確に分かるのです。
さて、ここまで、言っておいて、何なんですが・・・・、
では、私の認識しているマックイーンは本当か?ということです。
嘘かも知れません。あるいは誰かが嘘を伝えているのかも知れません。
そして、私のこの認識も、私のフィルターが入り、全く違ったものになっている可能性は十分にあります。
本当のマックイーンという存在など、当のマックイーンですら、誰も本当を知ることなどできないのです。
と、いうことは、私が標榜しているマックイーンと言うのは、私が私の認識している範囲のマックイーンということにのります。
それは、私が勝手に創り上げたマックイーンで、勝手に創り上げた理想であり、
いわば、私の勝手な虚像なのです。
だから、私が将来どうなりたいか?というのは、私が『なりたい私』の虚像であり、
そして、それこそが『最強の理想』なのだと思っています。
それも含めて、私の憧れの人はスティーブ・マックイーンだと言っているのです。
『人の幸せへの貢献』と言っても、大論すぎて分からない。
『父のようになりたい』と言っても、共有できない。
『歴史上の偉大な人物』だと言ってもリアルに説明できなくて嘘くさい。
虚像であった対象はリアルとなり、リアルと思っている対象は実は自分の虚像となる。
だから、極めて明確ながら不明確であり、虚ろで曖昧で、でも私の中では正しいという、わけのわからないものになっていて、
でも、それら全ての想いを込めて、だから私はスティーブ・マックイーンが理想像だと言っているのです。
良かったですか?これで。」
ね?長いでしょ?
面倒くさいでしょ?(笑)
言う方も面倒くさいなら、聞く方も面倒くさいのです。
挙句、何かご指導ご鞭撻したい方がいたとして、ここまで言われたら、なんか言うことはありますか?
あったとしても、クソ大きなお世話です。
ちなみに本物のマックイーン(笑)。
映画のスチールじゃなくて、プラベート写真。
↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
こんな偉そうで、自分でも恥ずかしくなるようなことで、自分だけが分かっておけばいいことで、
私だって聞かれてもいないのに、こんなに長くなるような心の中の説明など言いたくないのです。
でも、しつこく聞いてきてくれるなら言いましょう。
伝えた結果、私は、
「そんで?言いましたよ。言いたくもないような、こっ恥ずかしいことを我慢して言いましたよ。そんで?」
となるのです。
最悪は、
「なんかツヴォイは完璧過ぎるんだよなぁ。もっと人間臭くさぁ・・・。」
とか、論点が一気に変わって、何か喋り出す手に負えないアホ丸出しの奴とかいるし、
「うん、よく分かって、良かった。」とか、
「な〜んか勉強になっちゃったなぁ。」とか、
「そうそう、それ、その通りでね、俺の場合もね、・・・・」とか、ノリノリで自分の話をし出したりとかね、
・・・・・・、
なんだ?それ?
たったそれだけの為に、私の人生丸出しのかけがえのない心の声を聞きたかったんかい?
人の人生なんだと思ってんだ?あんたは?
となるのです。
せめて、
「ありがとう。」
だろ?と思うのです。
私の回答がどうあれ、真正面から真摯に本気で、あんたな一方的な質問に関わらず答えてくれたことに対して、
「答えてくれてありがとう。」
だと、私は思うのです。
それが言えない人は、よほど薄っぺらで浅い人生しか送ってないから、尊さが分かってないんだろうな、と思うのです。
だから、言っても分からないものはしょうがないので、それ以上はもう言いません。
ちょっと失礼かなぁ、と思いながら、
適当に話を合わせて、相手が疲れて話をやめるまで聞いてあげるか、
何か大事な話を聞けました、ありがとうございます的な状態にして終わらせるか、
バカを装うか?
その程度にします。
しかたないですもんね。それはもう。
お仕事なら別ですよ。
すでにお金を頂いてご依頼を頂いているのですから。
私が言っているのは、プライベートの場や、何とか勉強会でやれ仲間だ友達だという前提で何でも奪ってやろうとする場合です。
ここから書くことは、いちいち言ったりしませんが、
悪いが、そんじょそこらの適当に生きてるだけでプライドだけが高いボンクラや、
ちょっとやそっとの勉強と知識と人との関わりで分かったようなつもりになってる脳無しとは訳が違うよ、くらいの気持ちは持ってますよ。
でも、そんなこと言う訳ないし、そう言う気持ちを前提に人様と関わる訳ないでしょう。
大した実績もないのに偉そうなこと言ってんじゃねーよ、同じステージになったつもりでいい気になってんじゃねーよバカ、と見るからに分からせるような態度とると思いますか?
まともな人間ならそんなことしないっつーの。
だから、自分が本当に大事にしていることや、自分だけが分かっておけばいい、と思っていることは、
いちいち自分からは偉そうに言わないのです。
聞かれないと、言わないのですよ。
そういうものなんだとおもいますよ、私は。
言わなくても面倒くさいし、言っても面倒くさいし、そこから展開予測されることも面倒くさいのです。
ほらね、こういうことを書くと、ツヴォイは金でしか動かない奴なのか?とか、
人を測っている、とか、
なんだか寂しい気がする、とか、
こう書いていることも信じていいのかどうか分からなくなる、とか、
なんか本当のです姿が見えない、とか、
なんかバカにされてるみたいに感じるとか、
そういう気持ちになる人もいるんじゃないか?と思うんですね。
実際に言われることあるし。
辛いことは言ってもいいんだよ、という人もいるけど、そもそも辛くないから言えない。
無理しなくていいんだよ、という人もいるけど、別に無理してるわけじゃない。
無理しなきゃいかん時には無理するし、無理したくなくてグダグダしたい時はしてますから。
仮に、言うとしても、それは、言う相手は私が選ぶっうーの。
言える相手くらいは、私が選んで、お願いするっつーの。
それでも言って欲しいなら、一生耳元で、解決困難な画題や愚痴を言い続けましょうか?
それでいいんですか?となる。
まともに返そうとすると、どんどん嫌な奴になってくる。
こうなることも含めて面倒くさいのです。
なんの生産性もないし、ビジョンへ向けて何の生産性もないことで大切な時間を取られるから、面倒くさいのです。
面倒くさいから、適当にアホしといた方が楽なんですよ。
自分のペースでいられるから。
恥ずかしげもなくて告白すると、
私が、何を目指しているか?
目標としているか?
どれくらいの影響力と財力を持っておきたいか?
それは、スティーブ・マックイーン並みのそのものなのです。
それで、その影響力と財力で、教育とか人間成長とか、何らかの形で貢献したいと思ってるし、
私がマックイーンにこうして影響されて憧れて頑張ろうとしているように、
どっかの誰かが、私みたいな奴でもできたんだから、もしかしたら俺もまだやれるんじゃないか?と思って欲しい。
そういう領域に本気で行きたいし、夢といえば夢なんだから、
だから、あんまり時間もないだろうし、あんまり立ち止まってられないんですね。
ちなみに、本物のマックイーンと、本物のツヴォイ(笑)。
↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
いい。もういい。
こういうこと書いて、引く人もいるかも知れないけど、もういい。
私は私で勝手に進むのみ。
こんな私でも必要として下さる方の為に、ご依頼には、力及ぼうと及ばざろうと、全身全霊で関わる。
より良くなってもらう為に、出せるもの全部出す。
そういうことです。
だから、適当に聞いてくる人には、適当に答えて、
本気で聞いてくる人には、このブログをまず読んでもらおう。
その上で話を聞くようにしよう。
そうしようと思いながら、自らを纏めるのでした。
今のところの私の結論の一つ。
「最高の理想とは、完璧な虚像です。」
明日また変わるかもしれない虚ろや儚さも込めて。