「恥ずかしい」を越えるだけの「やりたい」はあるのか?

先日、友人と一緒に名古屋駅の商業施設を徘徊していた時のことです。

夏の納涼祭をイメージしたような提灯の飾り付けがあったので、

「なんか閃いた時に頭が光るイメージの画像に面白そうなんじゃないか?」

と思って、自撮りしてみたんですね。

↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓

そしたら、大して面白くなかったので(笑)、

友人にスマホを渡して撮ってもらったのが最初の画像です。

これも、まぁ大して面白くなかったわけですが(笑)。

 

撮ってもらっているときは、人通りが結構多くて、撮ってることに気づかなくて、友人と私の間を通り抜けていく人もいれば、

撮ってることに気を使って、わざわざ迂回してくれる人とか、

私の姿を見て笑いながら通り過ぎる人もいればで、

要するに結構な人に変な顔で見られるわけです(笑)。

 

なので、撮ってもらってる途中で、

「ダメだ、恥ずかしい。やめよ。」

と友人に言ったら、

「えぇ?ツヴォイさんでも、恥ずかしいんですか?」

と言うんですね(笑)。

 

いや、私も恥ずかしいですよ、普通に(笑)。

通行量の多い一般の場で、見ず知らずの人の前で何かやるのは、恥ずかしいに決まってますってば(笑)。

でも、恥ずかしいことを越えてでもやりたいことはやりたいだけで、

要するに「恥ずかしい」と「やりたい」のどちらが重いかだけの話ですから、

「恥ずかしい」の量が多くなればやらないのです(笑)。

 

そんなアホ会話をしながら、あ、そうかと気づいたんですね。

人は、恥ずかしいからやらないんだ、と(笑)。

少なくとも私の場合は、やりたいことはあっても、他人の目を気にしてやらないことは多々あります。

自分が他人からどう見られるか?というのは結構大きな問題です。

失敗したら恥ずかしい、間違えたら恥ずかしい、変な人だと思われたら恥ずかしい、恥をかくようなマネはしたくない、カッコ悪い自分は見られたくない。

そんなことばかりです。

いらぬクソプライドが色んなことを邪魔するんでしょうね。

人様に対するプライドが高い理由なんて何もないのにね(苦笑)。

プライドが高い理由なんてないのに、プライドだけが高いなんて、そっちの方がなんとカッコ悪いことか。

そういう奴は腐るほどいるけど、かくいう私もそうなんですね。

まったくカッコ悪い。

 

裏を返せば、

「恥ずかしい」を越えるだけの「やりたい」があるかどうかですね。

 

「好きなことをやろう」「やりたいことをやろう」というのは、よく言われますが、

それは「恥ずかしい」を越えてでもやりたいことなのかどうかということになります。

 

確かに「こいつ、強いなぁ。」と思うのは、よくよく聞いてみると「恥ずかしい」のハードルが低くなる体験・経験してる奴ですもん。

そういう奴には敵わないと思うもんね。

 

そこまで分かっていても、恥ずかしいものはやっぱり恥ずかしいわけだから、

それを我慢してでもやると、それは無理が出る。

無理は続かない。

だから、またやらなくなる。

その繰り返しとなるわけです。

 

でも、無理をするくらいなら、やらない方がいいでしょうね。

大事なのは、無理をしてでもやりたい動機や衝動があるかどうかです。

「恥ずかしい」ことを越えてでも、やってみたくなるほどの動機や衝動があることを「好きなこと」「やりたいこと」

とするのは、全てではないにせよ、一つの基準ではありますね。

 

よく「好きなことが見つからない。」とか「やりたいことがない。」と、悩んでいる人がいますが、

ないものはないのだから、悩む必要はないと私は思うのです。

無理せず、そのまま生きて、死んでいけば良い。

それで十分に幸せなのではないのでしょうか?

(笑)

 

とは言うものの、それもまたなんか嫌だ、という人は、

「恥ずかしい」と思えることを、あえてわざわざやってみる。

先に人前に出て、恥ずかしい思いを、まずしてみる。

大事なのは、そこで感じた感情をしっかり認識することでしょうね。

「恥ずかしい」けど「楽しかった」。

「恥ずかしかったけど」「でもまたやってみたい」。

「恥ずかしいかったけど」「でも、なんかドキドキして楽しかったから、またやってみたい。今度はもっと上手くなって喜ばせたい。」

そう感じられることが、「好きなこと」「やりたいこと」の最大ヒントなのだと思うのです。

 

人前にさらされて、他人の基準で一方的に評価されるのが、社会のそもそもなのですからね。

我が道を進むというのは、「恥ずかしい」を越える「やりたい」を続けることなのでしょうね。

 

そういう意味では、家業の廃業経験した時の信頼を失ったり、後ろ指を指されていると感じた経験はじめ、

やりたくもない学級委員や生徒会長や勉強会のリーダーをやらされれては、無責任な脳無しの批評にさらされてズタズタになった経験は、

今になって思えば、とても大切な経験なのだとも思えると共に、

そんなに大切な経験をしていると言い切るのなら、

あの画像程度で諦める私は、まだまだ青くてダメなウンコ男だと反省させられるのでした(苦笑)。

 

そもそも、生まれてきただけで恥ずかしい程度の奴だし(笑)、

生きてるだけで恥ずかしい程度の奴なのにね(苦笑)。

なのにプライドだけはあるなんて、なんてカッコ悪いのだろう?(苦笑)

そう思うのです。

クソみたいなプライドは醜いね。
応援クリックお願いします~。
↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓

ページの先頭へ