成果は「運」の結論と、その最強姑息対処法(笑)

①成果は「運」

成果に関しては、結局のところ、「運」です。

これが、今のところの私の結論です。

 

「どんなに頑張っても、ダメだった時の要因は何だったのか?」

逆に、

「成果を出せた時の要因は何だったか?」

この二つは、ビジネスにおける成果や成功を前提にした時、誰もが知識として知りたがる要素だと思います。

 

①-1.「私の代表事例2つ」

私の場合、その質問をされる最も具体的な事例は、

前者は「家業廃業」であり、

後者は「株式上場」というのが、

最も分かりやすい事例となるでしょう。

 

そのギャップが分かりやすいので、キャッチとなっていて、

その経緯を知る人達から、

「なぜ、それができたのか?」

ということで、講演やセミナー、コンサルティングといったご依頼を頂いてきたのだと思います。

 

①-2「要因分析から出した結論」

私としては、自分から意図することもなく、

ただ降り被る色んな出来事に、身を任せて、その渦に巻き込まれながら、

言ってみれば、「ただ生きていただけ」に過ぎませんが、

聞かれてみれば、確かに、

「なるほど、言われてみたらそうだよな。」

とも思ったりして、色々と考えたり、思い返したりしては、

「俺はこれだけの努力したきた。」

とか、時に、

「俺は実は天才だったのだ。」(笑)

とか、纏めてきたつもりではいました。

ビジネスにおける「失敗の要因」と「成功の要因」。

この10年近く、ずっとずっと考えてきました。

この本質さえ掴めば、

私のビジネスも、周りの人のビジネスも、成功へ導けると。

その探求と模索、そして、私なんかにお金を払って聞きに来て下さる人達への責任とすら思い、

そのプレッシャーや苦しみと共に、一応(苦笑)真摯に向き合ってきたつもりです。

10年経った今、一つの結論に達しました。

 

要するに、「運」です。

 

やっと分かった、というか、これが現段階の私の結論で、

「どうやったら、それができるんですか?」

「どうしたら、そうなれるんですか?」

と聞かれた時の、答えです。

 

うまくいった時も、うまくいかなかった時も、その要因を色々と考えてきて、(今でも考え続けていますが、)

結局のところ、最終的な結論は「運」です。

 

①-3「廃業の真実は「運」に辿り着く」

廃業した時も、無能ながらも、私なりに精一杯の努力をしたわけで、それでもダメなものはダメでした。

どんなに努力しても勉強しても、幾多の勉強会のリーダーをやって、スキルを身に付けたとしても、

あの業界の息子として生まれてきたことは、私ではコントロールできません。

あの時代であったことも、この地域に生まれ落ちたことも、あの両親から生まれてきたことも、同様に、

私がどうあがこうと、生まれる前に決まってしまっているので、生まれた後ではどうにもなりません。

私個人の努力や才能では、何ともならないことの方が、結局のところ多いのではないかと思います。

 

無論、私が元々アホで間抜けだということもありますが、

それにしたって、私だって、何も好んでアホの細胞の塊で生まれたかったわけではなく(笑)、

こういう個体でこの世に生まれ落ちたこと自体、どうしようもありません。

その全ては、もう「運」としか言いようがありません。

 

①-4「上場の真実も「運」に辿り着く」

では、「株式上場」はどうか?

私は、私が〇〇をしたからだ、という自覚が欲しくて、この10年、一所懸命考えましたが(笑)、

どう考えても、結局「運」が良かったとしか言いようがありません。

廃業した直後に、一緒に立ち上げるチャンスを頂けたのも、そういう方達との出会いがあったことも、

あの時代に最後のチャンスとも言えるリサイクルショップという業態があった時代性も、

私が自分でコントロールできたものは何一つありません。

私以外の何かが巡っていて、たまたま、その渦中に歯車のような一コマとして、私が存在していたというだけです。

どんなに頑張って自分がやってきたことを、一つ一つほじくり返してみても、

何より自分自身に、完璧かつ純度100%で納得いくだけのロジックに行き着きません。

正直に言えば、結局のところ「運」が良かったとしか、言いようがないのです。

(何となく、最後まで認めたくはないけどな(苦笑)。)

 

①-5「余談ながら、癌も、生きているのも運」

考えてみれば、胃潰瘍だと診断されたけど、調べてみたらガンだったというのも、煎じ詰めれば、単に「運」が悪かったね、だし、

にも関わらず、早期発見で胃を2/3ぶった切ったところで、今日もこうしてピンピン生きて、不摂生極まりない生活ができていのも、

「運」が良かったね、ということだけでしょう。

 

①-6「本当のことを言うべきか?問題」

でも、そうすると、講演やセミナーで、何を話すかと言ったら、

「皆さん、こんにちは。

えっと、要するに『運』です。そんだけです。

うまく行ったら『運』が良かって良かったね、

うまく行かなかった『運』が悪くて残念だったね、

ということだけなので、今日も適当に生きていましょう。

今日は、ありがとうございました。」

で終わってしまって(笑)、いくらなんでも、それはシャレにもならんだろ、ということになってしまうので、

あれやこれや、あたかも、「何をやってきたか」を喋っているだけ、ということにもなるよな、

と言ったら言い過ぎかもしれないけど、遠からずだよな、とも思います(笑)。

 

①-7「向き合うべき相手は誰か?」

この自分との向き合い方における違和感が、どこかで解消されないことが、何とも我ながら胡散臭くて、

(そもそも、実践経営時代に、何とかコンサルタントの「〇〇の成功法則」や、書籍の「これさえやれば必ずなんちゃら」のような情報には、疑ってかかる不遜な考え方があったのも影響している(苦笑))

だから、自分から、私は経営コンサルタントです、とコンテンツを売り込むことに、踏ん切りがつけられなかったのだろうとも思います(笑)。

 

②新たに生まれる問題の解決

ところが、ここでまた次の疑問が出てきます。

どうせ「運」なら、何もしなくても良いとも言えます。

なのに、今日も今日とて、私は、人生の何かを今より良くする為に、何かをして、

ご依頼を頂いたご縁のある方達に対しても、どうしたら、より良くなるのか、と、あれやこれや勝手に考えているわけです。

 

②-1「目標は、自分で創るのか、与えられるのか」

自分を推測するに、恐らく私は、

何が何でも叶えたい目標やビジョンがあって、そこに向かっていく、というより、

目の前に起こった出来事から、やるべきことが見つかるといった、

他人に目標設定してもらったり、環境によって目標設定が降ってきて、

それに対して、関係者の予想を上回るような成果を出して評価を得る、

というタイプから脱却できていないのでしょう。

(まぁ、なんだかんだ言って、ほとんどの人がそうかもしれない。自分で認めたくないだろうけど(苦笑)。)

まぁ、目の前のことをただただ一所懸命やる、といったとこでしょうね。

要するに、自分は特別だと思いたいけど、実際はそこいら辺にゴロゴロいる「凡人」(苦笑)。

 

②-2「問われる人生観や美学」

どうせ「運」なら、何かをしてもいい、あるいは、何もしなくていい、という選択肢がありながら、

こうして、どうでもいい長文のブログを書いたりして、何かをしているのです。

自分と、大きなお世話ともいえる誰かの為に、やってもやらなくていいのに、

時間と脳と指先の筋肉を使うなどという労力を費やしているわけです。

 

①どうせ「運」なのだから、何もしない。

②どうせ「運」だとしても、何かをする。

この選択肢のうち、どっちを選んでもいいのに、何故、意味があるのか、ないのか、よく分からないような②を選択しているのか?

この辺りから、人生観とか、美学とか、そういうものが人それぞれで出てくるのだと思います。

だから、

「どうせ運なら、何もしなくていいや。」

という選択もアリでしょう。

(共感はできねーけどな(笑)。)

 

②-3「最大リスクや恐怖から逃げたい自分」

私は、結果「運」だ、と口では言いながら、

本当に「運」に委ねるだけの勇気がないのだと思います。

 

結局「運」なのだけど、死ぬときに、

「もしかしたら、あの時あぁしていれば、良かったかもしれない・・・・」

と、もし思ってしまったら・・・・、

という後悔という恐怖と向き合えないのです。

 

③「自分の人生の勝ち」とは何か?

こう考えてみると、「自分の人生の勝ち」というものが少し見えてきました。

③-1「勝っても負けても勝つ最強姑息法」

私は、死ぬときに、

「私はやるだけのことはやった。バカはバカなりに、できる範囲のことは、やるだけのことはやった。」

その次に、

A・うまく行ったら、

「あぁ、運のいい人生だった。俺はやっぱりスゲェ。」

B・うまく行かなかったら

「あぁ、運が悪かったなぁ。運だからしょうがねぇや。でも、俺自身はやっぱりスゲェんだから、まぁいいや。」

の二つがあるだけです。

 

かなりの高確率で②で、そして、実際に②で終わったとしても、

「運」のせいにするという、完璧な「言い訳」が自分に効きます(笑)。

これは、どっちにしても「勝ち」です(笑)。

負けはありません(笑)。

しつこいですが、私は私自身に「言い訳」ができたら、どうあれ「勝ち」という一点がポイントです(笑)。

誰でもなく、自分にさえ真正面から「言い訳」できたらいいのです(笑)。

こんな勝率の高い人生はないでしょう(笑)。

 

③-2「勝ちの前提は自分の体験・経験」

「廃業」も「上場」も、はたから見たら、どっちに価値があるかどうかというのは、人それぞれでしょう。

(まぁ、一般でいったら、廃業は負けで、上場は勝ちなんでしょうけど)

でも、私からしたら、どっちも同等の「価値」があります。

どっちもやってみて良かったと自信をもって言えます。

(無論、反省はありますよ。いくら私のような人間でも(苦笑)。)

 

それは、きっと、

「バカはバカなりにやった。クソはクソなりにやった。

誰が何と言おうと俺はやった。サボリもグダグダも逃げたのも含めて(笑)、やったことには変わりない。

それでもダメだというなら矢でも鉄砲でも持ってこい。他にできると言う奴がいるならやってみろ。」

というくらいに、不遜丸出しで思えているからだと、思います(笑)。

私からしたら、どっちも「勝ち」であり「価値」です。

この、一見両極であり、ギャップとも言えるこの事象は、私にとっては、まるで同じ一つの出来事のように信じられています。

そう考えると、この二つの経験が私に与えてくれた影響は、とても大きいものだったのでしょうね。

 

③-3「価値と勝ちの違い」

「ビジネスの価値」という場合の「価値」というのは、社会という他人が決めるものでしょう。

しかし「人生の勝ち」というのは、自分が勝手に決めてしまってもいいとここでは一旦割り切ります。

 

③-4「絶対に勝つには、自分の土俵で自分のルールで闘うだけ」

だとすれば、「勝ち・負け」の世界なら、自分が絶対に負けないルールを、自分で作ってしまえばいいというだけです(笑)。

自分の土俵で、自分だけのルールで、勝手に勝ってしまえばいい、という超ウルトラ姑息な方法です(笑)。

 

③-5「勝ちは価値へと昇華できるか?」

そして、そして、さらに、もし、この「勝ち方」に、共感が生まれ、

一人一人の人生を自分でカスタムできる思考の法則性ができて、

誰にでも当てはまるとしたら、

それは、自分だけの「勝ち」ではなくて、人への「価値」へと昇華し、

だとしたら、ただ生きているだけで、ビジネスになるのではないか?

という、さらなる姑息かつ最大効率へと向かえるのではないか?

と、考えているところです(笑)。

 

④「私の勝ち・あなたの勝ち」

「あなたの勝ち」とは何か?

自分の人生を、あなたが創るのであれば、この設問はありでしょうね。

勝手に自分で自分のルールを創ってしまえば、それでいいのですから、簡単と言えは簡単です(笑)。

自分の人生なのですから、それくらいのワガママは許してもらっていいでしょう。

ただし、自分の人生を丁寧に丹念に振り返るという基本は変わりません。

私は、私も誰もが、自分の人生が一番尊いと信じています。

なんとなくその気になって、やってみた人がいたら、また是非教えて下さいね。

 

あ、やってもやらなくても、いいですけどね。

どうせ「運」なのですから(笑)。

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方法が分かっていても、できない私の最後の探求と悶絶(苦笑)

成果を出すには、大きく、

①方法論

②マインド

の2つがあって、

人が初動段階で望むのは、ほとんどが「①の方法論」からなんだろうけど、

どんなに方法論を知ったところで、結局は、「②のマインド面」が障壁となって、

やらないことが多い。

 

かくいう私も、上手くいく為の方法論は、ゴマンと教えられてきたわけで、

ただ、いざ、やるか、やらないか、の時点で、

やれ、面倒くさい、だの、

それはやりたくない、だの、

それは私らしくない、だの、

やる気はあるんだけど時間がない、だの、

まぁ、適当な言い訳をして、正しい方法論をその通りにやった試しがない。

 

仮に、数少ない成果があったとしたら、それは、正しい方法論を強制的にやらされた時だけである(苦笑)。

だから、本当は、成果を上げたければ、自分のマインドなどというものは、一旦全部無視して、機械のように、ただひたすらにやりまくればいいのだとは思っています。

 

反面、

それだと、それこそ機械になってしまうし、本物の機械、昨今の人工知能相手には、確実に敵わないのだから、

残された道は何なんだろうか?ともなって、そこは残りの人生で仮説と実験を繰り返しながら、自らをモルモットとして探求しておきたい。

 

ただ、このマインド面というのは、いささか面倒だと私は思っています。

 

成果が欲しいなら、やればいいのに、やらない、という、難解な問題は、

その原因はどこまでいっても本人の人生の環境や経験が大きく関わってくる領域になるし、

そもそも、それが個性という人間らしさでもあるわけだし、

あるいは、お互いに使っている言語が、意味合いとして本当に共有されているかどうかも、

いかに分かり合えたと思っていても、最後の最後は疑わしいわけで、

 

外部からの刺激や情報、あるいは質問によって導き出される「気づき」みたいなものが、仮にあったとしても、

それで本当に解決されるなら、誰もがとっくに、やるべきことを淡々とやって、成果を導き出しています。

 

そもそも、誰かのマインドを良くしようとしている、当の本人のマインドがどの程度なのか?という客観的な理解が、私にできないわけで、

私だったら、どうでもいい相手から、私のマインドに対するご指導を頂いても、

大きなお世話程度にしか思えない、そんなクソマインドがそもそも備わってしまっているわけで(苦笑)、

どこまでいっても、どんなにマインド面をご指導頂いても、

相手によっては、まるで変わらないという現実がある(苦笑)。

 

だから、逆に、私は、あぁこの人こういうマインドだからダメなんだろうな、と思ったとしても、

私が言ったところで、クソの役にも立たないんだろうな?と思って、余程のことがない限り、こっちからは言わないでいたりします(苦笑)。

 

あるいは、仮に、「私は変わったの〜」と言っている人がいたとして、

その「変わった」という自覚は、

どこまでいっても、その人の自覚の領域であるが故、

本当のところは、何がどう変わったのか、全く分からない、という問題があって、

年間100万回くらい、私は変わった、という人もいたりして(笑)、

そうなると、もう何がなんだか、私にはよく理解できません(苦笑)。

 

変わった自覚と、欲する成果が比例するかどうかは、全く別物、

と言うか、その人が欲する成果が何なのかの前提が分からなかったりする場合も多々あったりして、

とどのつまり、悶絶させられます(苦笑)。

 

挙句、40歳だ、50歳だ、60歳だ、という年齢になって、

いきなり簡単にマインドが変わるなんてのは、

その人の人生の経験と、そこから得た感情を、丸ごとひっくり返すなんてことになるわけで、

そもそも論として、果たしていいのか、悪いのか、考えものだとも思います。

 

過去、目の前で、涙を流して、何か大きな気づきを得たかのように感じる人もいましたが、

そんなものは、せいぜい3日程度から長くて3ヶ月くらいで、

ケロリと元に戻ってしまっていた、なんて事例はゴマンとあって、

そんな経験を繰り返すと、とてもとても他人様の尊い人生から得たマインドなんてものに、

求められるならまだしも、頼まれてもいないのに、私ごときが、とやかく、つべこべは言いたくなし、

また、逆に、言われたくもありません(苦笑)。

 

人は、

「労せずして成果は欲しい」

と思うこそはすれ、

「何も、そこまでしてしてまで欲しい成果などない」

というのが同居しているような気がしてなりません。

私はその代表のなんじゃないか?と疑心を持ってますが(苦笑)。

 

だから、マインドなんてややこしいものに対して、時間をかける不効率を選ぶより、

それはそれとして、放っておいて、

じゃあ、どうするか?となると、私は、残る手は、一つだと思っています。

 

マインドはどうあれ、欲しい成果を既に手に入れている人のアウトプットを徹底的に観察して、できるだけ忠実に真似て、真似て、パクってしまうことです(笑)。

使う言葉とか、良く出る単語とか、所作はもちろんのこと、

一日の時間の使い方から、読む本、観ているテレビや、取っている情報や、受けている勉強から、遊びや趣味や寝る時間に至るまで、

何から何まで、できる範囲で、できることは、できるだけマネ切る。

 

これなら、当の本人のマインドはどうあれ、アウトプットがそうなるので、

マインドとは別に、成果が出るアウトプットをしている人になって、

そういう現象が積み重なれば、社会的な客観性からすれば成果が出るという論法になります(笑)。

 

「欲しい何かを既に手に入れている人=憧れの人」、

とでもいいましょうか、

そういう対象の人がいたら、まだ、やりようは残されているような気がします。

 

という小さな可能性を信じて、私は私で、成果を出すのに正しいアウトプットをしているつもりなのですが、

少し前の、人前に立った時の、自分のアウトプット像を改めて見てみると、

それが誰の真似をしてパクっていたのかを、そもそも忘れてしまっていることに気づいてしまったりして(笑)、

悶絶にも程があるだろ、と自らに呆れてしまって、

この探求は、まだまだ続けざるを得ないと思っています(苦笑)。

 

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やっと気づく「ただ動くだけ」と「行動」の違い(苦笑)

「結果」を出すには、「行動」が大事だということは、誰もが知っているし、私もそれくらいは知識としては知っています。

 

ただ、分からないのは、24時間、誰もが何らしかの「行動」をしていて、

私も、生きている以上、一秒一秒、何かしら「行動」しているわけで、

よって、誰もが「行動」しているのに、どうして一人一人の「結果」が違ってくるのだろう?

ということです。

「私だって、こんなに頑張っているんだ。」

「俺はこれだけの行動はしている。」

なんて言う人はゴマンといて、

言う人ほど、自分が思うような結果は出ていなかったりして、もっと言うようになる。

それは一体何なんだ?と思って、よく考えてみたら、

そもそも「行動」ってのは、どんなことをするのを「行動」というのだろう?

という、そもそもの「行動」の定義を曖昧なまま使っている自分に気づくわけです。

「行動」の言葉の定義が不明確なまま「行動」という言葉を使っていたアホさ(笑)。

(これに限らず、私は、誰もが使う言葉ほど、不明確であやふやなまま、自分に都合よく使っていたりします(苦笑)。)

 

「行動」というのは、どうやら、

「目的をもって、身体を動かすこと」

らしい。

(というか、これが一番合点がいって、気に入った。)

 

やっと分かりました。

私は、

「ただ動いてる」

だけで、

「目的をもって、身体を動かしている」

わけではなかったのだ(笑)。

 

だから、こうやって、「たくさん動いている」はずなのに、何の成果も上がらないんだな(苦笑)。

 

となると、今度は「目的」の定義か・・・・・(苦笑)。

 

って、要するに、頭が悪いから、ダメなんじゃんね(苦笑)。

 

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