分かっていると思っていることなんて、分かっていないことがほとんどなんだろうな

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晴れていたので、今日は前回の富士山が見えるかな?と思って、随分手前から、ずっと見てて分かったことがあったんだけど、

「雲のかかる富士山」って、富士山に雲がかかってる時と、富士山の手前に雲があって、雲がかかってるように見える時の両方があるんだなぁ、て。

 

新幹線の中から見てると、富士山に対してこっちの視点が変わっていかのがよくわかって、

一枚の画像の断片情報だけでは分かんねーことはあるなぁ、と。

 

なんだか、いつも、ある側面から見るだけで、相手への何かを勝手に思ってて、

「ゴメンね。」

という気持ちになりました(苦笑)。

 

一つ側面は側面だし、断片情報も一つの情報。それも確か。

でも、それが全てじゃないわけで、まるで全てを分かったような気になってることって結構多いんだろうな、と改めて思うのでした。

 

分かったと思っていることは、実は分かってなんていない。

きっと、そんなことがほとんどなんだろうと思うのでした。

 

断片情報によってのみで、人や事柄の全てを分かったように吹聴するのは愚かなんだろうな、とも思うし、

あるいは、一つ一つの断片情報の瞬間に何かを感じるのはとても大切ながら、固執することなく柔軟にしなやかに流れるように生きていいたいなぁ、と思うのでした。

 

分かっていることは分かっていない。
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「発信量」と「発信力」の相関関係を考えてみる(苦笑)

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東京からの帰りに、鼻からコーヒーをホントに飲んだろか?と思った瞬間に、「!」と気づいたこと。

 

私の場合、

①「人と一緒にいると、口数が増える。」

②「一人でいると、ブログ・SNSで文字数が増える。」

③「一人でいて自撮りをすると、アホ顔が増える。」

 

「落ち着きのなさ」と「発信量」が増え続けることが比例していくことにはほぼ確信はある(笑)。

ただし「発信力」がついているかどうかは知らない(苦笑)。

「発信量」と「発信力」は別問題なのである(苦笑)。

発信量と発信力は別問題(苦笑)。
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中途半端だから意味がなくなるんだな(苦笑)

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先日、カモフラ柄のダウン着てて、

そもそもカモフラ柄っていうからには、草木の中に入ったら、どこまでカモフラージュできるんだろうか?と思って、

草木の前で立ってみたら、大してカモフラージュできていなかった(苦笑)。

何事も中途半端はいかんのですね(苦笑)。

顔とか、手の形とかまで、それらしくなるように頑張ったんだけどな(苦笑)。

 

こえなったら、インナー・アウター・パンツ・あと顔面ペイントまでして、どこまでカモフラージュできるのか、徹底的にやってみたいと思います(笑)。

 

物事というのは、少しづつコツコツと続けることで効果や成果が現れることもあれば、

一気に徹底的にやらないとまるで意味を成さないことと、

どちらもあると思うんですね。

 

一言に中途半端と言っても、

継続を途中で諦めることの中途半端もあれば、

一つのことをどっちつかずで終わらせることによる中途半端もあって、

私の場合は、大抵はどっちも中途半端です(苦笑)。

 

なので、一定期間続けられて、かつ、他人の目から見られることでちょっと恥ずかしいなと思っても、

それでもやりたい程に興味が持てることかどうかが「徹底的」の前提条件になるとは思うんですけど、

でも、そんなこと滅多にねーんだよなぁ(苦笑)。

 

だからちょっとでもそう思えることがあれば、それは幸せなんでしょうね。

迷彩柄オンパレードにして、どっか山行こ(笑)。

この時期はアウトドアはいくらなんでも寒いかなぁ、と思っても、それでもやってみたいってことは相当なんじゃねーか?と自覚しています(笑)。

 

 

徹底的にやるには、やるだけの理由がいるね(笑)。
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