「履歴」に価値は宿る
先日の札幌での講演の一コマです。
講演の際には、私は必ず自己紹介の枠で自身の履歴を紹介します。
世の中の誰もが知っている程の有名人だったり、既に人生の一通りを知ってくれている相手ばかりならいざ知らず、ほとんどの人にとって、自己紹介は必要でしょう。
特に人前で話す場合、「自分が何者であるのか?」「なぜ今、ここで人前で喋るだけの理由があるのか?」は最低限必要です。
話を聞いている側は、「ほんで、見ず知らずのあんたは一体どこの誰さんで、私があんたの話を聞く理由はどこにあるんですかい?」と思うのが一般的です。
私は講演のご依頼を頂くことはあっても、決して人様に教えられるような立場や知識はないと思ってはいますが、ただ、これまでやってきた範囲の中のことをお伝えさせて頂いて、その中からお役に立てることがあればとても嬉しいとは思っています。
よって、私の場合は、大枠の履歴と、そこから得たことは何だったのかの概略は必要となります。
先日の講演の後、主催者の方曰く、ある参加者の方からの評価が、特にとても良かったとお聞きしました。
理由をお聞きしたところ、「同じ話でも、あれだけの履歴と経験に基づいているという前提があるだけで、説得力がまるで違って、話の内容一つ一つがとても腹に落ちた。」というものでした。
私の履歴なんてのは、言ってみれば、家業を廃業したり、その後の会社でせっかく上場したのに退社してしまったりと、社会に出てから二度も流浪の旅出てしまって、懲りればいいものの、いまだ無職を標榜していて、今後もロクなこと考えてないと言えば考えていわけで、決して人様に誇れるな人生ではない訳ですが(苦笑)、それでも、聞く人によっては、それはそれで価値が宿っているということになります(苦笑)。
自分の履歴や、やってきたことに大した価値なんてない、と思っている人は多いと思いますし、私もその一人と言えばそうです。
しかし、それは、ある意味、相手が決めることとも言えます。
言ってもみないうちから、相手にとって価値がないとは言えないのです。それは相手が決めることでもあるのです。
例えば、廃業経験というのは、廃業したことがないけど、このまま行ったら廃業になってしまうかもしれないと不安を心配を募らせながら、でも何の手も打てずに日々過ぎ去っていっている人にとっては、未経験の恐さに対する一つの参考事例になる可能性は十分にあります。
店舗数しかり、自分では一店舗なんて誇れないと思っていても、これから立ち上げようとしている人にとっては聞きたい情報はたくさんあるだろうし、社員数10名は、社員が欲しいと思っている人にとっては、どうやってそうなれたのかは聞きたい情報となります。
水の流れと同じように、情報は常に高い方から低い方へと流れます。
今の自分の経験値がどうあれ、その経験を標榜している未経験者にとって、その経験は価値ある情報と成り得ます。
それを最も端的に伝えられるのが、履歴であり、実績ということです。人は、まず実績に対して着目します。次に、その実績に対して興味がある場合、どうやってそれができたのか?に価値を見出します。
私の知る限り、この順序が大方です。
自身の履歴や体験・経験を、自身がどう考えるかはあるにせよ、それが他人にとって価値ある情報になる可能性は十分にあると思うのです。
伝えてもいないうちから、自身の履歴に価値があるかないかを決めるのではなく、伝えてみて、相手がそこに価値を見出すかどうかを決めればいいのですから、自身の履歴は伝えてみればいいのだと思うのです。
大事なのは、相手からの一方的な評価を気にしないことでしょう。
自分ではどんなに立派な履歴だと思っていても、相手にとってはクソほどの価値もないこともあるし(こういう奴も多い(笑))、自分では大したことない実績だと思っていても、相手にとっては人生を変える程の尊い情報と成り得たりするのです。
そんなのは伝えてみなければ分からないのです。
こういうのを「花は観手に咲く」って言うんですかね?(ちゃんと勉強しておきます(苦笑)。)
と、いうことを改めて実感した経験でした。