仕事における「モチベーション」の正体とは何か?③
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「モチベーションの前提は、具体的な目標があること」
という話があって、経験上、それは確かにそうだと私も思う節はあるのだけど、
仮にそれが正しいとすると、私は、今、これといって目標らしい目標を持って生きているわけではなくて、
あったとしても、とても人様には言えないような恥ずかしいようなことだったりして(苦笑)、
ということは、モチベーションというものは、私には存在しないということになる(苦笑)。
せいぜい、アホな画像撮ろうとしたり、アホな文章考えたり、アホなラクガキしてみたくなったり、アホ話を考えたり、
そういうことは日常的にあって、刹那的に恐ろしくモチベーションが上がる実感はあるけど(笑)、
そういうのは、巷では「目標」とか「モチベーション」は恐らく見なされないわけで(笑)、
(自分でも自分に見なされないけど(苦笑))、
それは、恐らく自我とか欲求とか趣味とか快楽に溺れているとか(笑)、そういう言葉で一纏めに括られるんだろうなと思います(笑)。
じゃあ、目標のない人生なのだから、そもそも生きるモチベーションがないのか?と言われれば、
実際に今日もこうして、どうでもいいようなブログを書きながら生きているのだから(笑)、
多かれ少なかれ、モチベーションというものは、きっとあるにはあるんだろうな、とは思ったりするわけです(笑)。
そうなると、果たして、「目標」と「モチベーション」というのは常にリンク仕切るのか?と、
前記した「モチベーションの前提は目標である」という前提が疑わしくなってくるわけです(笑)。
だって、大した目標もなく、でもとりあえず生きるモチベーションだけはあるにはあるだろう自分がここにいるわけですから(笑)。
「目標とモチベーション」の相互関係において、私の過去最高の経験といえば、
間違いなく、廃業から株式上場に至る10年の経緯においてでしょう。
あれは、自分が頑張ったとか、自分の中でやるだけやったんだから、とか、そういう自己評価とか自己満足とか自画自賛とかなんてのは一切関係なく、
第三者が一方的に決めた一定の評価基準(大きくは業績と法令遵守と社内コンプライアンスの3つ)をクリアするかしないかだけの世界でしたから、
そこには明確な「ねばならない目標設定」というものがあったと言えます。
前提が「目標」ではなく「ねばならない目標」なのだから、そこに個人的なモチベーションもへったくれもないわけで(笑)、
自発的にやりたいわけでもない「ねばならない」ことに対して、
同じやらなきゃいかんのなら、どうしたら、せめて少しでも楽しくできるのだろうか?とか、少しでも面白くならんのだろうか?とか、考えては実験してみることに命を賭けるわけで(笑)、
そうなるとアホ極まりない状態が目立つわけで(笑)、
その姿は、はたから見れば、好きなことばかりやって、とか、いかにも楽しそうにして、と映るのかもしれませんが、
当の本人は、本人なりに必死に考えて行動しているわけです(笑)。
そういう思考や行為そのものを「モチベーションを上げる」というならモチベーションなのでしょうが、
じゃあ「あの経験をもう一度やろう!」と、私がなるか?と言えば、一切ないわけで(笑)、
それは、果たしてモチベーションがあると言えるのか?となるわけです(笑)。
個人的な結論から言うと、まるでありません(笑)。
これは、まぁ、後から気づいたことでもあるし、何度か書いていることだけど、
当時の私の本当のモチベーションは、自分のせいで家業を廃業することになってしまって申し訳ないと思っていた両親に報いたいという気持ちや、
他人から「ツヴォイは、色々リーダーとかやって偉そうなこと言ってたけど、結局、家業廃業して、それなりに頑張って生きたけど、そんでただ死んでくんだろうね。」と他人に思われたくないという、人からどう見られるか?ということが気になってただけ程度だったんだろ?
と自分で思うのですね。
そんなもんは、自己承認欲求とか、他人承認が欲しいとか、そういう人間の本能ともいえる欲求が強かっただけで(笑)、
だとすると、「モチベーションの前提である目標」を達成しようとする、そもそものモチベーションは、
ただ生まれてきて、今日も生きて、いつか死んでいく中での、動物的な本能だけなんじゃん、
ということになってしまうわけで(笑)、
でも、そんなこと言ったら、元も子もねーじゃん、という所に落ち着いてしまうわけで(笑)、
それはそれで、社会で生きる人として、ホントにえぇんかい?という気になったりもして、難しいところではあります(笑)。
まぁ、そんなようなことを経験しながら、いちいち考えていると、人はどんな風に考えているんかなぁ?と聴きたくなってしまって(笑)、
「モチベーションの前提は目標である」と、言葉だけ記憶して、そこから思考せずに、見解を譲らない人には、「ホントの本当にそうなんですか?」と根拠を聴きたくなってしまうし(笑)、
「頑張るぞ」とか「楽しくいたい」とかしか言わない人には、そんな人間の本能として当たり前のことを、いまさら声を大にして言わんでもいいから、具体的に「何を?」と聴きたくなってしまいます(笑)。
なんでこんなこと考えては、書き連ねるかというと、それだけ、仕事に対するモチベーションや社員育成に対するご相談が多いからで、
それだけ、経営組織においても、社会的にも問題視されているんだろうなのだろうなとも思うし、
ビジネス環境が不透明でまるで正解のない今は「自分で考えて、自分で行動して、自分の成功事例と失敗事例をたくさん持てる人」が求められているんだろうな、とも思います。
ご依頼頂く講演のテーマも「行動」や「実践」「体験経験」「覚悟」といった、やるかやらないかに纏わる属人的な要素に関わるものが、圧倒的に多かったりします。
ただ、「社員のモチベーションが上がらないんですけどぉ。」と漠然と相談されても、「私も知りまへんがな。」となってしまうので(笑)、
まずは詳しく詳しく聞いてみないと、分からないということなんですけどね。
時々、「モチベーションは常に低く見えるけど、任意の実績だけは常に出し続ける社員がいたとして、その人のモチベーションは高いか低いかどっちですか?」と聞くことがありますが(笑)、
そういう極論を聞かないと、ご相談者の本意が分からないことはよくあるのです。
まぁ、大抵は、「自分が気にいるように思い通りに受け答えして、動いてくれて、実績も出してくれる社員が欲しい」という、全部欲しいということになって(笑)、
「そりゃ、トップがそもそもあんただから無理だよ。よく『花の周りにはミツバチが集まり、ウンコの周りにはハエが集まる』でしょ。」ということになって(笑)、
きっとホントはそこからスタートなんだろうけど、そこから考えるのを面倒になってやめたり、どうせダメなんだからと諦める人は、
そもそも、人のモチベーションについてあれこれ考えるのは諦めた方がいいでしょうね(笑)。
こんな難解で正解が分からないことほど、自分で自分なりの結論を一旦出して進んでいくしかないのですから(笑)。
自分で考えみて、人の見解に耳を傾けて、一旦飲み込んでみて、ウ◯コに出してみて、
(おぉ、アホ画像とここでやっと繋がったぞ!(笑))
繰り返しそれをやらないと、今の自分なりの考えすら分からないのですから。
自分で実践しながら、他人の具体事例も聴きながら、一緒に考えては、また実験を繰り返し、
そうしながら、だんだんとバリエーションが増えていったり、組み合わせができてり、思考の巾が広がったり、深みを増したりしていくのだと、私は思っています。
こういうことをいちいち書くことを、本能というのか、モチベーションというのかは知りませんが、
少なくとも、世間ではどう考えてもアホ画像としか思われない画像(苦笑)を、何としてでもブログに出したいという稚拙な欲求が、
ここまでの面倒な長文を書かせているモチベーションになっていることだけは確かなわけで(苦笑)、
多くの人が望むように、私もまた、必要だと思いながら、自分ごとだけに、探求するわけです(苦笑)。
果たして、生まれつきのようなものなのだから諦めた方がいいのか?
人は変われるものだと信じてやってみるのか?
そこに美学や哲学が問われているような気がするのです。